見出し画像

My Learning Log of Law】児童福祉法in The U.K.#002】1989年児童法に「親責任」が取り込まれた意味を考える。

01 「親責任」が1989年児童法内に…


前回#001で「親責任」が1989年児童法に導入されたのは大きな改正であったと指摘した。この意味について、今回は、もう少し掘り下げて話をしようと思う。
 1989年児童法は日本の児童福祉法などに相当する法律と説明した。日本の児童福祉法は児童相談所が家庭内で虐待などの問題があった場合、支援・親子分離を行うなど、家庭に対して介入する根拠とされる法律である。
 児童相談所は行政機関として位置付けられるが行政機関が「権力」・「権限」を行使する際には必ず法律の根拠に基づいて行われなければならないことを「法治行政」や「法律に基づく行政」という。
 行政機関が、自由にその「権力」「権限」を行使できれば、その濫用により国民の権利が侵害される可能性があるため、また、そのような歴史から国民の代表者で構成される国会が定める法律で行政をコントロールするというのがこのルールの狙いである。
 行政を含む国家活動に関する法領域を「公法」と呼び、一般私人に適用される法領域である「私法」とは区別される。
 そのため、日本の児童福祉法が「私法」か「公法」かと尋ねられれば「公法」が正解である。

02 公法の中に私法の「親責任」の定め。。。


 したがって、日本の児童福祉法に相当するイギリスの1989年児童法も「公法」として位置づけられるだろう。1989年児童法は、地方当局が、家庭に対して権限を行使する場合に踏むべき手続を定め行政作用を拘束している。
 このような「公法」に位置付けられるべき1989年児童法に「親責任」という規定を設けることは「公法」の内部に「私法」を取り込んだことを意味するが、何故「親責任」という私法の規定を「公法」内にわざわざ組み込んだのだろうか、という疑問がわく。
 単に「親権」を「親責任」という概念に変更し、民法に定めれば足りるとしなかった特別な理由がそこには存在すると思われる。

03 親権の位置付け


 法律を学ぶと、次の法格言を学ぶ。

「法は家庭に入らず。」


である。
 この法格言は刑法で親族が加害者・被害者となった窃盗罪における刑の適用を制限する親族相盗例を学習する際に紹介されたのを今でも覚えている。家庭内での紛争に法は積極的に介入しないことを意味する。
 国家が、社会の最小構成単位である家庭内部の問題・事象に介入することは適当でないとするのが本格言の意図である。たとえば「家族は全員朝起きたら、挨拶しなければならない」というようなことを国が法律で定めることに対して皆さんは違和感があるだろう。
 この法格言の考えに素直に従うと、児童相談所が親の虐待について子どもを保護することは、国が家庭の内部に介入することにほかならない。つまりこの法格言にも抵触しているように思われる。
 古くは、親権は神聖不可侵なものとして国が介入・制限できないものとして理解されていた(実は、イギリスでも同じような評価であった時代があるらしい。)。
 ところが、親による子どもの虐待が社会問題として認識されるようになると、国が親権をも制限し、子どもを保護することを容認されるようになった。いわゆる国によるパターナリスティックな介入が正当化されるようになった。この段階に至ると、親権といえども神聖不可侵なものではなく、法が家庭の内部にはいることが許容されるようになる(先ほどの法格言も減退していくことになる。)。

04 親責任を全うさせるために

 以下は、あくまで私の推論である。したがって、1989年児童法の立法過程の文献の調査をしたわけではないことを留意してほしい。
 国家によるパターナリスティックな介入が、単に「子どもを保護するため」という大上段に構えた大義名分のみで正当化されることについて、法治行政の原則によれば、行政機関の裁量が広く認められる可能性があり不安がある。また、先に書いた通り、親権という権利は神聖不可侵でなく、国家権力との関係で劣後する脆弱するようになったが、児童虐待対応の現場ではなお、親が親権を引き合いに出し、行政介入を事実上阻害し、行政介入の機能不全な状態を引き起こしていたのではないかと予想される(これは今の日本の状況に近いかもしれない。)
 イギリスは、ECHR( European Convention for the Protection of Human Rights and Fundamental Freedom 1950 / 1950年欧州人権及び基本的自由の保護に関する条約)を批准し、同条約は、第6条の公正な裁判を受ける権利、同第8条で家庭内のいわば自治が保障している。これらは、国家権力の不当な家庭への介入に対し、親が自らを防衛する人権として利用されている。
 重篤な児童虐待事件が続く中で、国家の介入に対しては上記「人権」を親が積極的に主張する流れになったことは想像に難くない。
 話は少し変わり、国会議員が責任をとる時、職を辞するという事をいうが、それが本当の意味で責任をとった事になるのか疑問に感じることがある。
 親責任も「責任」というだけで責任が全うされないならば、絵に描いた餅のような概念にすぎなくなる。
 まらに、親が子どもに対して親責任を果たさない時に、国家が親にその責任を全うさせるよう働きかける事ができて、つまりその実効性が確保されて初めて意味がある。 
 1989年児童法が、国家権力の行使を根拠付ける法律として定められ、同時に同権限を行使する対象(介入する対象)である「親責任」も1989年児童法内に定めて「責任」と「責任追及方法」を同一法律内に収めることは自然な流れのように私には感じられる。
 日本では児童相談所の権限行使の根拠を児童福祉法に定めるが、他方で親権は民法という「私法」に残したままであり、そこの法レベルの違いが、親権に対する児童相談所の介入に一定の障壁が残る気がするのは自分だけだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!