みかんの色の野球チーム・連載第17回
第2部 「連戦の秋」 その9
11月、最後の月曜日。
その朝、大きなブリキのバケツを持って登校してきたのは、ペッタンだった。
「そげなもん、どげえするん?」
私が訊くと、
「このバケツいっぱいにのう、ギンナンを拾うて、持って帰るんじゃあ。ウチのとうちゃんがのう、酒のツマミに最高じゃあち。かあちゃんがのう、茶碗蒸しに入れてくれるち」
ペッタンが、張り切り声を出した。
間もなく、冬だ。校庭のイチョウの木々の植えこみの中や周辺には、黄色い落葉といっしょに、たくさんのギンナンが転がっている。
しかし、まだ木に付いていたときには何ともなかったのに、地面に落ちたとたん、あの実が発する強烈な腐臭といったら!
うっかり靴で踏んづけようものなら、1日じゅう悪臭と歩行をともにすることになってしまう。
昼休み恒例のドッジボールも、もしもボールが植えこみの方に飛んで行って、ギンナンの上を転がり、その汁が付着してしまったら、そこでゲームは終了。
そんな臭いボールを服に投げつけられたら、たまったものではないし、たとえボールを水で洗っても、臭いは落ちやしない。かと言って、用具室に代わりの球を探しに行っても、残っているのは空気の抜けたへなへなのボールばかりなのだから。
放課後の、掃除の時間。
植えこみの一帯を掃いてきれいにするのは、4年生の役割だ。気の毒な掃除当番の子たちが、鼻をつまみながらホウキやクマデを動かしていると、そこへ大きなバケツを持って登場したのは、ペッタンだ。
「おまえら、今日はもう帰っていいぞ」
と、下級生たちを促し、私たちの見ている前で、彼はさっそくギンナン拾いを開始した。
中腰になったり、座ったり。
素手のままの両手でギンナンの実を掴んでは、ブリキのバケツに投げ入れ、大きな楕円形をした植えこみの周囲を、ジリッ、ジリッと、少しずつ進んでいく。
やがて30分余りが経過し、ペッタンが楕円の4分の1あたりまで移動したとき、
「いつまで拾い続けるつもりじゃあ?」
ブッチンが声をかけると、
「バケツが満杯になるまでじゃあ。まだまだ半分にも達しちょらん」
そう、答が返ってきた。
やれやれ、ご苦労なことだ。
「そんなら、俺どーは、先に帰るけんのう」
ブッチンの再度の呼びかけに、
「おう、すまんのう。俺はまだまだ、頑張るけん」
そう言ってペッタンは立ち上がり、私たちに向かって手を振った後、両手でパンパンと頬を叩いて気合を入れるしぐさを見せた。
私たち4人もまた、彼に手を振ると、くるりと向きを変え、正門の方へ歩いて行った。
その途上で、私は思い返していた。
津高が九州大会の2回戦で敗退した翌日、イチョウの木に成るギンナンを見上げながら、あれをぜんぶ食べたら少しは腹の虫が治まるだろうかとペッタンが言ったとき、ほんとうはただ、彼はあの実を味わいたかっただけだったのではないだろうか。
しかし、校庭のギンナンは、禁断の果実だった。
翌朝。授業開始前の、出席確認の点呼。福山先生に名前を呼ばれても、ペッタンの返事はなかった。
39人の生徒たちを相手に始めた、1時間目の授業。国語の教科書を1人1人順番に朗読させながら、先生の様子はどこか苛立たしそう。
怒っているのだ。何か理由があって遅刻するにせよ、欠席するにせよ、連絡をよこさなかったペッタンのことを。
ああ、ペッタンよ。今日はもう、姿を見せない方が身のためだぞ。もしもこれからやって来たら、間違いなくヒゲタワシ18番の、往復ビンタのエジキだからな。
私がそう思ったのも束の間、ガラガラッと教室の戸が開いて、40人目の生徒が入室してきた。
とっさに右手を振り上げ、入り口へ突進するヒゲタワシ。
だが、無断遅刻をしてきた教え子に、彼が大きな手の平を振り下ろし、両頬を赤く染め上げる必要などなかった。
なぜならば、ペッタンの顔は、すでに真っ赤。異様なほどの大きさに腫れ上がり、まったく別人の人相になっていたからである。
「な、な、なんだ、おまえ! そ、そ、その顔は!」
驚いたヒゲタワシの大声に、
「あい。ギンナンの汁に、カブレてひまいまひた」
どうやら、ものすごい顔の腫れは口の中にも及んでいるらしく、不明瞭で情けない声を発しながら、ペッタンは両の手を差し出して見せた。
そこには、顔に負けないくらいの激しい症状があり、大きく腫れた彼の両手は、まるで2つの真っ赤なグローブをはめているかのようだった。
あまりの驚愕に、怒りなど吹っ飛んでしまったらしく、
「ま、まあ、と、とにかく、せ、席に着け」
ヒゲタワシが、しどろもどろに言うと、
「あい。ヒコクひて、どうもふみまへん」
ペッタンは、一礼し、自分の席に向かった。
予期せぬこの事態に、驚き呆れたのは、もちろん先生だけではない。
クラスの全員が、変わり果てたペッタンの顔や両手に、絶え間なく視線を注いでいる。
ただでさえ、ゼッペキ頭で平べったい顔をした彼は(だからこそペッタンというニックネームが付いているのだが)、ギンナンによるカブレのせいで容貌の特徴がいっそう際立ち、駄菓子屋で売っている、大きくて真ん丸い海老せんべいが服を着ているようだった。
「素手のまんまでギンナンなんか拾うけん、そげなことになるんじゃあ」
ブッチンが、たしなめるように言った。
真っ赤に腫れ上がった顔や両手には激しい痒みが走り、その苦痛と闘いながら、ペッタンが何とか長い1日を終えた帰り道。私たちは、彼に意見をしながら歩いていた。
「その通りじゃあ。ちゃあんとゴムの手袋をして、ギンナンの汁が手に付かんようにしてから拾わんと」
ヨッちゃんも、遅すぎる忠告をした。
「それに、汁の付いた手でホッペタをパンパン叩いて、気合なんか入れるけん、そげな顔になるんじゃあ」
カネゴンもまた、愚行について指摘をした。
「じゃあけんど、口の中まで腫れてしもうたんは、どげえして? まさか、おまえ、あの臭え実を、そのまんま……?」
私が問いただすと、
「あい」
ペッタンは、そう頷き、
「1個らけ、食べた」
信じられない返事をしたので、私たち4人は、呆れ果ててしまった。
ギンナンをバケツに入れたら、水を注ぎ流してよく洗い、果肉を除去して種だけを取り出す。それを何日も天日で干してしっかりと乾燥させ、しかる後にフライパンで炒る。
それが基本的な調理の方法であることくらい、私の妹の智子でさえ知っているだろう。いったい、彼の母親は何をしていたのだろう。
「おまえのかあちゃんに、バケツごと渡して、ぜーんぶ任せたら良かったんじゃあ」
私の意見に、
「かあひゃん、パチンコ。家におらんやった」
ペッタンがそう答えたので、私はもう何も言うことがなくなった。
「まあ、とにかく、早う良うなるといいのう。いつまでも、その顔のまんまじゃったら、フォクヤンの仲間にされてしまうぞ」
ブッチンが最後に、冗談めかしたせりふを口にしたそのときだった。冗談では済まされない事態が訪れたのは。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
これまで私たちを何度も震え上がらせたあの音が聞こえてきたかと思うと、前方の木陰から突然、恐怖の老人とその道連れが姿を現したのだ。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
ぎい、ぎい、ぎいこ。
闇色の怪人と錆色のリヤカーは、真っすぐ、こちらへ向かってくる。私たちとの距離は、30メートル……20メートル……10メートル……。
そのとき、列の一番左側にいたブッチンが、サササッと素早い動きで道端を走り進み、フォクヤンの右後方へ回りこんだ。
それには気づかず、私たちの目の前まで到達したフォクヤンは、そこで立ち止まると、黒く不気味に光る双眸で、4人の顔を見回し始めた。
ペッタンを見て、ヨッちゃんを見て、カネゴンを見て、私を見る。
それからまた、逆の順に、カネゴンを見て、ヨッちゃんを見て、ペッタンを見たとき、フォクヤンの両目の動きはそこで停止した。
大きく腫れ膨らんだペッタンの顔に、じっと注がれる、怪老の視線。
不気味な沈黙。恐怖に凝固したままの4人。
やがて、闇色の顔の口が開き、そこから出てきたのは、獣の咆哮にも似た大声だった。
「ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ!」
怪人の咆哮は、鳴り止まない。
「ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ!」
いつしか、私は気づいていた。これは、笑い声なのだ。無様に腫れ上がったペッタンの課を見ながら、この老人は笑っているのだ。
「ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ! ふおーふおーふおーっ!」
その最後の哄笑が響き終わらないうちに、フォクヤンの背後でじっと状況を窺っていたブッチンが、いきなり走り出し、跳躍すると
「基地のカタキじゃーっ!」
鋭い叫び声とともに、老人の背中に飛び蹴りを食らわした。
突然の衝撃に、つんのめったフォクヤンは、リヤカーの鉄の柄に腹部を折り曲げ、
「えほっえほっえほっ」
と、むせ返った。
「今じゃ! 逃ぎーっ!」
飛び蹴り後の体勢を立て直したブッチンが叫ぶのと同時に、私たちは駆け出し、フォクヤンとリヤカーの脇を通り抜けて走った。
ふと背後を見やると、リヤカーの柄から抜け出したフォクヤンが、私たちの後を追いかけてくる。老人の脚とは思えない猛スピードで。
逃げる5人、追いすがる怪老。
少年の頃から山中で暮らし、いまも炭焼きで彦岳を登り下りするフォクヤン。いつも、重いリヤカーを引いて町じゅうを歩きまわっているフォクヤン。だからこそ、これほどまでに健脚なのか。
他者から攻撃を受けない限り、フォクヤンが人々に危害を加えることはない。だが、すでにブッチンが痛手を与えてしまった。
母から聞いた話を思い出しながら逃げ走っていたせいか、突如私の脚はもつれ、路上に転んでしまったのだ。
「待ってくりーっ!」
前方を走る4人に向かって思わず叫んたが、もう遅かった。
仰向けに倒れた私の上に、追っ手の黒い影が覆い被さり、その重みが身動きを封じた。
「ふおおおおおおおおーっ! ふおおおおおおおおーっ! ふおおおおおおおおーっ!」
地面に私を押さえつけ、顔に顔をくっつけて、怒りの咆哮を放ち続けるフォクヤン。
鼻がひん曲がりそうな息を吐き出す、その口。
左右にめくれ上がった、唇。
大きく分断された、歯茎。
どこまでも裂け割れた、口蓋。
そこから延々と赤い、喉。
その奥でぶるぶると振動する、懸壅垂。(※注)
「ひゃああああああああーっ!」
最後の叫びを残して、私は失神した。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
気がつくと、私は道の上に仰向けに寝ていた。
辺りはすでに暗く、風が土ぼこりを舞い上げている。
寒い。
私の顔を覗きこんでいる、4つの顔。
「大丈夫か? タイ坊」
「ケガは無えか?」
「何もされんじゃったか?」
「フォクヤンはもう行ってしもうたぞ」
それらの言葉で、いったい何が起こったのかを、私は思い出した。
5人で歩いていた、帰り道。
突然現れた、フォクヤン。
ペッタンの顔を見て笑い声を上げた、怪老。
彼を蹴飛ばした、ブッチン。
逃げ出した、5人。
追いかけた、老人。
そして転倒し、捕まった、自分。
私は、のろのろと上半身を起こし、それから立ち上がった。
どこにも、ケガはないようだった。
フォクヤンは、私に危害を加えず、ただ怖がらせただけだったのだ。
だが、私は、あまりにも怖がり過ぎてしまった。
私の両足は、冷たく濡れていた。
暗がりと、自分が履いている長ズボンのおかげで、ブッチンにもペッタンにもカネゴンにもヨッちゃんにも、それを悟られずに済んだのは、不幸中の幸いだった。
ユカリにも、このことを知られずに済みそうなのは、とてもありがたいことだった。
小学生時代最後の、秋の終わりに、この私は、なんと小便を漏らしてしまったのである。
(※注)のどちんこ。
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