そんなの誰だってあるよ

わりとよく聞くこの言葉。明らかに「この甘ったれが!」と言いたい場合はさておき、ほとんどの人はポジティブな意図で善き言葉がけだと思って発していると思う。

そんなの多少なりとも誰だってあるよ。自分もたぶん⚪︎⚪︎だよ!って、当事者からしたらなんのなぐさめにもならない、ちくちく言葉でしかなかったりするのだけど、

まぁまぁそんなに考え込まずに、自分なんてダメって思わないでさ、もっと気楽に考えよう?

みたいな、この人の気持ちを少しでも軽くしてあげたいという、やさしさから言っている人がほとんどだと思う。

それがわかるから、これを言われてしまうともう「そうだよね」と返すしかなくなる。こころの状態があまりよろしくないときはなぜか「すみません」と謝ってしまうときすらある。

多少どころで済んでないからこまってるんだけどなぁ……話さなければよかったなぁ

が心に渦巻き、苦笑いを浮かべるしかなくなる。けれど、なんて無神経だ!とそちらにフォーカスするのではなくて、あくまでもその人が向けてくれた、優しさというエネルギーにのみフォーカスするようにしている。

そのやさしさがたとえ自分にとってはただの切れ味の鋭いナイフだったとしても。

自分が感じた「ちがうんだ、ちがうんだよ」
は、その人に力説する必要はない。もちろん、怒ったり、その人をダメな人だとか、思いやりがない人だな、と思うこともない。

自分同士で「ちがうよね」「うん、ちがうよね。でもわかんないよそりゃ、その人はわたしじゃなし、わたしもその人ではないもんね」「でもまぁ、ぜんぜんうれしくないよね」と対話して納得すればおわる。

これは単に心が広いからだとか、やさしいからでは、ない。全然ない。

それを今からなんとか説明できたらと思う。

よかれと思って、その人のためを想って、喜ぶかな?助けになるかな?と考えて言ったりやったりしたことで、逆にその人を傷つけてしまったり悲しませたり不快にさせてしまうことなんてわたしもおそらくほぼ毎日ペースでやらかしてる自信がある。

すぐ裏目に出る人選手権大会がもしも催されたなら、
まちがいなく、ぶっちぎりで
札幌の強化選手入りを果たすと思う。

先日も、作家・芸術家・いのっちの電話主宰の坂口恭平さんの余市での個展&ライブの2日目に、急遽その日も歌ってくださることになった。何曲目かのあと、しばらく考えながら持参した楽譜?を漁っているのを見て、

もしかしたら、急だったから何歌うか決めてなくてどうしようか迷ってるのかも!恭平さんを助けになるかな?と思い、とっさに小声でリクエストしてみたら「きょうは別の曲でw」と却下された。

完全に余計なお世話でしかなかった。
恭平さんはやさしいので笑いながら軽く流してくれたけれど、ああまたやってもーたー!と思った。

わたしがリクエストした曲は、前日にも車の中でリクエストしてすでに歌ってくれていた曲だったので、

こいつどんだけその曲好きなんやw
まったくがめついな!と思われたと思う。
(咄嗟だったのでほかの曲が思い浮かばなかったのだが、今思えばもしかしたらほかの曲だったら歌ってたのかも?)

実際に帰りの車内で「すぐ嫌われたかも?と思って好き避けが激しくなってしまうんです」と話したら、

まったくそんな感じに見えないけど!笑
全然できてるように見えるよと言われた。
(おせんは意外と遠慮するからなーとも言ってたけど)

そりゃそうだ。

しっかり名前入りサインもツーショット写真もおねがいしておきながら、な〜にが遠慮しちゃうんですぅ🥺だ!と自分でも思う。

はずかしくて、存在を認識されるのがおそろしすぎて、遠慮して、その人がしてほしい(かもしれない)、またはその場に必要なアクションをできずにその人が困ったり悲しくなったりするくらいなら、あとから後悔するくらいなら、合ってるかはわからないけどやってみよー

と思い実行するのだが、正解や加減がわからず、逆に空振り三振でただの空気読めない人になって、迷惑かけたり引かれておわる。

そのことがときどきとてもつらくなるし、
そうなるのが怖くて独りで居たいわけではないのに独りでいたほうが楽で、わたしみたいなもんは、息子や好きな人や友達や推しをただ遠くから見てるだけでいればいいのかなぁ。と悲しくなるのをどうにかしたい。割り切って孤独を楽しめるときと、そうじゃないときがあるし、欲深い自分に抗えないときもある。それが積み重なると無気力やうつ症状にもつながる。

ということを伝えたかったのだけど、
じょうずに伝えられなかった。

多くの人と感覚がちがいすぎて
人のきもちがわからなさすぎて

その人がしてほしい(かもしれない)

↑これをいつも盛大に豪快に読み違えるのだと思う。

なにもしない、言わないようにしようとすると、女なんだからもっと気を遣えと怒られてきたのでそれもこわい。
(今書いてて気付いたけど、だいぶ手放したり対話してきてはいるものの、過去の嫌な記憶に支配されてることがまだまだたくさんあるなぁ)

あとは、よく見ているようでいて、
実際はその人のことがなにも見えてない。
わかってない。

これもある。

自分なりの思いやりが裏目に出るたび、嫌われ、時に怒られ、こちらの意図は理解されないまま、自分のことしか考えない自己中女が爆誕する。そのたび、申し訳なさとやるせなさと誤解される悲しみに襲われる。

ただ、素でスーパーナチュラルボーン自己中ちゃんでもあるので、ほんとうに自己中だったなと反省するときと、ああん、そんなつもりじゃなかったんだけどなぁぁ😩と、ひたすら落ち込むときに分かれる。

誰か1人でもわかってお願いと心の中で咽び泣いている。

そういうわけで、冒頭の「誰でもあるよ」など、自分が傷つく側の立場のときも、ふだんの自分を救うかのように、相手の気付いてない言葉のチョイスミスにも寛容になれるのだ。内容にもよるしいつもじゃないけどね。

人を寛容し許してるようで、ほんとうは失敗だらけの自分のことを否定したくないのだと思う。

むかしはこれが真逆で、自分のそういう部分も認めたくなかったぶん、人にも不寛容だったと思う。いまもまだそうかもしれないけど。

自分自身にゴーサイン、許可を出せていないものは人に対しても認められないことがほとんどだと気付いてからは、自分なら絶対にそんなことしない!言わない!と思うたびに、まてよ。この人の姿かたちで、同じ環境、同じ親のもとで生まれ育って、同じもの食べて同じ病気したり嫌な思いしてきたら、もしかしたら自分も同じことを言うかも、やるかも、と立ち止まって考えるようになった。

別の次元では自分はこの人と同じ状態だったかもしれないと。

このひとは、どんな想いで今このことばを話したり、こういう行動に出ているのだろう?

と、自分視点ではなく、その人が生まれたときからをゆっくりゆっくり想像してみると、すこしだけ見えてくる。正解に近づける。その瞬間がとてもうれしい。
 
けれどさっきも書いたとおり、後から時間をかけて気付くことはあるけれど、そのときに瞬時に正解を導き出せることは少ない。そのときにその人にとっての正解が出せたらどんなにいいだろう。

それは、もしかしたら人も同じかもしれない。

せめてその視点だけは忘れずにいようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?