世間話がしゃべり出せない。
周りはやたらとざわついているのにシーンという音だけが耳元でうるさい。「お疲れ様です。」から後の会話が続かない。
なにかしゃべらなきゃ。おもしろい話題はないか。そんなことばかり考えて肝心の話の内容を考えることに集中できないでいる。声を出してもいないのにやたらと喉が渇く。水、買っておけばよかった。
ぼくは世間話が苦手だ。
コンクリートの上で干からびそうな魚を海へ戻してやると、生き返ったように生き生きと泳ぎだす場面を想像してほしい。それが飲み会の時のぼくだ。
最初は席に着いても何を話せばいいかわからず、影薄く、幸薄くスマホでツイッターを見て気まずさをごまかしている。ところがどっこい話題が見つかったとたんに別人みたく饒舌になって声も大きくなる。
「世間話が苦手」と言ったものの、そういうことを踏まえてみると原因は別のところにあるのではないかという気がしてきた。
詰まるのはいつもしゃべり出しだ。話題が思い浮かばない。
いや、話題自体は浮かんでいるけどそれが「おもしろいと思ってもらえるのか」「話していて意味のあることなのか」不安が上からかぶさって喉につっかえ、そのまま飲み込んでしまうというのが正しい。
つまり「おもしろくないと思われたらどうしよう」という「よく見られたいプライド」ゆえの緊張だったということだ。ひとみしり=自意識過剰なのである。
よく見せたいのはこわがっているから。こわがってしまうのは信用していないから。相手を信用できないのは自分を信用していないからだ。
とりあえず話してみれば受け止めてくれるだろう。人に対してそう思えないのは自己評価が高すぎて現実のサイズを受け止められないから。自分なんて大したことないのだとまだ思いきれていないらしい。
そんなちっぽけな自分をおもしろい話でなんとか埋め合わせようとすると成果とか意味を求めて緊張してしまうのだろう。
松本人志のすべらない話で河本準一さんが「姉がレズです」の一言で爆笑をかっさらっていったことがある。もちろんぼくも手を叩いて笑い転げた。
でも冷静に考えてみると別に話自体はおもしろいものではないのである。
完璧にストーリーができていて情景も浮かんできてオチもばっちりな「よくできた話」は存在するけれど、そもそもが「おもしろい話」なんて存在しないのではないだろうか。
どんな話も「おもしろく話せる人」や「おもしろがれる空気をつくってくれる人」がいるだけではないだろうか。
ぼくはアプローチを間違えていたのかもしれない。
変なプライドは寝かしつけてどんな話でもとりあえず相手を信用して話出してみること。そして話をおもしろく持っていける工夫や練習をすること。そのためにまずは自分自身と話し合うことが大事だったのだろう。
あと、人の何でもないどうでもいい話はあんがいおもしろかったりするものだ。