毒親との日々〜家庭崩壊②〜
姉が成長するにつれ、私に対して気に入らないことがあると手をあげるようになった。
なぜか、やり返しちゃいけないと思っていた私は言い返すことはあっても、絶対に暴力でやり返すことはしなかった。
いつだったか、だいぶ大きくなった時に我慢の限界が来てやり返すと、私は成長が早かったので姉とほぼ体格の差がなく私の方が力が強かったようで、姉の手が止まった。
「…離してよ」と言われ離すと、鼻で笑って去っていった。あの漫画のような強がったザコ顔は今思い出しても滑稽で笑える。
とはいえ我慢の限界がくるまではひたすら耐えていた。バカにされるのは日常茶飯事、姉の言うことは絶対、逆らうと殴られる。機嫌がいい時は仲のいい姉妹(私はそう思ったことは無い)、そんな日々だった。
姉が中学生になり部活が始まると、料理以外の家事は私の仕事になった。なぜか料理だけは「お前は料理ができない」と言われ、やらせてすら貰えなかった。やりたかった訳では無いが…。だから私はずっと自分は料理ができないと思ったままやろうともせず大人になった。
家事をするのは好きではなかった。でもやりたくないとは言えなかった。母は仕事が楽しかったのか、どんどん仕事をする時間が増えていっていた。そして休みの日は朝から酒を飲みずっと寝ている。そんな生活だった。
姉は部活が忙しいんだから!と言われ、私がやるしかなかった。
すると母は私のことを、何でもやってくれるいい子だ!と自慢するようになった。色んな人から【一家に一台○○ちゃん】と言われた。みんな褒めてくれていたのだろうが、私はすごく嫌だった。
中学生になれば私も部活をするので解放される!と思っていたが、中学生になっても状況は変わらず落胆した。
小学校高学年の頃から、習い事のそろばんをサボっていた。母がいない平日の夕方の習い事で、特に欠席連絡等も必要なかったので、友達の家に行き、習い事が終わるだろう時間に帰っていた。母が先に帰っていてもバレないように気をつけてはいた。
ただ、月謝は手渡しで払っていて、それを払っていなかったのはなんとも思わなかったのか?と今でも不思議。着服していた訳ではなく、母に月謝をもらうことすらしていなかった。気付いていたけど何も言わなかったのか?いや、あの母が、習い事に行かないことを容認するとは考え難い…私に興味がなかったのかもしれない。家事すらしていればよかったのかもしれない。
顔を合わせれば喧嘩をする父と母。私は嵐が来ないように間に入るようになっていった。
母の愚痴を聞き、機嫌を損なわないように気を配る。
父は怒りを小出しに出来ず爆発するタイプだったので、ガス抜き出来るようなだめていた。
姉はなんでもかんでも上手くいかないことは父のせいにし、私に当たるので耐えていた。
家が嫌いで、私の居場所などなかった。
いや、あの家で居心地がいい人などいなかったのだろう。
中学1年の時、ついに病院のお世話になる怪我をすることになる。
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