「愛と絶望の大陸」 西寺郷太
ぼくは物心ついた頃から何かに立候補することが大好きでした。小学校の頃から、児童会長や運動会の応援団長、地域の青年団の役員なんかを歴任していました。イェイ。そんなわけで少年時代は毎日が立候補の連続。社会の歪みや腐った現実が大嫌いで、校庭に聴衆(子供)を集めては過激な演説をぶったりもしていたのです。
小学4年生にして愛読書はカント、ヘーゲルにマルクス、エンゲルス。唯物弁証法を体の隅々にまで染み込ませた上で、小5でコミュニズムを完全否定することに至ったマセガキのぼくは、小6になる前に全ての「机上の空論」にうんざりするようになりました。ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」を読んで、特に「大衆に殺された綱渡り師」のエピソードに感銘を受けたのもひとつの理由です。よく20歳になると煙草をやめるという人がいますが、ぼくの場合も「小6になったら政治や哲学を我が物顔で語ることなどやめてしまおう」と考えていました。
時代は狂騒の’80年代まっただなか。その頃マスコミやジャーナリズムの世界で文化人達の論争が数多く起こりましたが、それすらも情熱がクール・ダウンしたぼくには単なる暇人の社交ダンスにしか見えませんでした。あれだけ真摯に向き合っていた児童会の活動にも停滞の空気が漂う始末。「社会を変えるなんて、所詮子供の幻想だったのかなぁ」。ふっきれてはいたものの、なぜかせつなく、物足りなく、まるで甲子園を目指しスパルタ教育を受け続けた野球少年が大学に入って野球をやめ髪を伸ばし合コンをしながら感じる喪失感のようなものを自覚しはじめた、春の日の午後。TVから流れる、あるビデオ・クリップを見ながらぼくは震えていました。
その番組は当時世界中を席巻していたチャリティ・ブームの象徴とも言える「ウィ・アー・ザ・ワールド」の特集でした。マイケル・ジャクソン、スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエルにシンディ・ローパーなど、キラ星のように輝くアメリカのミュージシャン達が大合唱するメッセージ「アフリカの子供達を救おう」を聴いて、ぼくはまさに探していたものはこれだと思ったのです。必要なのは「理論武装」などではなく、「行動」のみなんだと。
ぼくはアフリカの寒さに震える飢えた子供達の映像を何度も心に焼きつけました。そして、泣きました。ひとしきり泣き終わると、ぼくは立ち上がり、文房具屋に模造紙と油性のマジックを買いに行ったのです。ほかでもない、校舎の渡り廊下に貼り出す壁新聞の執筆にかかるために。
興奮する息子の姿を見たぼくの母親は、「まるで歴史に残る重要な土器を掘り起こした考古学者のような顔をしていたわ」と、その時の印象をのちに話してくれました。3日間の徹夜で新聞は完成。ぼくはその記念すべき壁新聞の名前を「WORLD TIMES」と命名しました。
「生徒諸君!」ぼくは紙面を焼き尽くすほどの勢いで訴えかけました。「アフリカに毛布を送ろう!」と。そのためには多額の資金が必要だ。ぜひとも、お父さんや、お母さんにこの話を伝えて、お家に眠っている「古い切手」を児童会室まで持ってきてほしいとアピールしたのです。大衆を煽動するぼくの筆致のボルテージはどんどん上昇していきました。(しかし、なぜ「古切手」だったのか。多分、それがお金になるという情報をTVででも見たのでしょう。)ぼくは確実に自分の世界に酔っていました。アジテーションの悦楽。社会正義のために、今おれはこんなにも身を捧げているのだという実感。それは麻薬よりも甘美な快感なのです。翌日、数人の女生徒達と一緒に掲示板に壁新聞を貼り出しながら、彼女達が「こんなに色んなことを子供ながら考えている」ぼくの姿を確実に「憧れと崇拝の対象」として見つめていることに気づきました。しかし、その時はまだそういった種類の視線にどうやって対処していいのかわかるはずもなく、「右が上がってる?どうかなー?」などと尋ねながら、何気なく欲情を繰り返すしかありませんでした。今なら、なんとでも出来るのですが...。
ちなみに全校生徒が通る渡り廊下の掲示板は、まさに新宿アルタの大きなヴィジョンのように学校の中で注目度ナンバーワンの場所。そこに突然貼り出された飢えた子供の悲しい写真と狂気の文体の破壊力は物凄いものでした。その衝撃的な新聞を読んだ子供達は、編集長西寺郷太の名のもとに、少しづつ地を這うような共感のグルーヴを奏ではじめたのです。先生達も協力的で「これこそ最高のアイディアです。みなさん協力しましょう」と校内放送で熱弁を奮うベテラン教師や、「『ウィー・アー・ザ・ワールド』のビデオ貸してくれる?」などといって、道徳の授業で見せたりする若い女教師もいたものです。(彼女は数年後、ヒューイ・ルイスのような体育教師と結婚しました。)そんなこんなでクラスや運動場や、夕食のテーブルや、職員室や、商店街や、立ち並んだマンションのあちらこちらで「古い切手を集めてアフリカに毛布を!」という声が溢れはじめ、それはしだいに異様な熱気を帯びてゆきました。
子供達の叫びを聞いたリサイクル好きな彼らのママ達は、行動をすぐに起こしました。(彼女達はいつだって「お金をかけずに世界に貢献する」のが大好きな人種なのです。)翌朝から、児童会室には古切手の入ったダンボールが次々と運び込まれ、一週間もしないうちに部屋中を覆いつくして壁を埋めました。その数の凄まじさは重い箱の山に押しつぶされて、壁新聞を貼る手伝いをしてくれた女生徒のひとりが転倒して手首を複雑骨折してしまうほど。しかし、そんな呪われたような悲劇さえ、残酷すぎる結末の暗示でしかなかったのです。
ブームはムーブメントとなり、最終的にはフェノメノンへ。事態は小学生がひとりで手に負えるような問題ではなくなっていたのです。1985年の蒸し暑い夏が、すぐそばまで近づいていました。
***
来る日も来る日も、児童会室に運び込まれる大量のダンボール。天井へと堆く積み上げられた重量感溢れる箱の壁。それは、まるで旧約聖書に書かれた未完成のままの巨大なタワー、「バベルの塔」のようでした。ぼくは、「これだけの古切手が集まれば、どれだけの毛布が送れるだろうか」と、震えました。その興奮はぼくを新しい壁新聞制作へと駆り立てていったのです。
そして遂に1985年7月13日、「WORLD TIMES」第二号は、上昇気流の中、渡り廊下の掲示板にセンセーショナルに貼り出されました。壁新聞の前には黒山の人だかりが出来ました。そこには小学生だけではなく、保護者も沢山混じっていました。ぼくはまず読者に対して、この企画に賛同してくれたことへの謝意を表明しました。そして、最後はこう結んだのです。「みんなは、もしかしたら自分がとても良いことをしたと、思っているかも知れません。しかし、それは違います。あなた方が救ったのはアフリカの子供達ではなく、あなた方自身なのです」と。
その後ぼくを巡る環境は急激に変化しました。なんと当時KBS京都のゴールデン・タイムに放送されていたニュース番組「タイムリー10」が、ぼくにインタビューを申しこんできたのです。その直後、これまたKBS京都のお昼の帯番組「姉三六角たこワイド」からも出演依頼が...。今から考えればあまりにもローカルなプログラムとはいえ、「たかがTV・されどTV」。突然のヒーロー誕生に、狭い町は大パニック。クラスメイトや先生達は目に見えて浮き足立ちはじめました。
「ちやほやされる」ということは、ひとつの病気です。少し前の参議院選挙で三流のガラクタ・タレントが多数立候補して失笑を買ったのは記憶に新しいところですが、ぼくには彼らの気持ちがとてもよくわかります。当時のぼくは愚かにも大事な一線を踏み外していました。もはやその頃には、マルクスの「資本論」を暗記してはちぎり、暗記してはちぎり、1ページづつゆっくり食べていたぼくの姿はどこにもなかったのです。
しかし、天狗の鼻が折られる日はあっけなく訪れました。古切手を買い取りに来てくれた古物商のおじさんが箱の中身を査定した後、呟いた言葉が「郷ちゃん。こら、あかんわ」というものだったからです。
噛み締めるように彼は続けました。「切手っちゅうもんはな、一部のマニア受けする珍しいもんが、ごっつぅ高う売れるだけでなぁ。郷ちゃん。悪いけど、こんな普通の切手は、なんぼあってもなんの値打ちもないもんなんや。それにこんな山の中から、もし珍しいのがあったとしても毛布一枚買うことすらできひんねわ。」あまりのショックに絶句するぼく。児童会室は沈黙に包まれました。一緒に盛り上がってくれた担当のN先生(当時27歳)もとても悲しそうな表情で黙りこくっていました。
太陽が西に沈みはじめると、立ち尽くすぼくを置き去りにして、ひとり、またひとりと暗くなった児童会室から勝手連の女生徒達が去っていきました。気がつくとぼくはひとりぼっちになっていたのです。
そうして、今の「小泉ブーム」ですらかすんで見える(なんせ子供は社会が狭いので)ほどの狂乱に満ちた「郷太ブーム」も終わりを告げました。学校中の誰もがぼくに会うたびに「アフリカの話どうなった?」と聞いてくれた時はまだ良かったのです。大半の教師達はこのプロジェクトを途中から黙殺。当初、とても協力的だったはずのベテラン教師は、「先生は、この話、なんやうさんくさいと最初から思とったで。」と、何故か薄ら笑いすら浮かべていました。『ウィー・アー・ザ・ワールド』のビデオを貸した女教師に至っては、児童会室の前に黙ってビデオを置いてゆく始末。
その後は、アフリカの話は急速に忘れ去られ、夏が過ぎ、秋がきました。そのうちにぼくの児童会の任期も終わる日がやってきたのです。
次の児童会長が任命される前日、ぼくはN先生に職員室まで呼び出されました。先生は明るく言いました。「おぅ郷太、あの切手燃やしにいこか」、と。
ぼくは古切手の件だと予想していたこととはいえ、彼のカラッとした態度にとても驚きました。さっさとN先生は児童会室の方向へ歩いていきました。ぼくは慌てて追いかけました。でも、前を進む先生の背中はブルッ、ブルッと揺れはじめ、ダンボールの山にたどりついた頃には、先生は大粒の涙を流して泣いていました。
「全部...。全部、先生が悪いんや!うっ、郷太は、なんやかんや言うてまだ子供や。おまえのせいちゃう。わしが、ちゃんと考えてやれへんかったからや。」ぼくも涙が溢れてきました。そして嗚咽しながら「ぼくは嘘つ、きで、す。みん、なを騙し、た詐欺師なんです」と言いました。そしてその後はふたりとも黙ってリアカーにダンボールを積み、焼却炉へ何度も何度も運ぶ作業を繰り返しました。
古切手はとてもよく燃えました。古都の秋の夕焼け空へと、まっすぐ伸びてゆく灰色のライン。焼却炉のすぐそばで、いくつかの子供達のグループがサッカーやキャッチボールをしていました。彼らの姿を眺めていると、ちょうどぼくのもとに蹴り損なったサッカーボールが転がってきました。少年達がこっちへ向かって手を振っています。彼らのとても輝いた笑顔。ひるがえってこのぼくのていたらく。言葉に出来ないせつない気持ちが、胸に押し寄せる...。
「ふぅ」、と小さなため息をついた後、ぼくは彼らにボールを蹴り返してあげました。
思いきり、蹴り返してあげました・・・。
(完)
2000年 雑誌マッツに連載された西寺郷太「ゲルマン民族大移動」より