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【辛いときには下を向け】

「辛いときには前を向け」「辛いからこそ前を向け」と
自分に言い聞かせながら歩くのだが、


ある日ふと、「それって俺に主導権ないよな?」と思った。


「これが正しい」という自分以外の誰かが決めた
正解に従うことは性分的に納得いかない。


「よし、徹底的に王道の真逆をやってやる」と、
下を向いて歩くことに決めた。


足元が視界に入った。半歩ずつしか足が前に出ていない。
しかし、半歩ずつでも確実に進んでいた。
一歩一歩、ならぬ、半歩半歩の前進だ。

この半歩を積み重ね続ければ、遅かれ早かれ頂上には必ず着く。

前を向いてようが、下を向いてようが、ご機嫌だろうが、不貞腐れてようが、この半歩を続けていれば絶対に頂上にはたどり着くのだ。

今まで辛くて辛くて仕方なかった心と身体も、ふっと楽になった。


「俺は下を向いて進む。前を向きたくて向きたくて仕方なくなるまで、
絶対に前は向かない」と決めて歩みを進めているうちに、
無性に前を向きたくなる。


ギリギリまで我慢して、前を向いた。「おぉ~、何気にイイ景色♪」

その後も下を向きたいときに下を向き、前を向きたくなったら前を向く。
という当たり前のことを繰り返していると、
案外、アッサリと峠を越えることができた。

ご用聞き経営を通して学んだことは、
人の内面には3つの声がある、ということだ。

1つは、身体の声。
1つは、心の声。
1つは、頭の声。


大抵の場合、心の声と身体の声の意見は一致しているが、
頭の声だけがそれらの声に反発しようとする。


「気合だ、根性だ、これが正しい、あれが間違い」と言って、
まるで不登校の子どもを一方的に叱り付けるように、
頭の声が心と身体の声を否定する。

短期的に心と身体の弱気に発破をかけて、
やる気を奮い立たせるのであればそれでもよい。

が、長時間もそれを続けることは現実的ではない。

普通に、それが対人関係であったら、鬱にもなりかねない。
鬱にもならずとも、自信を奪い逆に気力を削がせることにもなるだろう。


好調なときを善しとして、不調なときを悪とする
ジャッジメントがそこにあるとき、前に進むことを阻害する。


好調も不調もあって然るべき、と受け入れるときにジャッジメントはない。


その結果に生じるすべてに自分自身で責任を持つ主導権が握られているときには、それが正解だろうが不正解だろうが、人は前に進める。

そして、何より、3つの声が一致したときには、
人は自然の摂理に順って
いわゆる「王道」なる言動に添いはじめるものだ。

仏教のお経の中でも最も有名な「般若心経」は、
「有るでもない、無いでもない。無いでもない、有るでもない」という
非常に曖昧な「空(くう)」という物事の理(ことわり)を説いている。


つまり、どんな真っ当な教えも、
正しいが間違い、間違いだが正しい、のであって、


「こうでなければならない」という教えに価値観や視点を
支配されることは、それらに主導権を奪われているということだ。


「清濁併せ呑む」とは、清水にも濁りはあり、
濁水もまた清らかな反面がある、という物事の理を説いているのであって、


正しいが間違いである手段を選ぶとしても、
間違いだが正しい手段を選ぶとしても、

今の自分がどちらを選びたいのかを心に問うて、
その答えに全責任を負って頭でも寄り添ってあげることが、
真理の道に一歩近づく最善の道なのだと思う。


辛いからこそ前を向け。
そして、辛いときには下を向け。


「正解」や「間違い」に捕われる必要はない。


心の『調・和』、
体の『姿・勢』…大事ですよね。


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