見出し画像

ジロカストラのミリィさん

突然だが、今日はジロカストラのミリィさんについて書いてみたくなった。

と言っても、「あぁ、あのジロカストラのミリィさんね。」と、解説なしで納得する人はいないはずなので、さっそく解説させていただく。

ジロカストラというのは、日本人の99%が行かないであろうと言われている南欧の国アルバニアの中にある古都で、ミリィさんというのは、その街に住まれている初老のおじさんだ。

僕たちの出会いは、2018年から1年をかけて世界中を旅した時に遡る。

5月にロンドンに飛んでからというもの、実に5ヶ月間ぶっ通しで旅を続けていたせいで、僕の感覚はすでに完全にバグっており、『何を見てももう大して感動しない』という末期症状に達していた。

というのも、本来なら非日常を求めて旅に出るところを、5ヶ月も旅をしていると旅自体が日常になってしまい、東京にいた頃には毎日朝に電車に乗り会社に行き、週末には飲みに行くといったような、いわゆる『日々のルーティン』が『旅のルーティン』に置き換わっただけで、次の街までの経路を調べて、航空券やバスを予約して、宿を検索してはブッキングして、街に着いたら観光して…という流れがもはやめんどくさく感じ始めていた。

…なんて言うと、旅をしたことがない方からすると随分ぜいたくな悩みのように聞こえるかもしれないが、これがその時の正直な心境だった。

そんな時にやってきたのが、このジロカストラという街。

ミリィさんは僕たちが泊まらせていただいた宿のオーナーだった。
と言っても、ホテルなんかではなく、Airbnb(民泊)だったので、がっつり個人のお宅だったのだが、このミリィさんという初老の男性がとても素敵な人だったのだ。

何が素晴らしいの、って聞かれると、一言で言えないのだが、まず最初に出てくるのは、自分の村(街)をとにかく愛しているということ。

荷ほどきを済ませた僕たちにカタコトの英語で、「今から村(街)のみんなに紹介するからついておいで。」と言う。

村(街)の建物を見ながら、あれはあーだこーだと歴史的なことも交えながら丁寧に解説してくれているミリィさん。

そこに彼と同年代くらいの男性が通りかかると、「やぁやぁ、調子はどうだい。」と挨拶しながら、「この2人は日本から来た僕のゲストなんだ。ひとつよろしく頼むよ。」というようなことを言った気がするのだが、現地の言葉なので実際のところはわからない。

ともかくそのおじさんと握手を交わし、満面の笑みで「ジロカストラは最高だよ!ゆっくりしていってくれ!」というような言葉を言われた(気がする)。

まぁ、言葉の中身はともかく、表情はまさにそういうようなことを言っているような満面の笑みだったことは確かである。

こんな牧歌的な光景に癒されながら、さらに歩くと、またしても別のおじさん登場。

デジャヴかと思うくらい同じようなくだりが再び繰り返され、満面の笑みのおじさんその2と握手を交わす僕たち。

その後、こんなことが1度や2度だけでなく、10度以上も繰り返されることになり、なんだか、本当に村に引っ越してきた新米のような気持ちになってくる。

途中、ミリィさんが知り合いの店に立ち寄って僕たちを紹介してくれていると、「ちょっとの間、店番を頼んでもいいかい?買ってくるものがあるから。」と言われたまま、その場で彼に店番を頼んだまま人は30分以上帰ってこなかったり、そんなことがありながら、気づいたら文字通り日が暮れていた。

今まで泊まったところでも、宿のホストが一緒に街を歩きながら美味しいお店を教えてくれたり、見どころを教えてくれたりしたことはあったのだが、ここまでのことは無かった。

別に国や街で優しさのランク分けなんてするつもりもないし、そんなことをしてもなんの意味もないのだが、ミリィさんからは何か特別なものを感じた。

彼の顔を見ていると、「心からそうしたくて、そうしているだけ。」という感じが伝わってきて、その原動力はなんなんだろう、と僕は気になった。

ただ、自分の住んでいる村(街)を愛している、というのは、旅をしていると案外珍しいことでもなく、それぞれの郷土愛的なものを持っており、それは素晴らしいことだと思うのだが、ミリィさんの場合は、なんか、それだけではない気がしたのだ。

翌朝、ミリィさんが朝食を作ってくれた。

彼の家は豪邸というわけではなく、どちらかというと少し年季の入った感じなのだが、かなり眺めの良い場所にあり、その庭からは村(街)全体を一望できるし、その先に街を囲むようにそびえ立つ山脈までも見渡すことが出来る。

そんなナイスなお庭のテーブルに、ポーチドエッグとバナナとぶどう、それからミルクとパンが並ぶ。

シンプルな食事なのにすごく豪華に感じる。

庭のすぐ隣には、ミリィさんが手塩にかけて育てた野菜や果物の畑があり、そこを縦横無尽に駆け巡る彼の愛猫たち約10匹。

これまで僕たちは、世界各地で歴史的建造物だったり、絶景だったりをたくさん見てきたけど、本当に価値があることって、むしろ、こういう、素敵な日常的なことなのかもしれない、なんて若年寄りっぽい、悟ったようなことを想いながらパンをかじる。

…美味い。

食卓にミリィさんも座り、一緒にパンを食べながら何気のない会話をする。

「君たちは初めての日本人のゲストだよ。アルバニアで日本人はめったに見かけないからね。アルバニアの前はどこに行ってたんだい?」

「モンテネグロです。ベルギーからイタリアに飛んで、そこからはずっと陸路でトリエステからバルカン半島に入って南下してきたんです。」

「そいつは長い旅だね。とてもいい経験だっただろうね。君たちは英語が上手だから、旅をとても楽しめてそうだね。」

「はい。でも長旅で少し疲れました。ミリィさんは、英語はどこで学んだんですか?」

「この家さ。この家に外国人のゲストを呼ぶようになってから、彼らに少しずつ教えてもらったんだ。」

「えっ、じゃあ、どこかで勉強されてたわけじゃないんですか?」

「僕はアルバニアから出たことがないし、ジロカストラの街からもほとんど出たことがないんだよ。だから、最初はゲストの彼らが何を話しているのか一言もわからなかったけど、何度か同じ音の言葉を言っているのが聞こえて、『それはどんな意味なんだい?』とその度に質問して、ちょっとずつ覚えたんだ。今は1年ちょっとだけど、少し話せるようになったから、もう3年くらいしたらもっと上達するだろうね。いや、そうだといいんだが。」


僕は、なんだか打ちのめされてしまって、うまく言葉が出てこなかった。

たくましい、というか、情熱がすごいというか…。

その時なぜか、僕の頭の中には、『年間100万出して英会話スクールに通っても英語全然話せません!』みたいな日本人(注:イメージです)が浮かんできて、なんだかやるせないような、虚しいような気分になった。

「言葉が通じないと、この村(街)をもっと好きになってもらうことも出来ないからね。」

彼は、本当にこの村(街)を愛していて、それが自然に行動に繋がっているのだ。

何かを頑張ろうとか決意したり、計画したりしたわけじゃなく、とにかく目の前のことを誠意を持って続けてきた結果、こういう実が結んだだけなのだ。

うまく言えないけど、「こういうことなんだよな。」と思った。

その後も、他愛のない話は続く。

「ジロカストラでは、靴屋は店の外に商品をほったらかしにしたまま出かけたりするけど、絶対に盗まれないんだ。なんでか分かるかい? 人が少なすぎて、靴なんて盗んでも、それを履いて歩いてたら自分が犯人だってすぐにバレちゃうからさ。」

楽しい朝食の時間は過ぎ、村(街)を歩いてみることにした。

世界遺産にも登録されている、美しい石造りのこの村(街)をそぞろ歩きしていると、昨日握手を交わしたおじさんその1やその2がまた続々登場してきて、また笑顔で僕たちを迎えてくれる。

wikipediaによると人口4万人ちょっとという情報のこの村(街)だが、それはおそらく行政的な区分の話で、肌感覚では中心部は数百人ちょっとであろう。

むしろ、視界に入る範囲では観光客を含めても100人はいないかもしれない。

そんな、まさに「村」という感じのこの場所で、住人はみんな知り合い同士だから、どこへ行っても僕たちが「昨日ミリィ(さん)と歩いていた日本人」という認識は共有されていた。

ミリィさんがいなかったら全然違っただろうな、と彼に感謝しつつ、短い時間だけ彼らの仲間に入れてもらう。

途中、地元の小学生だろうか、サッカー少年たちから謎の挑戦を受け、文字通りのストリートサッカーで気持ちの良い汗をかいている自分は一体何をやってるんだろう、などと自問自答する小イベントをはさんだりしながら、長い斜面に沿うように出来ているこの村(街)を、ひたすら頂上目指して歩く。

頂上には、ジロカストラ(銀の城という意味)の名前にふさわしく、朽ちた古城があり、そこには対戦中に不時着した米軍の戦闘機が大切そうに展示されていたり、ながらくオスマン帝国の支配下にあった中でアルバニアの民族蜂起に関する展示があったり、城というよりも城跡を利用して作ったミュージアムのような感じなのだが、結構広くて100円か200円くらいだったので非常にお得だった。

割とゆっくり過ごしたので、喉も渇いたし、飲み物でも…と思って店に入ると、なんとそのカウンターにミリィさんがいた。

もちろん、昨日、急遽店番を頼まれたのとは違う店だ。

「暇な時は、いろんなところで手伝いをしているんだ。たいてい、どこも友達の店だからね。今日はこの店ってわけさ。」

5ヶ月も旅をして、いろんなものを見て、感覚も麻痺していたことは先に話した通りだが、ここにきて久しぶりに「非日常感」を感じた僕であった。

それは旅というよりも、タイムスリップに近い感覚で、「中世の街並みがそっくり残っている」事が強調された街ってヨーロッパには結構多いのだが、そういう観光地なんかよりももっと、この村(街)は時が止まってる感じがした。

その後もぶらぶら歩いたりする度に、小さい村(街)だから、何度もミリィさんとすれ違った。

店番をしていたり、仲間とカフェしてたり、飲んでたり、中心部だけなら端から端まで走って2分もかからなそうなこの小さい村(街)で、めいっぱい楽しんでる様子だった。

旅を続けていると、『非日常』が『日常』になってしまい、むしろ『日常』が恋しくるなってくることがある。

だから、ミリィさんの『日常』に僕らがお邪魔させてもらえたのはありがたいことだった。

彼にとっての『日常』は、ホントは僕にとっての『非日常』のはずなんだけど、この時だけは、なぜかそれが『日常』だって感じがした。

その後、数日、この村(街)で、対して何をするでもなく、ただ歩いたり、猫と戯れたり、『日常っぽいこと』をひたすらした。

そして、僕らには次の目的地に向けて、再び『旅』という『日常』が待っているのだった。

あとで分かったことだが、アルバニアという国は、日本みたいに鎖国してことがあったり(しかも割と最近まで)、共産主義の影響化で長い間自由が制限されていたりと、かなり独自の歴史を持っている。

ミリィさんの年代はその数々の荒波をモロにくぐり抜けてきた世代であり、今はようやく自由を謳歌し始めた季節なのだ。

あんなにのどかだったジロカストラにも、激動の時代があったはずなのだ。

僕があの時何も知らずに「今も昔も変わらずずっとのどか」だと思っていたジロカストラは、そうではなかった。

一度失くして、価値が分かった後に再び手に入れたから、それが本当に幸せなことで、特別なことなんだって実感できるのかもしれない。

ヨーロッパ最貧国のひとつとも言われるこのアルバニアだが、本当の貧しさってなんなんだろう、本当の豊かさってなんなんだろう、と思った。

大変な時代があったなんて、一言も言わなかったミリィさん。

日常の小さなピースの一つ一つを心から楽しんでいる様子だったミリィさん。

『目は口ほどに物を言う』ということわざがあるが、ミリィさんの目はそれをまさに地で行くものであった。


一応断っておくと、僕が見たこと体験したことは、ほんの一部のことで、それだけでこの村(街)やアルバニアという国を分かった風に語るつもりはない。

しかし、これが大なり小なり、僕の人生の中ではっきりと心に刻まれ、なんらかの影響を与えたことは事実である(それが良い影響であることを願う)。

これがただの美談なら、この話の続編に、この後近くの観光地で危うく詐欺(ぼったくり)にあいかけた、などというエピソードを加えようもんなら、それこそ蛇足というものだが、まぁそれについても後日、機会があれば書いてみようと思う。

数年経った今、遠く離れたここ日本の地で僕が気になるのは、ミリィさんのあの笑顔が今も健在かどうか、当面はそのことだけである。


いいなと思ったら応援しよう!