徳島県へ~How do I want to be remembered?~
「滅びていくのを、ただ見ているだけでいいのだろうか?」
徳島県の山奥に佇む限界集落の一つを訪れた私は、何度も何度もこの質問を自分自身に問いかけました。
そこでは集落の人々の多くが、近い将来この土地で生きる人間が自分達で最後になるだろう、という運命を受け入れ、そして同時に諦めの境地にいる現実がありました。
このように急速に失われつつある地方の集落について話す時、日本人はよく「Setsunai 切ない」という言葉を使います。
表面的には悲痛だとか残念だという意味合いですが、しかしこの言葉にはノスタルジックなニュアンスだったり、過ぎ去ったものに対する愛情であったり、無力感といった意味も含まれているような気がします。
そしてまさにこの「Setsunai 切ない」感情を、にし阿波地域の集落で歓迎していただいた時に感じたように思います。
私が訪れた4つの集落は、彼らのありのままの日常や文化、シンプルな食生活、雲の切れ端が絡み合った山々を眺めながらぼんやりと緑茶を飲むといった時間と体験を、旅行者に楽しんでもらおうと動き出した場所。
このような集落に住む人々は、悲しみに打ちひしがられているんだろうとか、近い将来集落はなくなってしまうことに絶望しているんだろうと思う人もいるでしょう。
しかしそれは大きな間違いです。
私が見たのは、「幸せと喜び、そして諦めるよりも希望を持とう」という想いでした。
8人しか住んでいない小さな集落(全員が80代)には、両親とその生活があるコミュニティを手助けするために若い夫婦が戻ってきていて、この集落での生活を体験できるよう旅行客を呼び込もうと懸命に奮闘する姿がありました。
村中の住民が集まり、蔵王権現に賦与される前に経典を唱える月に一度の仏事に、私たちは参加させて頂きましたが、そこで住職が般若心経を唱えるのかと思いきや、仏事の途中で音飛びのするCDを流していたのには、なんだか可愛らしくて笑ってしまいました。
それから床に輪になって座り、巨大な数珠をひとりひとり回していくという、非常にユニークな体験もしました。
旅行そのものが、この場所にある村々を救えるのか否か。社会は変化し、土地も変化し、そして人も変化します。
しかし、ほんの少しの変化を受け入れること、そして訪問者に楽しませることを選択したこのような集落は、きっと記憶に残る場所となるはずです。もしかしたら、観光客による収益で村の神社の補修に充てることができるかもしれない。もしくは、田舎暮らし体験プログラムによって若い日本人旅行者を呼び寄せることも出来るかもしれない。場合によっては、この村を移住の場所と選ぶ人も出てくるかもしれない。
「私は一体何を残しただろう?」
「どんな風に覚えててもらいたいんだろう?」
今回訪れた集落は、こういった深く、意味のある問いを旅行者に提起してくれます。
徳島は、失われつつある日本を思い起こしてくれました。しかし私にとって今回の視察は、生と死、そして人生における遺産を今一度考えるきっかけをくれた肯定的な時間を与えてくれました。
素晴らしい時間と経験を、ありがとうございました!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?