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「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

Quia timor quem timebam euenit mihi et quod uerebar accidit.
Nonne dissimulaui nonne silui nonne quieui et uenit super me indignatio.

Liber Iob, III, 25-26 (Vulgata)

追記その2:いまだに多くの方に読んでいただけているようなのだけれど、まずは下記記事を先に読むことをおススメしたい:

「ゆる言語学ラジオ」がまだ駆け出しの頃、次の記事を書いた。

私自身が全然noteを更新していないからというのもあるけれど、私が書いた記事の中ではいまだに飛び抜けて閲覧されている。やっぱり「ゆる言語学ラジオ」のネームバリューに負うところが大きいのだろう。

この記事の冒頭に、「基本的には「ゆる言語学ラジオ」を応援している」と書いた。今も応援しているかというと、正直なところ、もう応援はしていない。


もう応援していない理由

実を言えば、書いた当時もそこまで積極的に応援していたわけではなく、記事中にもあるように、専門家 vs. 素人という構図において、専門家の指摘が素人の発信を委縮させることを危惧していたこと、応援しているという立場をとることで、すでに「ゆる言語学ラジオ」を楽しんでいる人との無用な軋轢を避けたかったというところが大きい。「正解はないけれど…」というタイトルにしたけれど、いまだにどうふるまうべきか悩むところである。

とはいえ「応援している」と書いてしまったし、その体でチャンネルを紹介する形をとってしまった以上、なんとなくの義務感でその後も、サポーター限定のようなものを除いた、一般公開の動画はすべて見ている。ある意味で立派な視聴者の一人かもしれない。

ところが水野さんはその後もテキトーなことを言い続けるのである。まったく改善がみられないというわけではない。すでに動画にも出演されて視聴者に認識されているように監修の先生が何名か協力している。そのおかげもあってか、特に参考文献の選定についてはだいぶ手堅くなっている印象を受ける。おそらく台本にも監修の目は通っているだろうから、その段階ではだいぶ質も高くなっているはず、…なのだが、それをすり抜けて水野さんがテキトーなことをぶっこんできてしまうのである。

その後の水野さんの胃の痛みが改善されたのかはわからない(最近、出版関係で気の毒なことがあったけれど)が、私の方は見るたびに胃をキリキリさせ続けることになってしまった。

それでも視聴する理由

「ゆる言語学ラジオ」を楽しんでいる皆さんからは次のように言われるかもしれない:「お前が監修すればいい」「間違いに気づいたら訂正してあげればいい」「嫌なら見るな(こっちは楽しんでるんだから邪魔するな)」。

監修については、すでに立派な先生方が監修についている中で、自分のようなアカデミアから脱落してしまった得体も知れぬどこの縞馬の骨ともわからぬやつが…という、ゆる言語学ラジオ用語でいうところの「メタモン」もある(この記事ですら、いったいどの面下げてこんな記事を公開すればいいのだという気持ちで書いている)けれど、端的に言えば、そこまでコミットして責任を負えるほどの余裕は私にはない。もっともらしい理由をつけくわえるなら、一歩引いたところからの視点も必要だろう。

訂正、というより気になる点については、実はちょこちょこTwitterでコメントしたりはしている。特にメンションをつけたりはしていないが、しばしば監修の先生の目にとまることがあり、そこから本人たちに伝わったことも何度かある。(監修の先生、いったい何者なんだ…!)わざわざメンションをつけないのは、たいていの場合本人たちに何か対応してほしいというよりは、むしろ私自身が自分のフォロワーさんからいろいろコメントが欲しいからである。「気になる点」というのは私が勘違いしていて水野さんが正しい可能性も当然ある。そういった「これって本当にそうなの?」という疑問が結果的に監修の先生の目にとまるという形である。(監修の先生、いったい何者なんだ…!)

「嫌なら見るな」:これはひとつの正解だろうとも思う。実際、何度辞めようと思ったかわからない。ただ、上述の責任感(のようななにか)もあったし、結局のところ、私は言語学が好きなのである。言語学の話題というだけで聞いてみたいと思うし、言語学について変なことが言われていないか気になるのである。皆さんも、自分の好きなもの、好きな人について他人がどう語っているか気になることはないだろうか。よく知りもしない人間がわかったような口でテキトーなことを言っていたら文句の一つでも言いたくならないだろうか。

丹波庭『トクサツガガガ』第165話「正解の所在」

一応、フォローめいたことを言っておくと、しかたないと思う部分もある。そもそも収益を得ることが一つの目的である以上、コンスタントにコンテンツを提供し続けることが必要で、質の担保には自ずから限界がある。水野さんは本業もある(そして本業にまつわる勉強もあるだろう)のだから尚更であろう。それでも、あの量のコンテンツを、これだけの期間燃え尽きることなく出し続けているのは素直にすごいことである。台本を用意しているとはいえ、二人での対話形式をとる以上、下調べができていないところに話が及ぶこともあるだろうし、話の流れやその場のノリというものもあるので、誤っていたことに後から気付いたとしてもそこだけ撮り直すというわけにもいかないだろう。

また、たとえどんなに時間が割けたとしても、誤りが含まれることもある程度は仕方ない。言語学が専門の先生であっても、広大な言語学の分野全体を知悉していると言うことはあり得ず、自分の専門から離れてしまえば素人と大差なかったりする。というと、それなら多少の間違いには目をつむってやれよと言われそうだし、実際、そのレベルの間違いもあるのだけれど、もうちょっと根本的なところに問題がある気がしている。

批判は悪いことじゃない

私自身は、ゆる言語学ラジオがテキトーなことを言っても、専門家からそれを訂正するようなコンテンツがたくさん出てくれば、それは自分にとっても嬉しいので、そういう方向で盛り上がることを期待していた。むしろ、ファンの方から「不正確でもこっちは楽しんでるんだから余計な批判をするな」みたいな空気ができたら嫌だなと思っていた。

実際のところは、期待するほど批判的な訂正コンテンツは出てこなかった。批判的な反応も探せばゼロではないものの、やっと出てきたかと思えば、むしろ批判に対して否定的な声が目に付いたりして(むしろその声を通して批判の存在を知ったりした)危惧した通りになってしまった。テキトーなことを言うのは簡単でも、それを批判し、それ相応の訂正を行おうとすればそれなりの時間と労力がかかるのであり、よほどの使命感と時間的体力的余裕がないとできない。その上非難されるとなったら誰もやりたがらないだろう。

そもそも「批判」という言葉にネガティブなイメージがついてしまっているのが問題でもある。先日「批判でなく提案を」という政治家のポスターが目に入ったが、それもそういったイメージの反映だろう。日常的な語彙としてはそうかもしれないが、少なくとも学問の場においては、よりよいものにしていくために批判はなくてはならないものだし、研究とはいわば先行研究への批判の集積ともいえる(本当か?)。

ゆる批判のすゝめ

時間と労力をかけて、しっかりと批判したところで、「ゆる」くやってるんだから、そんな厳しくしなくてもいいじゃないかと言われるかもしれない。先の記事にも書いたとおり、別に活動を委縮させることが目的ではないので、結果的にそうなってしまうと、発信したい人はそれができなくなり、コンテンツを求めていた人は享受できなくなり、批判した人は非難される、という誰にとっても嬉しくない構図になってしまう。とてもではないけれどコストと見合わない。

しかしながら、実際にチャンネル登録者数が14万近くいて、収益化していることも考えると、批判してくれるなというのは、さすがに虫がよすぎるだろうし、ここまでくればむしろちょっとやそっとの批判でぐらつくこともなかろう。もはや、個人の素人チャンネルではないのである。

一方で、「学術的な批判」には時間と労力がかかるという事実は厳然として存在する。田川先生がいうように大学の先生のような専門家が一般相手にどこまで対応すべきかという倫理的な問題もある。

厳密にはプロの研究者だけでなく「知識人」「有識者」のように扱われる人たちも批判することはあって場合によっては線引きが難しいこともありますし,内容なども考慮に入れるので絶対ということもないのですが,プロの研究者ではない人を批判対象にすることは基本的に避けています。
[…] 簡単に言えば,金谷氏の批判記事の多くは私が大学院生の時に書いたもので,今は大学教員だということです。ここさいきん人文社会系の研究者に対する待遇や評価であまり良いニュースはありませんが,それでもプロの研究者・大学教員であることの権力や権威とは慎重に付き合いたいということがあります。

ゆる言語学ラジオさんとの金谷武洋氏をめぐるやりとりについてちょっとだけ
- 誰がログ

それなら、これを逆手にとって、「批判」も「ゆる」くやれればよいのではないか。つまり「ゆる批判」という体であれば、私みたいな専門家とも言い難い中途半端で普段からテキトーな人間にも、むしろそういう立ち位置だからこそできることがあるのではないか。そして広く「ゆる批判」をしあえる空気を醸成することで結果的に全体を盛り上げることができるのではないか。気づいた人が、指摘できる人が、言える範囲で、言えるところで言えばよい。もちろん、その指摘自体が誤りということもあるだろう。あるいは、指摘されても皆が皆、それに対応できるということもないだろう。ただ、それを外から眺めている人にも伝わるならば十分に有益たりうる。そういった「ゆるい」広がり方でも何もしないよりいいのではないか。

そういうわけで、ここでひとつ「ゆる言語学ラジオ」へのゆる批判記事を書いてみることにしたわけである。というのは、後付けで、どちらかというと書きながら思いついたことなので「これが俺の答えだ!」みたいな自信はない。よくよく考えてみれば、それって「Twitter言論界隈」と大差ないのでは?という気もする。

前置きはもう少し続くんじゃ

さて前置きがだいぶ長くなってきてしまったが、そろそろこの記事の主旨に入る。先述の通り、私はいままで間接的なコメントをするだけで、直接的に批判するということをしてこなかった。というか、実は何度もnoteの記事にしようかなと思うことはあったのだけど、批判記事を書くからには自分がしっかりと文献にあたらなくてはと、いろいろ調べているうちにあっという間に時間が経ち、その間にも次から次へと新しい動画が出てくるので、どうでもよくなってきて諦める、という流れを繰り返しているというのが実情である。

この記事では、個別の動画に対する指摘を主目的としたものではないけれど、そうは言っても具体的な例もないと説得力に欠ける気がするので、個人的にとりわけ気になっている例に軽く触れてから本論に入る…つもりが、いざ書き始めたらだいぶ長くなってしまったので、独立した記事にした:

以上の流れもあって、この記事は「ゆる言語学ラジオ」への批判を軸にしているし、タイトルも”「ゆる言語学ラジオ」望むこと”と入れてはいるけれど、当然ながら彼らがこの記事の批判・提案を受け入れる義務は全くない(と言うよりこんな記事はもはや眼中にもないだろう ご本人の目にとまり反応を頂いた)。一部はすでに監修の先生やコメント欄などからアドバイスされているかもしれない。あるいは逆に食い違うこともあるかもしれない。ただ、「ゆる言語学ラジオ」に限らず、これから言語(学)を扱おうという新たな(あるいは既存の)コンテンツ発信者にも参考にしてもらえるところがあるのなら(私が個人的に)嬉しい。そういう意味で”(もはや)「ゆる言語学ラジオ」(は)望まないこと(=「ゆる言語学ラジオ」以外の発信者に望むこと)”でもある。

もちろん自ら発信することがなくても、言語(学)に興味がある人には気にしてもらいたい。この記事はまた、「自分は「ゆる言語学ラジオ」を楽しんでいるけれど、たまによく思っていない人もいるみたいだし、専門家から見て一体どこが問題なの?」みたいな疑問を持っている人への、一つの回答にもなるかもしれない。私が専門家の意見を代表しているとは言えないけれど。逆に専門の方からは、ここに挙げた以外にも、こういう視点が必要だよね、とか、それはお前が間違っているという点があれば指摘してもらえるともっと嬉しい。

「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと

個別の動画に対する批判は前述の通り、めちゃくちゃ骨が折れるし、何度も挫折しているので、ここではそういった誤りがどうして起きるのか、全体を通しての指摘・批判を中心に述べる。批判だけでなく「提案」(それとちょっとした「脱線」)も含まれるが、要するにやってもらえると私がうれしいものである。

言語は繊細なものである

何よりも先に言及しておきたいことは、「言語というのは、本来扱うのがとてもセンシティブな、デリケートな話題である」ということ。

言語というのはそれ自体がアイデンティティに関わるものである。例えば、多くの日本人は「日本人は日本語を話す」というのを自明の前提としており、それ自体がアイデンティティの一部を形成している(例えば「私は日本語を話すので日本人である」というような)が、実際にはそんなに単純ではない。日本国籍だけれど日本語を母語としない人、日本語を母語とするが日本人ではないルーツを持つ人がいる。言語と民族や国籍を結びつけることは暴力になりうるし、対して、そのつながりを否定することもまた暴力になりうる。そういったことを認識してないと、無自覚に他人を傷つけかねない。

言語は差別の手段になりうる。日本でもかつて「方言札」というものがあったが、国や地域によっては特定の言語を使うのが禁止されており、自分たち民族の本来の言語が使えない、あるいは隠れて使わざるをえないケースがある。あるいは、経済的な格差のために、自分たちの母語を捨てて、より威信の高い言語のみを子供たちに教えるようなケースもある。関東大震災の折にはデマに踊らされた人々が、「十五円五十銭」を発音できない人々を虐殺した。

世界には数え方にもよるが3000とも8000とも言われる言語がある。それだけあれば、言語学者でも、聞いたことがない言語というのはたくさんある。名前は知っていても、どこで誰が話しているのかはよく知らないということもよくある。「聞いたことがない」のは仕方がない。しかし、「聞いたことがない」から、その名前でふざけていいことにはならない。聞きなれない名前やおもしろく聞こえる音の並びでついふざけてしまうというのは、素朴な反応としては理解できる。しかし、せめて「言語学に詳しい」人はそこでたしなめる態度を示すべきである。

少し話はずれるが、「ゆる言語学ラジオ」で流行った煽り文句に「母語話者なのに?」というものがある。しかし、およそ言語学者は使うのを避けるべき言葉のように思う。実際のところ言語学を学んでいると「母語話者なのに気づかなかった」ということはよくある。つまり「母語話者でも意識的に説明できない」ことを明らかにするのが言語学の仕事のひとつであり、逆に言えば、母語話者であれば母語についてすべて説明できるのであれば言語学は要らないのである。

他方、言語学者は外国語や方言調査など、自分の非母語である言語についてその言語の母語話者に協力してもらうことがある。当然、母語話者でも説明できないことはあるのだから、そこで言語学者の出番なわけだが、決して「母語話者なのにわからないんですか?」などと煽るようなことを言ってはいけない。母語話者の協力なくして、言語学は立ち行かないのである。

内輪で盛り上がる分には構わないし、ある意味で「ゆる」言語学らしいのかな、とも思っていたが、一度外へ出てしまえば「ゆる言語学」と言語学の違いなんて相手の知ったことではない。うっかり煽って「言語学嫌い」を増やさないでほしいと思う(そうでなくとも「言語学者は嫌い」という人はいるのである)。

先行研究に言及するときの態度

自分が理解できない時に思わず笑ってしまうのは理解できる。

しかし、その場面しか見ていない人には、馬鹿にしているようにしか見えないかもしれない。たとえ言及されている本人(例えば監修の先生)が良しとしてもである(本人がいいって言ってるんだからいいじゃん、と言うのはいじめっ子の理屈と大差ない)

たとえば次のような場面を想像してほしい。
頑張って書いたレポートを提出したら、クラスメイト全員の前で、難解すぎて理解できないと先生に笑われるような場面を;
数日かけて用意した資料を、いざお客さんの前でプレゼンしてみたら、難しくて全然わからなかったと笑われる場面を。
君が悪いんじゃない。こっちが理解できないのが悪いんだから、と言われたところで、それなら当然か〜と納得できるだろうか。

他人の研究に言及するときは笑ってはいけないとは言わない。番組のテイストやら、お二人の性格やらを考えると、それは難しそうだとも思う。しかし、それを見た人がどう思うかというのは常に意識しておいてほしい。実際、お二人が酒を飲みながらゲラゲラ笑う動画を(運悪くピンポイントでオススメされ)視聴して、「有害」と断じた先生をみかけたことがある。

ちょっと違う話だけれど、水野さんは研究を紹介するときに「エグい」という言葉を使うことがある。これが「すごい」とか「ヤバい」のようにポジティブな意味で使われているというのは理解できる。ただ、私の中では基本的にはネガティブなニュアンスでしか使えない語であり、私より上の世代では尚更なのではないかと想像する。

言葉の変遷を映す実例として興味深いし、別に若者言葉を使ってはいけないなどと、規範を押し付けるようなことは言わないけれど、「本来の意味」を気にすべきは慣用句に限らないように思う。

言語学の基礎を勉強してほしい

水野さんが取り扱っているテーマはどれも面白い。だからこそ、こうして実際にひろくファンを獲得しているのだろう。(はたしてそれは言語学なのか?という話題も少なくないが、まあ、そこも「ゆる」いのだろう)

ただ基本的な用語や概念について間違えていることが目立つ。

「言語学の基礎」をどう定義するのかは難しい。義務教育や高校の科目のように学習内容が定義されているわけではないし、私も学部で「言語学」の授業を受けたことがないので、どこまで理解していたら言語学の基礎を理解していることになるのかはよくわからない。実際のところこの辺りは「言語学」の講義を受け持つ先生方も悩みながら扱う内容の取捨選択をしているように見受けられる。

とはいえ、例えば、複素数平面や位相幾何学など高度な数学的話題をわかりやすく説明すると称するチャンネルが、四則演算ができていなかったり、自然数の定義も曖昧なまま話していたらどう思うだろうか(この例えが適当なのかまったく自信がない)。「ゆる平面幾何学ラジオ」が「厳密には違うけど、いったん円周率を3としましょう」と始めて「円の円周は、内接する正六角形の辺の長さと等しいんですよ!すごくないですか?」と結論づけても「おもしろければそれでいい」とあなたは思うだろうか。

水野さんは、どうにも基礎をかためず、応用ばかりに手を出しているように見える。まあ、おもしろい話題となると、どうしても応用的なものになりがち、というのもわかるけれど、基礎の理解なくして応用を理解するというのは難しいだろうし、かえって遠回りなのではなかろうか。

過去の謝罪動画の中で、水野さんは「言語学の二歩手前」を目指したいというようなことをおっしゃっていた。本人の選択は尊重したいところだけれど、私の率直な感想は「いや、入ってこないんかい」であった。せめて二歩くらいは足を踏み込まないと、それは「ゆる言語学」ではなくて「(似)非言語学」ではないか(実際その後の動画は二歩手前という感じではない気もする)。旅先案内人が「街の外から眺めてるだけで入ったことはないんですよね」と言っていたら不安だろう。定住しろとまではいわないけれど、せめて自らの足で歩きまわっていてほしい。

YouTubeで「言語学」をキーワードとして検索すると「ゆる言語学ラジオ」の動画がずらっと並ぶ、というと大げさかもしれないが、言語学の「基礎」を学ぼうという人からすると適切なコンテンツにたどり着きづらいという状態となっており、これも問題だと思っている。YouTubeで勉強しようというのが間違いだという向きもあろうし、Linguisitics で検索すればまともなコンテンツはたくさんあると言われたりもしたのだけれど、それはこれから言語学を学ぼうという人には結局ハードルが高いことには変わりない。(そのために外国語を勉強できる人は、できるようになるに越したことはない)

「ゆる言語学ラジオ」内でどこまで踏み込むかは別にして、そういった「言語学」を知りたくてたどり着いた人向けに、言語学の諸分野を一通り説明する動画をつくってもよいのではないか。例えば「音声学」とか「形態論」といった言葉を知っているだけで、検索の結果は全然違ってくる(そこで表示される動画がよいものかはわからないけれど)。

とはいえ、水野さんが一から説明するのは難しいかもしれない(訂正待ちでとりあえずやるのもいいと思うけど)。あえて一つ言っておくとすれば、言語学で(そしておそらく全ての学問で)大事なのは、「答え」ではなく「手段」であり、「考え方」である。単に、教科書に載っているような実例をおもしろ豆知識として紹介するのではなく、なんのためにそれを分析し、なぜその手段で分析するのか、みたいな切り口で紹介するのがよさそう。チョムスキーの Colorless green ideas… の文は、何を説明するためのものなのか。その背後にある思想を説明しなければ、それは学問でもなんでもない。水野さんが語源や字源でやらかしがちなのも、そういったところに原因がありそうである。公式を覚えずに、問題文と答えの対応だけを個別に覚えていっても、問題は解けるようにはならない。

これまた、ちょっと話は逸れるが、たまに言語学的に面白い現象に気づいた人が「これはゆる言語学ラジオ案件だ」と言っているのを目にすることがある。違うよ。それはもうまさに「言語学」案件だよ!と思ったりする。

言語学の試験を受けてみてほしい

この記事を書き始める直前に「ゆるコンピューター科学ラジオ」の方で情報の試験を解いてみるという話があった。

同じ要領で「言語学の試験を実際に解いてみる」というのはどうだろうか。私は実物を見ていないのだけれど、例えば次のような書籍がある。

前の項目とも重なるが、何をもって言語学の基礎ができているとするかは難しい。その足掛かりとして、どこが理解できていないかを自覚するというのは有用である。今更、こんな問題を解くのは恥ずかしいかもしれない。(私もこんな記事を書いておきながら、もしたいして解けなかったらきっと恥ずかしい。)しかし、ここで水野さんが間違えたとしたら、それはきっとリスナーにも難しいことである。それを説明するコンテンツを作れば一石二鳥である。

訂正動画をガッツリ出してほしい

間違いが含まれるのは仕方ない。間違いをゼロにしろとは思わない。なんなら、専門書であっても誤植や誤りはなかなかゼロにはできない。

テロップやコメント欄での修正も初動としては良い。むしろそれがデジタルコンテンツの強みでもある。初めてのリアクションを大事にしてるのだろうし、時間の制約もあるので簡単に撮り直しができないだろうというのも想像できる。ただ、一度指摘されたら、さらなる恥の上塗りをおそれて、もうその話題自体に触れないというのはかえって悪手である。テロップ・コメント欄での訂正も音声だけ聴いている人にはないに等しいものである。

毎回、一話ごとに訂正動画を出せというわけではない(それは現実的ではないだろう)。ある程度まとめて振り返り動画を作ったり、あるいは同じテーマで台本を作り直したらどうなるか、なんて形でもいいかもしれない。

水野さんの誤りには割と典型的な勘違いも含まれていることがあり、個人的にはむしろそれを逆手にとって、言語学にありがちな勘違い誤解を払拭するのに活用してほしい。そういったものについて、なぜ間違えやすいのか、勘違いされやすいのかも含めて説明するのは、言語学を教える立場の人にとっても有益であると思う。

何らかの外国語を学んでほしい

たしか2022年最初の動画で水野さんが新年の抱負としてギリシア語を学ぶような発言がされていたと記憶しているけれど、その後の動画でとくに学習した形跡もなく、全く言及されなかった。それどころか、最初の「文字と発音」だけでも勉強していればしないであろう発言があったりして、悲しい気持ちになってしまった。

外国語を学習するというのは実際時間との戦いである。ひとつの言語を習得しようとすればそれなりの時間をかけねばならない。とはいえ、(もちろんできるようになるに越したことはないが)別に試験があるわけでもなく、現地で生活しなくてはならないという状況でもないのなら、無理に習得する必要はないのである。言語学者あるあるとして「多言語ペラペラだと思われがち」というのがあり、実際そういう人もいるので頭が上がらないのだけれど、みんながみんな多言語に精通しているなんてことはない。しかしながら、言語学を生業にしているものであれば、つねに何らかの外国語を学び続けるということは大事であると思う。実際にできているかは別としてこれを否定する人はいないと思う。

私の周りにも二桁の言語学習歴がある人はざらにいる。語学が好きな人と言語学が好きな人は必ずしも一致しないけれど、私の周りの「言語オタク」はやはり数十レベルの言語を勉強しているような人たちというイメージがある。別に「言語オタク」に確たる定義があるわけではないけれど、自称「言語オタク」の水野さんが「自分は外国語学習にあまり興味がない」と言っているのを聞いたりすると、やっぱりさみしい気持ちになる。

興味がないとしても、実際にいろんな外国語に言及せざるを得ない話題を扱っている以上、やっぱり、軽くでも外国語を学んでみることは必要であると思う。英語の語源が気になるなら、フランス語、ラテン語、ギリシア語あたりから始めるのがよいだろうけれど(というか水野さんがこれらの言語を学ばずに語源を語れると思っているのが不思議なくらいだけれど)、何を学ぶかは自由である。

そうは言っても、きっとがっちりやるのも現実的ではないのでオススメをふたつあげておく。

ひとつはNHKゴガクのラジオ講座である。ネットやスマホアプリでも(一週遅れで)聴くことができる。もちろんテキストを買って、発音しながら、問題を解きながら繰り返し聴くのが理想ではあるけれど、通勤時間や散歩しながら、あるいは別の本を読みながらでもとにかく習慣的に聞き続けることを目標にするだけでも十分意味はある。それで話せるようになったりはしないだろうけれど、半年、一年と聞き続ければ何かしら残るものはあるはずだし、そこから本格的に勉強し始めてもよい。

もう一つは白水社の「言葉のしくみ」シリーズである。
これも読んだからと言って習得できるようなものではないけれど、気軽に読めて、読み終えるころにはその言語の全体像がなんとなくつかめるといったシリーズで、20以上の言語が出ている。まったく想像できない言語を選ぶのでもよいし、あえて「英語のしくみ」や「日本語のしくみ」を手に取るのもありである。「言葉のしくみ」シリーズ全部読んでみた、みたいな動画もありかもしれない。

監修の先生の負担

最初に動画の内容に問題が含まれていると指摘されたあと、監修してくれる人を募ったというのは褒められてしかるべき選択だったと思う。(とはいえ、これは既にある程度のチャンネル登録者数がいたからこそ取れた選択肢とも言える)

その後、複数の先生方が名乗りをあげて協力しているのは視聴者の知るところであるが、サポーターコミュニティに参加している人ならいざ知らず、具体的に監修の先生がどの程度関わっているのかは外からはよくわからない。金銭的なやり取りについてもわからないが、ほとんどボランティアに近い形なんじゃないかと想像する。

その他、動画には出てこない複数人の協力があってコンテンツの作成が行われている旨、どこかで話があったけれど、基本的に台本は水野さんが中心となって作成し、発言の内容はお二人それぞれ発言者本人が責任を負っているものとこちらは認識している。

とはいえ、「監修」として先生方の名前が出てしまっている以上、見る人が見たら、つまり同業者からしてみれば、動画内で不正確、不適当な発言があるたびに「監修の先生は何をやっているんだ」ということになる。もちろん先生方も承知した上で引き受けているのだろうし、こういったゆる批判記事を書くことよりもはるかに高尚なことではある。しかし、水野さんたちはいとも容易くその顔に泥を塗ることができるのである。「監修を頼む」ということの重さを今一度噛み締めて欲しい。

そしてリスナーの皆さんには、監修の先生をめちゃくちゃ褒め称えてあげてほしい。(ただし間違ったことを言っていたらしっかり批判してほしい。それが研究者なので)

蘊蓄エウレーカクイズとは

これもチャンネルの人気コンテンツとしてシリーズ化している。このシリーズが始まったあたりから、水野さんは「言語学」が好きなわけではなく、「言葉にまつわる雑学(を披露すること)」が好きなだけではないか、という疑念があるのだけれど、おそらく視聴者の需要も、どちらかというと雑学方面が強く、ある意味でマッチしているのであろう。(もはや言語学関係ない時もあるので、サブチャンネル化しても良さそうな気もする)

さて「エウレーカ」(あるいは「エウレカ」)というのは日本語にもこの表記で受け入れられていると言って良さそうである。英語読みの「ユリーカ」も見聞きする。アルキメーデースの言葉として有名なこの言葉は、ギリシア語の εὑρίσκειν [heu̯rískeːn]「見つける、探し出す、発明する」という動詞の能動態直説法完了一人称単数形 εὕρηκα [hěu̯rɛːka]「ヘレーカ」に由来する。より古い形は ηὕρηκα [hɛ̌ːu̯rɛːka]「ヘーレーカ」だが(cf. 高津『ギリシア語文法』p. 172)、いずれにせよ [h] の音で始まる。アクセントはウの部分が高くなる。水野さんがもしギリシア語を学んでいれば、タイトルも「うんちくヘウレーカクイズ」だったかもしれない。

「エウレーカ」という形で定着しているんだからそれでいいじゃないかと言われればそれまでなのだが、事はもう少々複雑である。アルキメーデースは紀元前3世紀シチリア島シラクサ(ギリシア語で言えばシケリアーのシュラークーサイ)の人であるが、件のエピソードを伝えるのは、200年近く後のウィトルーウィウスである。原文はラテン語で、当該のセリフだけはギリシア語となっている。執筆当時にどう書かれていたかは知る由もないが、古典期以降現在まで伝わるギリシア文字体系では [h] に文字をあてない(代わりに気息記号を振る)ので、ἝΥΡΗΚΑ と書かれているのを、ギリシア語を知らない人が eureca と読んだ可能性は高く、そもそも紀元前後からラテン語内部においても [h] の音は消えつつあったので、混乱はなおさらのことであった。

一方で、εὕρηκα が [hěu̯rɛːka] と読まれていたであろう、というのは古典期(紀元前5-4世紀のアテーナイの発音を復元したものであり、紀元前3世紀のシュラークーサイの人であるアルキメーデースがどう発音していたかは、また別問題である。アテーナイの方言を基礎にした標準的なギリシア語において [h] の音が消えたのは、紀元後数世紀の間と推定されているが、方言形においてはその限りではない。例えばイオーニア(現在のトルコ沿岸)では早くから [h] の音を失ったため、もともとこの音を表していた Η を母音 [ɛː] を表す文字に転用している。我々が学ぶ古典ギリシア語において、[h] を文字でなく気息記号で表すのは、紀元前403年にアテーナイがこのイオーニア式アルファベットを採用したからである。(実はこのあたりの話はプラトーン『クラテュロス』にも言及がある)

そもそもアルキメーデースが本当にそう叫んだかどうか自体が怪しい話ではあるのだけれど、実際に叫んでいたとしたら、どう発音していたのか、これだけで一つの動画になりそうではある。ギリシア語を学習したらぜひ取り上げてほしい。

ところで「蘊蓄」という言葉、お二人の使い方を聞いていても、自分で内省してみても「雑学」「豆知識」のような意味で使われている気がする。この語を辞書で引いてみると大抵「物を積み蓄える(こと)」のような具体的な語釈と「深く研究してたくわえた学問や技芸などの深い知識」という語釈がある。蓄えた学識を披露したり身につけた技能を発揮することを「蘊蓄を傾ける」というが、蓄えた知識の総体が「蘊蓄」であるとすると、蘊蓄を傾けた結果実際に述べられる個々の知識を「蘊蓄」というのはズレが生じているように思う。

諸説はない

以前の記事でも飯間先生の下記ツイートを引用したので繰り返しになってしまうけど、改めて「諸説あります」について述べる。

当たり前の話ではあるけれど、言語学も学問なので、あらゆることについて「これが唯一無二の定説である」と言い切ることは難しい。それこそ語源など文字資料で遡れない昔のことははっきりとわからないことがたくさんあるし、複雑な現象に対する説明の仕方が複数あることは珍しくない。とはいえ、「諸説」は個別の事象に対してあるのであって、一般的に全体的に何にでもあるわけではない。また、実際に諸説あったとしてもそれぞれの説の確からしさというのは均一ではない。有力な説もあれば、荒唐無稽な説まであったりする。

「諸説がある」というからには、その全てでないにしろ「複数の説があり、そのことを認識している」ということを含意するのであり、そうであれば、具体的にどういう説があり、その中からなぜとりわけその説を選んだのか、なぜ他の説ではダメなのかを説明してこそ初めて誠意があると言える。それができないのであれば、はなから「諸説あります」などと言うべきではない。とりあえず最後につけておけばテキトーな発言をしても言い訳になるであろう、と言うのはむしろ最悪な態度であると思う。

もちろん、この(悪しき)慣習は、すでにテレビなどのメディアで広く用いられており、ゆる言語学ラジオでもこれを真似して導入したものだろうけど、ここは真似しないで欲しかった。じゃあどうすべきか、と言うのは、本人たちのスタンスにもよるけれど、「後から見つかった誤りは、コメント欄や概要欄に載せるので参照してほしい」と誘導するとか、誤りをゼロにできないという自覚があるのであれば「誤りを見つけた人は指摘してほしい」旨を述べるとかでも誠意は示せるように思う。

この世から責任回避のためだけの「諸説あります」を根絶させていきましょう。

理系文系二分論を使わないでほしい

直近の雑談(インプット奴隷合宿)回で、堀元さんが恒温動物と変温動物の分類が二極化できるものではない、教科書の記述を鵜呑みにしていたことを恥じた、というような話をされていたが、学問を文系・理系に分ける二分法にも同じことが言えると思う。

「ゆる言語学ラジオ」を聞いていると、お二人は「言語学は文系」であることを自明のこととしているようにみうけられ、そのうえで過去に「文系学問の本質とは」と言った持論を展開したりしている。

個人的には、およそ学問について真剣に考えたことのある人は「文系・理系」という分け方を無批判に踏襲したりしないと考えているけれど、そう考えるに至ったのは「言語学」がどちらであるとも決めきれない、自覚しやすい位置にあるからこそ、なのかもしれない。例えば、田川先生も過去にこのような提言をしている。

「文系・理系」二分法の妥当性については、例えば隠岐『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書などを読むと、その論のスッキリしなさで複雑さを実感したりもするのだけど、少なくとも「言語学は文系学問である」ことを前提にすることで「言語学の本質」がとらえられるようには思えない。(そもそも「本質」ってなんやねん、という話なのだが)

「言語学は文系なのか?(そもそも、文系・理系二分法は妥当なのか)」みたいな切り口で話をつくってもいいかもしれない(堀元さんも好きそうだし)。

アクセント表記の説明をしてほしい

そして広めてほしい。

これは今さら提案するのも遅すぎるかもしれないのだけれど、例えば視聴者から方言や新しい言葉を募集するとき、文字情報だけだと当然アクセントが伝わらないということが起こる。であれば、最初からアクセントの情報も併せて送ってもらえればいいのだけれど、残念ながら日本語のアクセントには正書法のような決まった一意の表記方法がないし、多くの人が学校で習ったりしない。

最近の「ゆる言語学ラジオ」の動画ではアクセントが問題になった時に、テロップでアクセント表記が示されることがしばしばあり、おそらく『NHK日本語発音アクセント辞典』で採用している表記に倣っているものと推測する。(それもたまに間違っていてかえってややこしくなってるのだけど)

私は日本語の専門家ではないので、日本語学、国語学の中でどの程度一般的なのかまでは知らないのだけれど、Twitterなど文字しか使えない環境でも言語学系の人がよく使っているアクセント表記があり、この表記方法について、「頭が赤い魚を食べる猫」の考案者として名高い、元祖言語学系YouTuberでもある中村さんが、わかりやすい動画を作っている。(今となっては幾分古いので音声の粗が気になるのだけれど、新しい動画作ってくれないかな)

この動画の冒頭でも触れらているけれど、ネットで見かけるアクセント表記に、例えば矢印を使ったものがよく見られるが、この矢印、直感的であるようで意外とわかりにくい。例えば矢印が「い↑ろ→は↓」のように使われていた時、上向の矢印↑は、直前の「い」が高いことを表しているのか、「い」から「ろ」の間で上昇するのか、横向きの矢印が使われている場合、それは高さの維持を示すのか、中間的な高さを表すのか、そもそも弁別的なアクセントの機能についての理解がないと、弁別的な機能を持たない付随的な昇降も無駄に記述してしまうことがある(音声学的にはそれも貴重な記述になりうるけど)。「〇〇と同じ」という表し方も、特定の方言間では各々異なるということがありうるので、適切な方法ではない。

このアクセント表記の不統一さは、使っている本人たちにはなかなか意識されにくいというのと、結局文字情報だけ集めても、それが表記者の想定する音とどの程度ずれているのか調べにくいという実態がある。これまた手遅れ感があるのだけれど、例えばライブ配信だったり、あるいは上記のアクセントを説明する回より前の配信等で、次のような実験をしてもらえると、面白いんじゃないかと思う。

  1. 専門的なアクセント表記を知っている人は回答を控えてもらう

  2. 水野さん(堀元さんでもゲストでもよい)に、いくつかの語を発音してもらう

  3. 聞き取った単語のアクセントを他人に文字のみで伝えるという前提で自由に表記してもらう

  4. ある程度回答が溜まったら、どんな表記のバリエーションがあるか、どんな表記方法に人気があるのかまとめる

  5. 上記のアクセント表記方法を紹介し、そのメリットを伝える

ただ、方言によってはまたこの表記方法では対応できないこともあり、特に方言を紹介してもらう際にはそのあたりが障壁になるので、できればその辺りも調べる必要がある(ただ、私もそうだけれど、母方言でないと理解しづらかったりする)。

ついでに、「アクセント」と「イントネーション」も混同されがちなので、言語学用語としての使い分けなんかもあわせて説明してもらえるととても嬉しい。

インフルエンサーの責任

どこかで、水野さんが「最初は飲み会で話すようなつもりで始めた」とおっしゃっていた。この気持ちはとてもよくわかる。正直なところ、私のTwitterもそんな感じでやっている(ので他人を責められた口ではない)。しかし、それは少人数の限られた空間の中だから許されるのであり、そういう話をしたいのであれば、わざわざネットに公開してまでやる必要はない。現実問題、収益化しているということは、お金をもらって話しているわけなので、そこは責任をもってやってほしいし、あくまでテキトーに気楽に話したいというのであれば、そこから利益を得ようとはしないでほしい。

確か同じ話の中で、水野さんは代替されたくないという話をしていたが、そもそも、言語についてテキトーなことを言う人はすでに巷間に溢れている(私とか)わけで、それを水野さんが代替する必要もない(というか私の席を奪わないでほしい)。せっかく今まで発信してきたコンテンツが認められて今の位置に登り詰めたのだし、わざわざテキトー言語トーク界隈のレッドオーシャンに乗り出さず、できる限りより正確かつ面白いコンテンツの発信を目指してほしい。水野さんは「大手出版社」勤務とのことだけど、もし自分が本を出したいとなったら、あるいは本を買いたいとなったら、自分のコンテンツの正確性をも犠牲にするような人に、本の編集に関わってもらいたくないというのが普通の感想ではなかろうか。余計なお世話かもしれないが、本業にも(というか会社にも)悪影響があるのではないか、と思ったりもする。

やっぱり正解はないけれど

いろいろとダラダラ述べては来たが、念のため繰り返しておくと、「ゆる言語学ラジオ」がこの記事の批判・提案を受け入れる義務は全くないし、私の主張こそが正しくて、彼らが間違っている、というための記事ではない。

丹波庭『トクサツガガガ』第165話「正解の所在」

私自身が、「ゆる言語学ラジオ」を聴き続けることで、溜まってきたモヤモヤ(ところで『漢辞海』によると「蘊蓄」には「心中に凝り固まった思い」という意味もあるらしい)をそろそろ昇華してスッキリしたいというのが、私的な執筆動機であるけれども、どうせなら何がしか、言語学に、あるいは言語学に興味がある人の役に立つものにできないかと書き改めるうちにたどり着いたのが「ゆる批判」の概念である。ただ、これも別に「正解」だという確信があるわけではないので、あとで取り下げるかもしれない。

これも念の為に言い添えておくと、別に私は水野さんや堀元さんのことを嫌ってはいない。そもそも嫌うほどよく知らない。(このまとめを執筆しているタイミングでちょうど「ゆる言語学ラジオ」がライブ配信しているのだけれど、ライブ中というだけで、批判記事を書くことに良心の呵責のような書きづらさを感じるという発見があった)

私はもともと知ったかぶりで、物知りと思われたくてその場でテキトーなことをでっちあげる(そして家に帰ってから調べ直して、翌日素知らぬ顔で前言撤回する)嫌な子供だった。言葉にまつわるあれこれも好きだったので、難しい漢字を覚えたり、語源を調べたりもしていた。水野さんの語りを聞いていると、生物のテストで「枸櫞酸回路」を漢字で書いていた頃の自分と勝手に重ね合わせてしまうところがあり、一種の「共感性羞恥」のようなものを覚えることがある(使い方が正しいのか曖昧です)。私の場合は、大学で言語学(とプラトーン)に出会ったことで、それまでの言葉に対して抱いていた価値観を覆され、それが(今から振り返ってみれば)言語学が好きになるきっかけでもあったので、言語学に出会う前の自分のような語りを見ると「早くこっち側に来いよ」という気持ちになってしまうのかもしれない。まあ、それこそ自分の勝手な投影でしかなく、また、言語学のどこに魅力を感じるのかは人それぞれなので、私の価値観が唯一絶対ということもない。言語学は懐の広い学問である。

「正解の所在」

この記事を書きはじめる前後に、マンガワンで限定公開されていた丹波庭『トクサツガガガ』を一気読みしたのだけれど、自分が抱えていたモヤモヤと重なるところがあり、結果的に思考が整理され、この記事に影響する多くの示唆を得た。単純に漫画としても大変面白かったのでオススメである。

私には毎週動画を投稿し続けるようなことはできないけれど、他人の批判ばかりではなくて、私は私で言語学や言語にまつわる魅力を伝えられたらいいな、そしてその楽しさを教えてくれた言語学や語学に恩返しできたらいいな、改めて思い返したりした。

なぜなら、いやしくも完全な意味で善き人間であろうとするなら、まず自分自身がほんとうに善い人間となり、そうすることでよい生活を送っているのだという評判をえようとするのが、いちばん正しくてまた最も効果のある方法であって、自分自身が善い人間であることなしには、よい評判も決してえられないからです。

プラトーン『法律』XII, 950C, 加来訳

追記:おかげさまで多くの方に読んでいただき、批判も多く頂いたので、批判に応答するための記事を別途用意した。(特にこの記事に批判や疑問がある方は)あわせてお読みいただけると嬉しい。

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