西洋古典叢書誤植発見記
西洋古典叢書は大変ためになるシリーズだが、自分が読んでいる限りでは誤植の類も多くみられるので、自分が気づいた範囲でここに記録を残す。誤植以外にも、私が気になった点を含むが、私の認識の方が誤っている場合はご指摘いただきたい。
『ソクラテス言行録1』
2011年3月15日 初版第一刷
「かかずらわる」を載せている辞書もある(『大辞林』など)が一般的ではないような。(誤植とは言えない)
一般的には πρυτάνεις?
ただし、πρυτάνιες の形もヘーロドトスやアリストパネースに用例があるらしい。
「支配の任につく」の方が自然に感じるが、「任につく」という動詞句がニ格をとる用法もある?
「身体をよりすぐれたものに鍛えておいて」
現代仮名遣いなら「手なずける」か。「なづける」としてしまう気持ちもわかるが。
『ソクラテス言行録2』
2022年7月30日 初版第一
「家政管理論」
文がねじれているか。あるいは「古来の貴族政体が [ポリスにおいて特定の有力者が支配の座について] 政情の安定を図った」という文構造ととらえれば読めなくもない?
なお、『ソクラテス言行録1』p. 29 の注(1) に「独裁僭主 τύραννος は、前七世紀から六世紀に古来の貴族政体が崩壊したポリスにおいて特定の有力者に「王」の権限をゆだねて政情安定を図ったのが起源であり、新たな政治体制に至るまでの過渡期的存在として、ギリシア各地に登場した。」という似た文があり、これを書き直したものとも思われるが、そのままでもよかった気がする。
これも誤植とは言えないが、他の場所では「おっしゃっている」とひらがなで書かれており、この用字はこの箇所のみ。
「藝」がなぜかここだけ旧字体。
イスコマコス。同注内でも二回目は正しく「イスコマコス」になっている。
神の名は「ディオニューソス」で「ディオニューシオス」はそれにあやかった人名では? それとも神の名としても使われるのだろうか。
「家政管理論」全体はクセノポーンが聞いていたソークラテースとクリトブーロスの会話を報告するという形をとっているが、この箇所はその会話の後半で、ソークラテースが、過去にイスコマコスと交わした会話をクリトブーロスに伝えているという状況である。ここで地の文となっている「そこでわたしは […] 、イスコマコスの妻が彼にそう返答したと聞いて、こう言った」の部分はソークラテースのクリトブーロスに対するセリフなので、(括弧書きで)挿入されている部分は単に「(とソクラテスは言った)」でよいのでは?
Perseus Digital Library で確認できるテキストでは、原文は次のとおり:
καὶ ἐγὼ ἀκούσας, ἔφη ὁ Σωκράτης, ἀποκρίνασθαι τὴν γυναῖκα αὐτῷ ταῦτα, εἶπον:
なお、p. 71, l. 2 にも「とわたし[ソクラテス]は言った」が出てくるが、ここの原文は次のとおり:
τί οὖν πρὸς θεῶν, ἔφην ἐγώ, πρὸς ταῦτα ἀπεκρίνατο;
「人を~できる者にしうる」の方が自然に感じるが、「笑顔にさせる」同様の用法だろうか。
注番号(1) が二つついているが、後者は不要。
こちらは、後者の (1) が (2) であるべきところ。
謎の改行。
閉じ括弧がひとつ余計。
「すべてにおいて」等とすべきところか。
「形容詞+め」では連体形を用いることもあるようだが、「深め」の方が自然に感じる。
「酒宴」
直前にプロータゴラース、ゴルギアース、プロディコスの名が挙げられているが、プラトーン『プロータゴラース』にゴルギアースは登場せず、(ソフィストとしては)他にヒッピアースが登場する。
「役人」のあとに句点、ないし「で、」のようなものが欲しい。
「ソクラテスの弁明」
「この目で見るは」も言えないことはないがやや古めかしく感じる。
解説
「あるとともに」
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