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イヤなひとは、イヤな自分の一部
ひさしぶりに「ああ、このひといやだなぁ」と思うひとに出会った。
そのひとは、とにかくマウントをとりたがる。「ああそれ知ってる、知ってる」「そのひとと知り合い」「わたしは昔からやってる」そんなかんじでいかに自分が先にそれを実践してきたか、知っていたかを自慢したがるのだ。こだわりのある分野でそれをやられると、イヤな気分しか残らない。
能ある鷹は爪を隠すというけれど、そういうマウントをとりたがるひとは、能無しなのに爪を出す。この手のひとはチカラ技でねじ伏せようとしてくる。「ともだちがやってる」「まだ見てないけど気になってたんだよね」。やれやれだ。
これまでの自分の傾向として、他人をランク付けするひとが苦手なんだと思う。このひとは上、このひとは下。そういうひとは努力家でエネルギーもあって、自分磨きに余念がない。自信があるからまた強気に出るんだろう。
悪い競い合いを挑んでこられるのが嫌いなのかも。
競い合いは大事だ。生命の根源だとも言うし。世の中には、いい競い合いと悪い競い合いがある。できればいい競い合いをしたいものだ。
いい競い合いはお互いを高めあっていける。切磋琢磨していくうちに能力が上がっていく。競い合うほど相手へのリスペクトも高まっていく。
反対に悪い競い合いは、相手をねじ伏せる。相手をへこませるだけで、何も生み出さない。
わたしは負けず嫌いだ。負けるのが嫌い。だから勝負事にはできるだけ近づかないようにしている。だって負けると悔しいから。
だから仕事でも同じ土俵で戦わないようにしている。競合があらわれるとその土俵からさっさと下りる。違うところで戦えるように新たに戦略を練ってきた。
わたしの姉がすごい優等生で、勉強もスポーツもできる絵にかいたような万能なひとだったからかもしれない。だから小さなころから勉強とかスポーツを頑張るよりも、絵や音楽、料理、手芸などを得意としてきた。
”嫌い”とか”苦手”と感じるのは、だいたい自分の中にあるイヤな部分を拡大した存在なんだと思う。だから気になってしょうがない。ついついそのひとに目が行ってしまう。相手は自分。自分がこだわっていないところだったら許せちゃうもんね。自分の人間性が上がれば、気にならなくなるんだろう。まだまだだなぁ。
その境地には至っていないので、そういうひとからは距離をおきたい。職場にいたら大変だろうな。ああよかった。一緒の環境にいなくて。
カヤックと同じで、「できてるところに目を向ける」といいんだろうな。自分は持っていない相手の優れた部分に焦点を当てる。自分との差異を見つけて、そこを見るようにする。「すごいね」と心から言える部分がみつかれば、いい関係性を作れるのかもしれない。