インターネットクソデカさを求める

 かつてTwitterの代替を探している人は、Twitter世界に個人的恨みがある人々に限られていた。今やTwitterを必要としているわたしたちも最悪の事態を想定している。Twitterのサ終について考えることはもはや杞憂とはいえない、というような空気感になってきている、とわたしは感じている。

 Twitterに代わるサービスは存在しないし、誰にも作ることはできない。クソデカいことが何より代えがたい価値だからだ。今Twitterを必要としているわたしたちにとって「あの頃のTwitter」は求めるものではなく、Twitterと同等の機能を持っている程度ではまったく機能不足であって、クソデカさだけがなんとしても譲れない。

 つまりインターネットクソデカさだ。クソデカいSNSが求められている。

分散するということ

 クソデカいことに価値があるということは、クソデカいことは普通ではないということをも意味している。毎分数十万というペースで投稿されるツイートを捌けるシステムがどうやって運営されているか想像がつく人はあまりいないだろう。これくらいの規模のサービスを運営している企業は世界でも有数だ。

 Twitterに代わる巨大サービスのためにGAFAの新メンバーを募集するというのは悠長な話だ。そこで脚光を浴びたのが分散型。小規模なTwitterぽいサービスをつなぎ合わせることで、背後にある空間を壮大に見せることはできるはずだ。

ActivityPub

 まず触れるべきはActivityPubで繋がったfediverseの世界だが、あえて連合型といった方が適切だろう。

 この世界観では、各々のサービスは独立に運営される。ひとつひとつのサービスが、単独で成立するだけの機能をフルセットで持っている。アカウントとか投稿とかフォローとか。そこに連合を足し算する。

 連合のコンセプトはコピーだ。各サービスは直接抱えているコンテンツにプラスして、他サービスのコンテンツのコピーもデータベースに保存する。fediverseの世界全体をコピーするのは無理な話だが、必要なのは直接のユーザーとソーシャルな関係が存在する範囲だけだ。fediverseの世界から各々の運営に必要なサブセットを切り出していると考えるといい。

 この仕組みはソーシャルな関係の局所性に強く依存している。もしもfediverse世界の全てのユーザーが互いにフォローしていたとしたら、結局fediverse世界全体のコピーが必要になってしまうだろう。Twitterがいくつあっても足りない。

 この仕組みを理解すると、連合型SNSが根本的に分散するべきではないというのもわかるはずだ。ソーシャルな関係性が閉じているほど連合のオーバーヘッドは小さくなり、各サービスはユーザー数に対して適切な規模にとどまることができるからだ。

 都合のいいことに、おおよそ持っている人は与えられて~の文言のように、人々は人気のあるサービスに集中する。misskey.ioが例だ。デカくなればそれだけソーシャルな関係を閉じ込めて効率的になる。逆に言えば、この世界観では普通にデカいサービスの運営が必要になる。

 そういうわけで、fediverseはクソデカいものの、接続口となるサービスのサイズがボトルネックになっている、という現状認識だ。

Nostr

 Nostrで採用されているコンセプトは丁度アンチテーゼになると考えている。つまり、サービスに多くを望まないということだ。

 TwitterやDiscordに代表される中央集権型SNS、あるいはmastodonやMisskeyといった連合型SNSであっても、普通はサービスがコンテンツを管理している。コンテンツが実在していてめちゃくちゃに改ざんされていないという保証を与えるのはサービスの運営主体だ。

 この保証は、厳密には、サービスの手の届く範囲でだけ機能する。つまりサービスが持っているデータベースと、サービスへの通信だけが保証されている。ユーザーの手元に送信されたコンテンツだけを切り出したとき、それを保証するものは何もない。あなたのツイートをコピーして保存しておいたとして、それが本当にあなたのツイートだったのか、Twitterが滅びた未来では証明するものがない。

 ここにパラダイムシフトの余地があって、コンテンツそれ自体に、サービスの手を離れてからも成立する存在保証を与えてみることができる。例えばハッシュチェックだ。

 サービスの手を離れられるということは、サービスの仕事が薄くなるということだ。いちいちデータベースを確認することはないし、いちいち送受信することもない。

 Nostrではクライアントがイベントに電子署名をして適当なリレーに放流するという、尖ったスタイルを提案している。リレーという名のとおり、サービスの機能はペラペラに薄くなって、基本的にイベントを中継するだけだ。アカウントという概念すらない。

 現代に蘇ったIRCという向きもあり、実際リレーはイベントをそれほど長い期間保持しない。長期的な集積が無いという点でマイクロブログとは言い難いようにも感じるだろう。ところがリレーからイベントが揮発することはイベントの消滅を意味しない。誰かが保存しておけばよく、それはユーザーのスマホのストレージでもいい。

ホワイトボード式の宇宙

 放流されたコンテンツが勝手に生存する世界観では、コンテンツが漂っている空間全体がひとつのクソデカい宇宙だ。

 この宇宙を漂うコンテンツを捕まえて、別の価値を生み出すことができる。もっともシンプルな例は検索サービスだ。適当なリレーで大口を開けてコンテンツを待っていれば、それをもとに検索インデックスを構築できる。

 また別のアナロジーでは、これはホワイトボードのようだと言える。誰かがホワイトボードに書き込んだら、別の誰かがその横に付箋を貼り付けたり、また別の誰かが赤線で囲ったりというような。コンテンツとサービスとを切り離したから、単一のサービスの弱さに引っ張られず、機能の異なるサービスを組み合わせてコンテンツを取り扱える。

 インターネットクソデカさを実現するにあたってActivityPub系はクソデカサービスの運営を要求する。いざTwitterの代替が必要になったとき、サービスを薄くするNostr系は有力なアプローチになるかもしれない。

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