小説「ノーベル賞を取りなさい」第1話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
プロローグ
アライグマの毛皮の帽子を、その男はかぶっていた。後頭部から垂れた長い尾は彼の着ている明るい緑色のジャンパーの背中あたりまで届き、そこにはマンションの管理会社の名前が白い文字で記されていた。十二月中旬の午後、建物の周囲に積もった大量の落葉を竹ぼうきで彼は掃いているのだが、敷地はかなり広く、作業は延々と続くかのように思われた。
その様子をリムジンの後部座席から眺めていた上条留美は、やがてドアを開け、外へ出ると男のほうへ向かって歩きだした。植込みの前で男は脇目も振らず竹ぼうきを使っていたが、自分に近づいてくる留美の姿に気づくと作業を中断し、彼女の顔に視線を向けてきた。不機嫌そうな表情だった。
それには構わず、男の前へ至った留美は口を開いた。
「暖かそうな帽子ね、柏田照夫さん」
すると男は、いぶかしげな声で
「誰です? あなた」
と訊いた。そこで留美がコートのポケットから名刺入れを取りだし、一枚を抜きとって差しだすと、相手はそれを受けとり、そこに印刷された文字をしげしげと見つめた。それから視線を留美の顔にもどすと、警戒するような口調で訊いた。
「大隈大学の総長さんが、この俺にいったい何の用です?」
その言葉にすばやく反応して留美は言った。
「アメリカのサウス・コーネル大学経済学部の教授時代に、あなたが書いた論文をすべて読ませてもらったわ。どれもこれも素晴らしい内容だった。柏田さん、あなたはソースタイン・ヴェブレンの生まれ変わりね」
すると彼の声が、やや和みを帯びてきた。
「ほう。ヴェブレンをご存じとは。『有閑階級の理論』はお気に召しましたか?」
「こう見えても、経済学を四十年以上にわたって研究してきましたからね。『有閑階級の理論』だけじゃなく『企業の理論』や『職人技本能と産業技術の発展』など、彼の著作はすべて読みました。経済思想史上は『制度派の創始者』と位置づけられているけど、ヴェブレンという存在はそんなちっぽけなものじゃない。たとえば『企業の理論』では、あのケインズの『一般理論』より三十年以上も前に明解なマクロ経済学の理論的枠組みを構築してみせたのだから。そういう意味でも歴史上最もずば抜けた業績を残した経済学者の一人と言えるんじゃないかしら、彼は」
留美が話し終えると、即座に柏田が口を開いた。
「経済学者の一人じゃない。唯一無二の経済学者です」
「そうね。そうかもしれない」
留美が言い、さらに続けた。
「だからあなたはヴェブレンに心酔してるのね。これまでに書いてきた論文は彼の唱えた学説をベースに経済学の新しい方向性を提言したものだし、そのアライグマの帽子だって彼が好んでかぶっていたものだそうだし、彼のトレードマークだったモジャモジャの髪とボウボウの口髭ばかりはマンションの管理会社に清掃員として勤務する立場上あきらめざるを得なかった」
「よーくご存じで」
柏田が言葉を返すと
「さらに、もうひとつ」
留美がまた話しはじめた。
「そんな風体にもかかわらず、なぜかヴェブレンは多くの女性の心を魅了したという伝説がある。そして柏田さん、あなたも同僚の教授の夫人や女子学生たちにすこぶる人気があった。これは伝説ではなく事実。あなたがサウス・コーネル大学を解雇され、他の大学への移籍の道をも閉ざされて、やむなく帰国することになったのは、あなたの女癖が悪すぎたから」
それを聞いたとたん、柏田は声を荒らげた。
「いい加減にしろ! 昔のことをほじくり返すのは止めにしないか! いまの俺はまじめなマンション清掃員なんだよ! ただいま勤務時間中! とっとと帰ってくれ!」
そう怒鳴ると、柏田は竹ぼうきを握って作業を再開した。
「こんな仕事だけど、毎月二十万円の給料がもらえるんだ……」
そう言って落葉を掃いていく彼に、またもや留美は声をかけた。
「うちへ来ない? その給料の十倍は出すわよ。支度金もね」
「え……?」
柏田の動きが止まった。
「大隈大学政治経済学部特任教授としてあなたをお迎えしたいの」
留美の顔へ視線をもどすと、彼は訊いた。
「どうして、この俺を?」
「あなたなら、やってくれるかもしれないと思うから」
「なにを?」
「いままで、日本人の誰一人として受賞したことのない賞。それを獲得してくれることを」
「なんと言う賞ですか? それは」
首をかしげる柏田の顔をじっと見つめたのち、留美は言った。
「ノーベル経済学賞。私学ナンバーワンの座への返り咲きを目指す大隈大が、おおいに名声を高めるために、ぜひとってほしいの」