小説「ころがる彼女」・第16話
電車の窓から見える街並みが、雨に濡れそぼっている。
七月も下旬を迎えたというのに、梅雨前線はしつこく居座り続ける。真夏の太陽は、いつになったら顔を出すのだろう。
吊り革を右手に握った邦春は、肘に傘の柄を掛けた左手に、スマホを持ち、画面を見ながら降車駅と訪問先の位置関係を確認していた。弓子の入院する病院へ、面会に向かっているのだ。
彼女が入院をして、一か月半近くが経つ。その後の彼女の具合はどうなのか、借りていたCDの返却に西原邸を訪れたとき、邦春は夫から聞いた。それによると、容態は落ち着いてはいるが、大事を取って今月末まで入院させたほうが良いだろうとの医師の説明があり、その通りにしているとのこと。
見舞いに行っても構わないかと訊ねると、彼は快諾し、病院名と住所、電話番号、最寄り駅名を紙に書いて渡してくれた。車よりも電車を利用したほうが早く着き、二線を乗り継いで四十分余り。駅からタクシーで数分だとも教えてくれた。
車窓からの風景を見やる邦春は、ある確信を持っていた。弓子が「ダイスをころがせ」の曲に託した思いが、どういうものなのか、この四十日間をかけて、考え抜き、悩み抜き、もはや揺らぐことのない強さを持つに至った、確信と決意を。
それを実際に試すのが、きょうの面会だ。これは勝負だ。二つの人生を賭けた、真剣勝負なのだ。絶対に勝ってみせる。
駅のホームへ滑りこみ、電車が停まると、開いたドアから歩き出た邦春は、長い階段を降りていった。そして改札口を出ると、傘を開き、雨のなかへ足を踏み入れた。
目的地まで三十分くらいの距離を歩くことになるが、タクシーに乗る気など、これっぽっちもない。今朝のウォーキングの続きだと思えばいいのだ。
病院に到着した邦春は、受付へ。面会簿に記入をしていき、続柄の欄には「父」と書いた。「面会は原則ご家族・ご親族の方に限らせていただきます」と、貼り紙がしてあったからだ。
ソファーで待つこと数分。係の女性に順路を案内されて、入院病棟へ。さらに看護師に導かれて、面会室へ。
ドアを開け、入室して座ると、しばらくして、もう一方のドアが開いた。
そこから、女性が一人、現れた。
彼女は、ピンクのシャツに焦げ茶色のチノパンという服装をしていた。それは、初めて二人が出会ったときに、彼女が着ていたものだった。
テーブルを挟んで差し向いに座ると、弓子は目を伏せた。突然の訪問者に、戸惑っているのだろうか。
彼女の顔をじっと見つめ、それから邦春は口を開いた。
「お久しぶりだね。顔色がいいので安心したよ」
すると弓子は、面を上げ、少しだけ笑みを浮かべた。リンダ・ロンシュタットに似た大きな目で、邦春の顔を見た。
彼は続けて言った。
「ところで、弓子さん。今の体調はどうですか。ABCではなく、1から6までの数字で言うと」
それを聞いたとたん、あどけない顔から笑みは消え、驚きの表情に変わってしまった。
「ささやかだけど、お見舞いを持ってきたよ」
そう言うと、邦春は上着のポケットから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。
それは、小さなサイコロだった。何の変哲もない、ひとつのサイコロ。1の目を上にして置かれた、角の丸い立方体だった。
邦春は言葉を継いだ。
「これを振って転がすと、1の目は2にも3にも4にも5にも6にも、再び1にもなる。2の目は、3にも4にも5にも6にも1にも再び2にもなる。5の目は6になるかもしれないし、1や2や3や4に、あるいは再び5になるかもしれない。6の目が1か2か3か4か5になるのか、ひょっとしたら再び6になるのかは、振ってみなければ分からない」
弓子は黙って聞いている。
「つまりは、こういうことなんだ。あなたの体調の変化は、AからB、BからC、CからAへの浮き沈みといった単純なものではなくて、1から6までの数字が、次はどの数字になるのか振ってみなければ分からない、サイコロの回転運動として捉えるべき性質のものだったんだ。あなた自身は、いつからか、そのことに気づいていった。なのに、それを正しく理解してくれる人は周囲に誰もおらず、あなたはひとりで苦しみ続けた」
弓子の大きな目がだんだんと潤み、やがてこぼれたひとしずくの涙が、彼女の頬を伝っていった。
邦春は話し続ける。
「でも、転がるのをやめるわけにはいかない。なぜなら、サイコロは転がって目を出すための道具だから。振られるたびに、いつも転がる必要があるから。そう運命づけられているものだからね。ときには、おぞましい悪夢のひと振りが、サイコロを転がすことだってある。弓子さん、そのサイコロは、あなた自身だ」
彼の言葉に、涙を流しながら、弓子は声をしぼり出した。
「私の居場所が無いよう……。いつも転がってばかりだから、私の居場所がどこにも無いよう……。前のお家も、前の病院も、今のお家も、居られなくなっちゃった……。この病院も、もうすぐ出ていかなくちゃならないから、私の居場所がどこにも無いよう……」
肩を震わせて、しゃくりあげる彼女。
その姿を、じっと見つめていた邦春は
「そう悲観的になることはない」
と言い、上着のポケットから、また何かを取り出して、テーブルの上に置いた。
それもまた、サイコロだった。最初のと同じの、小さなサイコロだった。
「そっちのサイコロは、あなた。こっちのサイコロは、私」
邦春の声に、力がこもる。
「いっしょに転がってあげようか」
「え……?」
「あなたといっしょに、私も転がってあげる。そもそも、サイコロは、ふたついっしょに振られて転がるものだから」
弓子は、しばらく沈黙した。そうして涙が止まるのを待ち、こう訊いた。
「共犯者になってくれるの?」
「もちろんだ」
邦春は頷きながら言い、
「いくつになっても船乗りだ。あなたを、私の船に乗せて、運んであげる。あの街から、どこかの街へ、連れていってあげる」
と言葉を継いだ。
弓子の顔が、少しずつ、明るさを取り戻していく。その様子が、邦春の心を、喜びで満たしていく。勝負に勝ったのだ。
「おっと。そろそろ、タイムリミット。面会時間はたったの三十分だからね」
腕時計を見ながら言うと、邦春は立ち上がり、ドアへ向かった。そして最後にこう告げた。
「退院したら、またインターホンを鳴らしてくれ。さっそく実行しよう、われわれの脱出作戦を」