見出し画像

せんせいさようなら みなさんさようなら ~ 塾通いの思い出       1968~1976 第1章

その1
私の愛読する著作の中に以下の一説がある。「先生のことはみんな嫌いで震え上がっていた。学校に通う時分は、先生は怖いに決まっていたんだ。でも先生を懐かしく思い出すと、その恩義というのは大人になってから分かるものなんだ。その先生の生徒を思う気持ちが本当だったらね。」(執行草舟氏『現代の考察』PHP 66頁より引用)

冨丘先生。いきなりで恐縮だが、彼はおそらく私のことをそれほど好いてはいなかったと思う。というより他の生徒たちに比べて私はそれほど関心を持たれている存在では無かったということだろう。今となっては彼の本心を測れないわけであるが、そもそもそのような問いをぶつけることすら当時は畏れ多く考えもしなかった。あの頃はそれどころではなかった。彼は塾のスパルタ教師であり、我々には畏敬の存在である「先生」「師」なのであった。
しかし昭和40年代当時の教員が、皆三尺下がって師の影を踏ませない存在であったわけではもちろんない。彼がその威厳を持ち合わせていた…少なくとも私にとってはそのような畏れ多き存在であったのである。いや単純に怖かったのである。したがって、彼が私にあまり関心を示さないように感じたことは裏を返せば、そんな彼に振り向いてもらいたかった、気に掛けてもらえる存在になりたかった、と言う淡い願望が子供心にあったということである。普通そうであれば、斯様な願望を持ち合わせたのであれば「日々努力する」「学業で見直される」「一目置かれる存在になる」ように振舞うのが当然であろう。しかし私の中には一向にその気配は現れなかった。淡い願望も心の奥にうっすらと灯った焔なのであって、それに気が付くのは相当先の話なのである。
当時、学習塾に通っていた子供たちの学力は相応に差があった。個体差と一緒でこの小学生半ばの頃の子供たちは得てして心身の発達とともに差異が顕著に表れる時期であったはずだ。その中でも私は体格も小さかったし、見てくれも普通だし、家庭環境も中くらいだし、成績はど真ん中をかろうじて維持する程度であった。ひとえに平々凡々、特色の無い子供であった。良し悪しはともかく多少お調子者で浮かれ騒ぎに興じやすい性格であったようで、時に気の利いた戯言を言って周囲を賑やかにして悦にいっている存在であった。しかしその小さな自負も程なくして、母の「あんたは…ほんとうにつまらない子だ」としげしげ言われたことで、いとも容易く消滅してしまうのだが…
そんな冨丘先生と私、そしてその時代をともに泣き笑いして過ごした数人の塾仲間たちとのお話である。

小学生時代

私、北里裕は小学校4年生の時に、近所で習字を習っていた。そこでは、コの字型に10人くらいが座れる平机が並んでいて生徒も学年はバラバラで、段位や級もばらばらであった。白髪まじりの初老の先生が、いわゆる放任タイプの人で、いつもがやがやと騒ぎ立てる生徒を相手にしていた。そこに一年近く通ったであろうか。昇級試験も一回受けたくらいでもっぱら一緒に通っていた西山兄弟(兄は2学年上で弟は同級生)と笑い転げながら通った道中のほうが記憶にある。つまり遊び9割、習字の練習1割であった。同時期にそろばん教室にも通った。こちらも似たようなもので手ほどきの次の8級までは受かったけれどそこで終了。その後しばらくは平々凡々の日々を過ごしていた。
そんな年明けの二月頃であろうか。
「あんた 来週から塾に行って勉強しなさいね」
いつものようにぬくぬくした国鉄アパートの居間のスチーム暖房の前で、マンガを読みつつテレビにかじりついていた私に母は、有無を言わさぬ強い口調で言った。
「塾?」言葉の意味はわかるものの、小学校4年の私には、その真意はわからなかった。しかし、わからないままに、少しの興味と好奇心からつい「うん」と言っていた。
「信ちゃんも行くってさ。それから古田君や荒川君も行っているところだから」
信ちゃんは成績も体力も私よりは格段上の同じ国鉄アパートの下の階に住んでいる幼馴染で同級生である。そろばんももうすぐ段位という腕前であった。字も上手であったし学校での成績も良かった。古田君と荒川君は二つ上の6年生。よく草野球で一緒になる面倒見のよい、所謂この地域のリーダー格の子供たちである。「来週のいつから行くの?」そう訊く私に母は、「明日、信ちゃんのおかあさんと一緒に直接頼みに行くことにしたから、その時聞いてくるから」と言う返事。案の定母の中では既に決定事項であった。
塾に行く…明確なイメージはなかったものの、それまでのそろばんや習字とは違い学習塾では学校の成績を上げて志望の学校に進むものだ、という大義名分は子供心にもうっすらと理解していた。それから程なくして、幼稚園からクラスもずっと一緒だった中川康之も冨丘塾に行くことを知った。彼は上に兄が二人と姉がいたが兄二人はともに冨丘塾の卒塾生だった。このようにして本来5年生からという塾通いの予定がお試し期間的に4年生の2月から始まった。それから8年間通い続けることになるとは、その時点では全く思いもしていなかったのである。そうこうしている間に運命の日が来た。この時期の北国は未だ冬の真っただ中で、時折雪がちらつく曇天の日であった。
 冨丘塾は毎日通っていた聖雲小学校の生徒通用門からすぐ左のT字路の角にあった。古い木造平屋建ての借家で家の周りには雑草が生い茂っていた。玄関前には車一台くらいがやっと停められそうな空きスペースがあり、華奢なつくりの家であった。玄関を入ってすぐ右の戸を開けると、教室となる部屋があった。8畳くらいの広さで窓が後方と右に二つ、正面奥には黒板がかかっている。畳全体に柄物のビニール絨毯が敷いてあり、毎回皆で長テーブルや丸テーブルを出してきて組み立て定位置に居座る。玄関を上がったすぐの正面の戸の奥には、先生と家族の居住スペースがあった。そこは決して広くはない。いまなら1DKという感じで我々の教室とは薄いベニヤ板で仕切られているに過ぎなかった。当然物音はや話し声は筒抜けであった。
私はこれまでも冨丘先生の姿を何度か目にしたことがあった。学校の帰り道、その家の前を通った際に、玄関先で中学生と思しき制服姿の塾生の男子が、険しい顔をした冨丘先生に何か叱責されている様子であった。会話の内容はわからなかったが、とても怖そうで張り詰めた空気感があったことは覚えていた。玄関の上がり框(かまち)から見下ろすように立っていた先生の厳しい表情は、くっきり心に焼き付いていた。先生はその後何度も目にすることになる丹前寝間着姿であった。それが病弱な先生の定番の姿であることはその時はもちろん気が付かなかった。 

その2

あらためて運命の塾初日のことを記してみたい。
昭和43年が明けた2月。小学4年生の私は成績の伸び悩みの真っただ中にあった。母親が当時俗に言う「教育ママ」であったこともあり、成績の悪い子は文字通り「ダメな子」というレッテルを貼られていた。それもあり学習塾に通うことはすなわち成績アップの魔法のようなものと私は信じていた。そして遂に冨丘塾に行く運命の日を迎えた。
あいにく風邪の治りかけで鼻が詰まっていて、このことが後に災いする。信ちゃんと一緒に緊張しながら塾の玄関を開けた。こんにちは、と慣れぬ調子で、か細い声をかけて玄関を入り、その右横のドアを開けて入った。既に10人余のこれから長い付き合いとなる男女の同級生が揃っていた。同じ小学校であったが、クラスが一緒になったことの無い子もいるため顔見知りは信ちゃんと康之と典江ちゃん、敏子ちゃんくらいであった。決まった席は無かったのでなんとなく空いている場所に詰めて座った。私は黒板の正面に向き合う形の3人掛けの長机のはしっこに座った。その8畳ほどの擦り切れそうな絨毯敷きの畳部屋には、ところどころ床にでこぼこと起伏があった。床下が腐っていたのか強く踏むと抜けそうな感じであった。正面には黒板と布張りの長椅子と小さな座卓があり、そこが先生の定位置であると分かった。その右横に小さくて黒い薪ストーブがあった。石炭ではなくオガ炭(おが屑を圧縮した燃料)と木っ端の薪を燃やすタイプのものである。
部屋の中は人いきれでむっとしていた。落ち着かなく、またお喋りするものもなくしんとしていた。その時、折り悪く私の鼻詰まりがピークになり、鼻汁も出てきたので慌ててチリ紙を出して鼻をかんだ。その途端にビーという大きな音がして一同どよめいた。くすくすという笑い声も聴こえた。私の顔は恥ずかしさで真っ赤になり、火照るのを感じたがどうしようもなく、何度も鼻をかみ続けた。鼻をかむのがそんなに珍しいか!と内心思いつつも照れ隠しに「そんなに見つめなくても良いんでないかい」と少しおどけて声にしたが、その声がやけに甲高く裏返り、しかも語尾が上がり恥の上塗り状態になった。「あー 収集がつかん!最悪だ…」そう思ったところへ、咳払いと共にドアが開き先生が静かに入ってきた。全員正座で固唾をのんでいた。いよいよ本番である。
 先生は片方の足が不自由らしくびっこを引いていた。最初にそのことが印象に残った。先生の年齢は当時30歳を過ぎたくらいだったと思う。部屋の奥の黒板前にある、所々擦り切れて剥げているこげ茶色のベッチン(別珍)張りの古い長椅子に腰かけた。左足が曲がらないため長椅子の端に足を延ばしたまま座った。そのための長椅子なんだと納得した。「皆揃っているようだな。ではこれからのここでのことを話すからな」その声にはすでに威圧感があった。さきにひとりひとり名前を言わされた。「北里裕です よろしくお願いします」先生の反応は無かった。生徒の中には兄姉が既に塾に通っていた子もいて、先生とはそのつながりで前から親しんでいる様子も見られた。些細なことだが少しだけ羨ましかった。私は本当に先生とは初対面だし、何の伝も縁もなく来たので、強いて言えば信ちゃんの知り合いの紹介というだけで外に何もない。先生にとっては何の事前情報も持たないやつが紛れて来たというところだろう。
そして先生のお話が始まった。通う曜日は火、木、土、日で平日は夕方学校が終わってからの午後4時開始、日曜日は午前8時半または10時半から開始で毎回2時間弱が基本であった。他の学年もその前後に入っていたはずである。学校の掃除当番や委員会で遅くなった日はその分当然短くなるが、遅れると皆が机についている中に、こそこそと入っていくのはそれはそれでいつも気持ち的に萎縮した。そのあとも先生の話は続き、あいさつのことになったが、この時ストーブの温かさもあり緊張が少しほぐれてきていたのか、油断して軽く片肘をついていたことに私はまったく気が付かなかった。その途端「おい! お前! 肘‼!」という怒声が真正面から飛んできた。
先生は黒縁眼鏡の奥から眼光鋭く怖い顔をしてじっと私を睨んでいた。以前観た、中学生を玄関前で叱責していたあの表情そのままであった。片肘ついた格好を私に示しながら「何やっているんだ‼ その格好!」と強い口調で言われた。他人に叱られるのは慣れていなかったので相当なショックを受けた。「ビンタされる‼」と思った瞬間、冷や汗が流れ身震いした。また周囲がしんとなった。だがかろうじてビンタの洗礼は避けられた。それにしても、鼻をかんでは皆に笑われ、そのあとで皆の代表で叱られて…自分ばっかり…この持ち前のおっちょこちょい癖(北海道弁で「おだつ」)というか、隙がすぐできる性格は大人になっても続く私の弱点であった。この日に塾でのルールとして言われたことはたくさんあったが、代表的なものは以下である(順不同である)。

 男子も女子もお互いを呼びあう時は、苗字の下に「さん」という敬称をつける。ただし先生が付けたあだ名(ニックネーム)のみ例外となる。その後私につけられたニックネームの話は後程する。男女ともにお互いを呼ぶときは「さん」付けである。女子は最初とても戸惑っていた。ふつう女子は男子のことを〇〇君と呼んでいたから。そしてこれを学校にいても励行することになっていた。学校で塾の女子が私のことを「さん」付けするのを聞いて、男子たちはにやにやしていたし、他の女子たちはけげんな顔をしていた。塾の女子がかわいそうだなと思った。

その3

 挨拶の基本は「先生こんにちは」「先生さようなら」である。塾に着いたら大きな声で「先生こんにちは」と言って入る。ちなみに全員座卓なので座ったまま礼をする。遅れて来たときは「先生こんにちは 皆さんこんにちは」と部屋の入口のところでしかも正座して三つ指をつきお辞儀をして入っていった。早朝でも夕方でもこの台詞は一緒である。この挨拶が疎かになるとビンタが飛ぶ。また帰りは全員声を揃えて「先生さようなら 皆さんさようなら」となる。「先生こんにちは 皆さんこんにちは 先生さようなら 皆さんさようなら」この挨拶は塾での生活を終了するまで毎回、最後まで続いた。 

 通常夕方の授業帯のあとは他の学年と入れ替わるケースもあるが、そうでないときは全員で机を片付けて、拭き掃除と掃き掃除を行う。この掃除の時間は男女が無邪気に戯れる時で、騒いでいても先生は気に留めず放っておいてくれた。張り詰めた授業の後の鬱憤晴らしのような最高の息抜きの時間であった。

 学校の定期テストの答案は自己申告で先生に見せる決まりになっており、誰もが正直に見せてはビンタを張られていた。塾の無い日でも学校帰りにテストを持って立ち寄り玄関先で先生に見せる。100点または90点以上ならほぼ何も言われない。それを下回ると口頭で叱責か時にはビンタが飛ぶ。玄関先でのビンタもしょっちゅう。60点とか50点以下なら押して知るべし。男女に差異は無い。容赦しない。このビンタはおそらく現在の教育システムの下では100%NGであると思う。そこは昭和40年代の半ばである。時代から察していただきたい。私は体罰肯定派ではないし、当時も怖くてドキドキしていたが、この「冨丘塾方式の愛の鞭」は外でも知られる塾のトレードマークとしてずっと続いていく。

 ビンタは基本的に平手打ち。頬に当たる。げんこつは無い。もちろん鉄拳もない。ひたすら頬への平手のビンタである。先生も人間だから、時折その加減も変わる。非常に機嫌を損ねた時のビンタは強烈で、その痛みたるや半端でない。往復になることもあり、女子はよく泣いていたし、しばらくじんじんしていることもあった。ビンタされた後の何とも言えない時間の経過を今でも思い出す。きまり悪いというかみじめというか…もともと中の中くらいの成績だったのでビンタは数知れず…放課後塾に行くまでの数分の道のりがどれほど足取り重く憂鬱だったか…

 塾内ではたびたび英語の試験が行われた。特にこれが一番きつかった。小学校の5年から中1の教科書を先輩たちからお下がりでもらい(当時英語の授業は小学校では行われていなかった)、その単元(セクション)が終わるとテストが行われる。単語の書き取りと簡単なセンテンスの英訳くらいなのだが、おっちょこちょいの私はいつもケアレスミスが続く。今でも覚えているが最初に覚えさせられたのは「pen、book、cap、desk、egg」と「This is a pen. That is a notebook.」であった。この書き取りからスタートした。回を重ねるごとにだんだん難しくなり覚えることもどんどん増えていく。そのたびに間違った数だけ数回ビンタされることになる。テストは隣の席同士が解答用紙を交換して○付けするのだが、子供同士でも容赦しないから、間違いの数を正直に申告する。もちろんごまかすとすごい勢いで叱られる。間違った数だけ手を挙げさせられる。「5つ間違えました…」と震える小声で生徒が告げると「何をやっているんだぁ‼! そんなボロイ点しか取れないのか‼」とビンタが続く。いつも私は怖くて、それで時々数をごまかした。まさにずるをする愚か者であったが、康之はいつも正直でそのまま申告して、すごい勢いで叱られていた。でも子供心に「康之は潔いな、男らしいな、真似できないな」と思った。自分がちょっとだけ情けなかった。

 土曜日は学校が午前中で終了するので、いつも「弁当で直行!」と言われた。これは文字通り弁当箱を持って学校から直行しろという意味である。小学校は給食だったので、土曜日の弁当は新鮮だが慣れなかった。特に直行の時間は皆ばらついていたので少しでも早く着いたものから食べ始める。先生の来ないうちに済ませられたらラッキーで、遅く着いたら、例のあいさつを済ませて皆の中に分け入って座り、先生の授業を耳にしながらカチャカチャと弁当を食わなくてはいけない。後で食うとかもダメなのである。必ず食べる。男子も女子も皆が授業している中でもくもくと食べる。正直味などわからなくなる。早くこの儀式を済ませたい一心で頬張り続ける。女子は居たたまれないという表情でいつも辛そうであった。10歳から12歳時分の子どもにはかなりきついものがあった。それでも中学生くらいになると随分開き直っていたような気はするが…

 夏休みの早朝学習もあった。早起きはきつかったが楽しかった。特に午前6時30分開始という日もあり、自転車で家から15分くらいだったので眠い目をこすりこすりしながら朝食も食べずに行った。塾は小学校のグラウンドの目の前にあったので、晴れた日はラジオ体操の音が聞こえる。授業前に、その音に合わせて全員塾の庭でラジオ体操に興じる。夏休みということもあり少しリラックスしていて楽しかったのを思い出す。先生は足が悪いからやらないが、この時は皆の様子をニコニコと眺めていた。

 家庭での予習、復習も厳しく指導された。毎日3時間以上は必ず勉強するように言われた。塾のある日は、暗くなってから外で遊べないので帰宅後はすぐ夕食となる。そこは、昭和の小学生である。マンガとテレビが大好物である。クラスの話題はそれに尽きる。特に午後7時~9時くらいのゴールデンタイムは娯楽番組、歌番組、ドラマが目白押し。夜は遅くとも10時を過ぎたら風呂に入って寝るという生活。ということで3時間の予・復習はほぼ消える。それでも家での学習ノートは時々チェックされる。毎日の日付入りであったが、書き取りや英語の単語の復習はノートの半分くらいしか埋まっていない日が殆ど。3時間やって半ページはあり得ない。それを見た先生は烈火のごとく怒り、容赦なくビンタが飛んだ。それにも懲りずに相変わらず分量が増えない。私はことごとくダメな生徒であった。

 夏休みのお盆休みや、冬休み中の年末年始も合計で5日ほどしか休めなかった。もしその期間中に旅行に出かける場合はどこにいつまで行っているか正確に告げなければならなかった。万が一予定が伸びたら、休みの取り過ぎということで必ず叱られた。そのことは親にも厳しく告げられた。これには遊びたい盛りの時期の子どもには結構つらいものがあり、遠出は無理なので親せきや知人のいる近場のお泊りがせいぜいであった。それでも貴重な休暇であった。

 先生のお宅にはしばらく電話が付いていなかったために(このころの電話の世帯普及率は都市部でもかなり低かったと思う)、病気とかで急に休んだりするときには、母親が塾に直接出向いて行った。友達の伝言はNGであった。この辺りは生徒が信用されていなかったのかもしれないが、そこまで姑息なずるい生徒はいなかったと思う。私はめったに休まなかったが、風邪をひいていけなかったとき母親が片道1.5キロくらいの道を歩いて塾に報告していた。今思えば母への申し訳なさでいっぱいである。

そしてこの塾で待ち受ける最大、最悪のルールが次である。

第2章 その4へ続く…

いいなと思ったら応援しよう!