「反乱」『カラマーゾフの兄弟』レジュメ
「Pro et Contra」のなかにある。
光文社と岩波書店の文庫では、2巻にある。
イヴァンが作った詩劇を語る、「大審問官」の直前の章。「大審問官」のはなしを理解するためにも大切な章。
ここの章もよく引用され、討論される。今回も、登場人物たちが取り上げた論点や意見を討論したい。
この下のリンクから読めます
該当箇所をリンクで指し示せないので、自分で探す必要がありますが、こっちのほうが読みやすい。「謀叛」(「謀"反"」じゃない)と本のなかで検索して、2個目の検索にひっかかった箇所をみれば、該当箇所にとべますよ。
このレジュメに目を通したあと、本文を読むと理解しやすくなるようにしている。ここに投稿したものは、右側にあるべきである註釈などをすべて省いてある。著作権あたりめんどくさいので、ここでは画像もはぶいた。個人的に連絡してくれたら、完全版のレジュメをわたせるので遠慮なく。
レジュメのつかいかた
本文が長すぎて全部読む気がしない人
「あらすじ」を読んだのち、該当箇所の「さあ、聞いてくれ、僕は鮮明を期するために、子供のことばかり例にとったんだ。この地球を表面から核心まで浸している一般人類の涙については、もう何も言わないことにする。」以降を読む。もし難しすぎたら「要約」をヒントにする。自分でがんばって要約をつくってみるのがいいだろう。
本文をすでに読んだ人
自分自身で要約を頭のなかでつくってみる。「説明が必要であろう言葉まとめ」をヒントに。
本文をまだよんでないけど、読もうと思う人
「あらすじ」「説明が必要であろう言葉まとめ」に目を通して、本文を読む。
該当箇所も読んで、さらに読みたいひと
前後の章をよんでもいい。「関連本のご案内」の本を読んでみる。KOSMOSからオンラインで読める。「すくなくともあの子だけは、罪などなかった」を本の中で検索すると、該当箇所がよめる。
あらすじ
アレクセイ(アリョーシャ)とイヴァンは、レストランで話をする。この章の直前に、イヴァンは「世界を許容しない」といったので、そのなぜそうなのか説明をする。
要約
人類愛、隣人愛
「イエスのいう、『隣人を愛せ』[1]はとても、難しいことだね」と、イヴァン本を読んだ感想を述べる。しかし、アレクセイは、人間性のなかには愛があることを指摘する。詳しく説明しようとするアレクセイを遮ってイヴァンは「まだそんなのを知らない」とイヴァンはいう。イヴァン曰く、そんなものは「理解することすらもできない」。そんななかで「隣人ふくめ人類すべてを愛せるのはキリストの奇跡」で、「この世にありえない奇跡」とする。でも、人間たる「われわれは神じゃない」。ここから論をイヴァンはひろげようとするが、あえて子どもだけに話を狭める。
児童虐待
イヴァンは、この後につづく議論の下敷きにしようと、見聞したこどもの虐待のはなしをかたる。どれも、理不尽で悲しいものばかりである。
罪なき子どもの苦しみ
イヴァンは、先に自分自身で挙げた例のような、罪もない子どもが苦しむ理由が理解できない。「最後の審判が行われ神の国が実現するために、なんで子どもが犠牲にならなければならないのか?」と問い詰める。
その上、「地獄がなにになるんだ」と、いう。「罪がない者が苦しめられたあとに、地獄があったって、何の助けにもならない」ことを指摘する。無実の苦しみが、未来の調和をつくることは理不尽に感じられた。神が赦すことの背景に、罪なきものの苦しみがあることを、見逃さない。
神の秩序の調和とその対価としての子どもの苦しみ
「神のつくった秩序、いづれ来たる神の国を完成させるために、罪もない子どもが犠牲になっているくらいなら、神のつくった秩序なんて要らぬ!」とイヴァンはいう。「神を承認しないのではな」く、「ただ、神の国が認められないだけだ」と誤解しないよう、イヴァンは注意をする。
神への謀叛!
これを、アレクセイは神への叛乱(謀叛、蜂起、叛逆)だという。イヴァンは「叛乱せずにはいられない」と開き直り、そして、「叛逆」なんてことを言うアレクセイ、それも、神をつよく信じるアレクセイに、イヴァンの話をわからせるため、問い詰める:
「おまえが最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとしたら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を是が非でも苦しめなければならない…と仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するか?」。この問いに、アレクセイは、イヴァンの目論み通り、「承諾しない」、つまり、アレクセイを、罪なき者が苦しむ図らいをつくった神への叛乱へ賛同する、といわせるのだ。
赦す権利を持つ唯一の者
しかし、その後、アレクセイは許す権利を持った人がひとりだけいるとする。イエスのことだろう。「このひとを基礎として、人間を幸福にする目的で建てられている人類の運命の塔がある」と、理論を展開する。罪なきものが自らの血をながすことによって成し遂げられる調和で、無実の子どもが苦しむことによってなりたつことを否定せずに、すべてを赦す神の愛が基盤だとする。
そこで、反論になっているかどうだろうか、イヴァンはこのひと、イエス・キリストが主人公の劇詩(小説みたいなもの)を聞かせる。それが、「大審問官」で次の章で扱われる話である。(また「大審問官」の章は、別の回の読書会でまた扱うつもりです。ぜひ来てね。)
説明が必要であろう言葉まとめ
この言葉のまとめは、おもに国語の文章の註釈をイメージしてつくられている。現代文なり古文なり漢文なり、解答や読解のヒントになるものをことばで説明してある。わたしが受験生のころは、註を先に読んでから本文をよんでいた。
アリョーシャ (アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ、リューシェチカ)
「余(ドストエフスキー)はアレクセイを自分の主人公と呼んでいる...」
「単に若き博愛家」「この青年はどこに行っても皆に好かれた」「彼はセンチメンタルであった」「天性潔白にして真理を要求し、遂にそれを信じることになった...」「不死と神とは存在するという信念に打たれる」
アレキサンドロス(「守り人」)を示すロシア語の名前。
イヴァン(イヴァン・フョードロウィチ・カラマーゾフ、イワン、ワーニャ、ワーネチカ)
「あれほど学問が出来て、あれほど気位の高い、あれほど用心深い青年」
「男女学生の大多数に較べて、実際的にも知的にも、一段頭角を抜いている」
「僕は神様を承認しないのじゃない、ただ『調和』(=神の創った秩序)への入場券を謹んでお返しするだけだ」
ロシア語でヨハネ(「ヤハウェは恵み深い))をあらわす名前。ヨハネはドストエフスキーのお気に入りの聖書の巻の名前になっている。
ゾシマ長老
「(オプチーナ修道院の)長老職はもう三代もつづき、ゾシマはその最後の長老である」「この人は死になんとしている」「この修道院がが興隆をきわめて、ロシア全体にその名をうたわれたのは、ひとえにこの長老のおかげであった。」「彼がなにかしら一種独特な性格でアリョーシャの心を震駭させたのは、疑いのない事実である。」「(アリョーシャは、)ゾシマ長老が庶民の信じているその当の聖人であり、真理の保持者であるということを疑わなかった」
この小説の第六編「ロシアの僧侶」は、アリョーシャが編纂したゾシマ長老の伝記になっている。
ヨアン、イヨアン
※使徒ヨハネと、洗礼者ヨハネは別の人物
ヨハネ(「ヨハネは恵み深い」)を、スラヴ語やルーマニア語でいうと、ヨアンとなる。ロシア語の原文では、Иоанна Милостивогоである。登場人物のイヴァンと同じ由来をもつ人名をもつ人物。
誰のこと? 実在する人物?
チェルケス人
チェルケシアの人間という意味。
右地図参照(地図で強調されているのは、首都チェルケスク)。ただ、本文中では、歴史的背景から、
いまのチェルケシアとすこし指している地域が違う。
今でもチェルケスを名前に含む国がある(カラチャイ・チェルケス共和国、ロシア連邦の構成国)。
上流社会で宗教運動が始まったころ
ニーコン・ロシア正教総主教は、1653年に教会の儀礼の方法を大幅に変更した。その改革は、ロシアの固有の方法を、ギリシア式にした[1]。これは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅びたことにより、ロシアが東方教会の中心になる必要があるからとされている。
※本についている註釈とちがうかも、上は仮説の一つとしておもってほしい。
農奴
農奴serfは、奴隷slaveではない!! 農奴は、農業をする奴隷のことではない。たしかに、実態は似ていたかもしれないが、制度の上では区別される[2]。
これを誤解している人がおおいので、ここに解説をかく。
農奴は、土地に制度上、縛り付けられている農民のことである。基本的に、土地をうれば、それに縛り付けられている農奴も一緒に売られる。
奴隷については、時代や場所によっておおきく違うので説明しづらいのだが、一応説明しよう。生物的には人間でありながら、人間としての名誉や権利を剥奪された人々である。
たとえば、まだアメリカに奴隷制があったころ、アメリカ南部で綿花栽培をしていたのは、奴隷である。そして、これは農奴といわない。なぜなら、彼らの奴隷は土地と結びついていなかったからだ。奴隷は奴隷だけで売買できた。農奴はこれができない。これからも、農奴が、農業をおこなう奴隷ではないことがわかるだろう。
ユークリッド式 エウクレイデス
平面の上の数学という観念。小学校で習った算数のうち、図形をおもいだしてほしい。それらがユークリッド幾何学[3]。ユークリッドがはじめた[4]。ユークリッドは英語読みで、ラテン語ではエウクレイデスという。
ユークリッド式ではない幾何学が、円錐や球体の表面上の図形などだ。それでは、三角形の内角の和が180度ではなく、270度になったりする。
「地上的な、ユウクリッド式の知恵をもってしては、ここにはただ苦痛があるのみで、罪人はなく、いっさいのことは、直接に、簡単に、事件から事件を生みながら、絶えず流動して平均を保っていく」
ここでは、単純な、「貧弱な」考えという意味でつかわれているのだろう。
「全宇宙、というより、もっと広義にいえば、全存在はだね、どうもユウクリッドの幾何学だけで作られたものではなさそうだ」イヴァン [5]
「僕の知恵はユウクリッド式の、地上的のものなんだ。それなのに現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうしてわれわれにできるものか。」イヴァン [6]
関連本のご案内
カミュ『ペスト』
アルジェリアのオランという都市で、感染症であるペストが流行ったときのはなし。
とある子どもが、ペストで苦しんでなくなる。医師のりウーは、「亡くなった子どもに罪はない」といった後、神父・パヌルーは、「人間たちの尺度をこえたもの、われわれに理解できないものを愛さなければならない」と呟く。それを聞いたリウーは、「子供たちが苦しめられるように創造された世界を愛することを拒否する」と、神父・パヌルーにむかってどなる[註]。リウーは強くいいすぎたことを詫び、「それらの運命や神はわたしに関係のない問題」とし、いづれにせよ、「神父パヌルーと一緒に、冒涜や祈りをこえて私達をむすびつけているもののために、一緒にはたらいている」と述べる。パヌルーは頷き感動する。「でもね、先生」と、なにかをいいたそうにしたのち、口をとじてしまう。別れ際、リウーは「私が憎んでいるのは、死と苦痛だ、神父とともに闘っているのだ」と強調する。最後に、リウーは「神もわたしたちを引き離すことはできぬ」と言葉を残す。
この出来事の神父のパヌルーは、死への恐怖をもちながら、死に立ち会う。そして実際、ペストであろう死因でなくなる。死に際に、十字架をもって、つまり、神を信じて、死んでいく。
パヌルーの説教の場面では、地の文で、すこし彼らの考えについて、説明がはいる。神父パヌルーにとって、「死んだこどもを待つ来世の永遠の至福がその苦しみを贖うと説明するのは簡単だったが、その実際についてなにも知らなかった。」「子どもの苦しみは、精神にも、心情にも、屈従を強いるのだ。だが、それだからこそ、その屈従にはいっていかなくてはならない。…なぜなら、その屈従こそ神の望むものだからだ。」「たとえ子どもの死に関しても、…すべてを神に任せることを受け入れ、個人的な助けをもとめてはならない」
旧約聖書『ヨブ記』
多くの忍耐に忍耐をかさねるなかで、信仰をつらぬいた人の物語。