小説「ころがる彼女」・第2話
翌朝六時二十分、いつものように邦春は家を出た。
約七・八キロを歩き進んでいく一万歩ウォーキングは、よほどの悪天候でないかぎり欠かしたことのない、五年前からの習慣だ。
ジョガーパンツに、半袖のインナー、長袖のパーカー。ウエストバッグには、水筒やタオルなど。シューズの心地よいクッションを足の裏に感じながら、早春の住宅街を抜けて、郊外へ。東北・上越新幹線の橋脚で折り返し、帰宅すると、だいたい午前八時。つまり約一時間四十分をかけた約一万歩の運動になる。
きっかけは、ベスとの散歩だった。生後五か月で外出デビューをした愛犬とは、朝夕に三十分ずつくらいの散策を、のんびりと楽しんできた。けれど十歳を過ぎたころから、だんだんベスは長い外歩きを欲しなくなり、家のなかの、そぞろ歩きで満足するようになった。ときどきサッシ窓を開けてやると、近寄ってきて、戸外の匂いを、鼻を鳴らして嗅いでいる。
散歩が一人になってからは、その目的を自身の健康の維持増進にはっきりと定め、一日一万歩を邦春はノルマにした。身長百七十五センチ、体重六十三キロ。背筋がピンと伸びた健康体を、八十四歳の今もなお保っていられるのは、この早朝ウォーキングのおかげだと信じている。健脚は自慢だが、世のなかには九十歳でエベレストに登ろうという人だっている。上には上があるものだ。
短く刈りこんだ白い頭髪を春風に撫でられながら、邦春は今朝のトレーニングを終えた。自宅の前に到着したそのとき、視界の左端に何かが飛びこんできた。
それは一枚のプレートだった。向かいの家の門扉に掛けられた、明るいピンクの、楕円形の板だった。
近づいて、よく見ると、その金属板の上には、焦げ茶色の文字でこう記してあった。
たのしい回文教室
月曜日~金曜日 午後二時~五時 (土・日・祝日はお休み)
講師 西原弓子
興味のある方は玄関のチャイムを鳴らしてください
何だ、これは? 回文って、あの「たけやぶやけた」とかいうやつだよな。それを教える教室とは、はて?
西原弓子って書いてあるけど、昨夜挨拶にきたあの西原さんの奥さんだろうか。そうだよな、妻と二人暮らしですって言ってたものな、彼は。
今朝、家を出発したときには、まだこのプレートは無かったはずだ。おそらく、自分のウォーキング中に掛けられたのだろう。
西原邸の門扉の前で、しばらく首を傾げたのち、邦春はくるりと
向きを変え、自宅の門扉を開閉し、ドアを開けて入っていった。
次の日の午後、時計の針が二時を指し示すのを確認した邦春は、自宅から
向かいの家へ訪問した。
それは回文教室というものに何となく興味を抱いたのと、新しい近所仲間への挨拶もかねて、という気持ちになったからだ。
玄関チャイムのボタンを押すと、
「はあい。西原です。こんにちはー」
明るく軽やかな声がした。
「どうも、こんにちは。向かいの清水です」
挨拶を返すと、
「あら。おめでとうございます! 清水さん、回文教室の生徒さん第一号になりましたよ! ちょっとお待ちになってくださいね」
と、声が弾んだ。
「いえ。まだ決めたわけでは」
そう応じたのも束の間、ドアが開いて、弓子が現れた。その服装を見て、おや、と邦春は思った。女性にしては長身の体にまとった、明るいピンクのシャツと、焦げ茶色のチノパン。その配色は、門扉に掛かったプレートとまったく同じだったのだ。
そして、黒々としたロングヘアから覗く顔は、両目がぱっちりと大きく、子供のようなあどけなさを湛えている。まだ二十代か、それとも三十代か。昨夜挨拶にきた夫とは、背丈も年齢も不釣合いに見える。
「どうぞ、お上がりになって。さっそくレッスンを始めましょう」
若々しい声に促され、
「いえ、まだ決めたわけでは……」
の返事を繰り返しながらも、邦春はドアの内側へ足を踏み入れた。
新築の匂いが漂うなか、玄関から長い廊下を通って、いちばん奥の部屋へ。弓子に誘導されて、邦春は教室へ行きついた。ぴかぴかのフローリングの、八畳くらいの洋室だ。部屋の壁際には、キャスター付きのホワイトボード。中央には長いテーブルが置かれ、壁には折りたたみ式の椅子が重ねて立て掛けられている。
それらのうちから、二つを両手に持ち、テーブルを挟んで向かい合わせにセットすると、弓子は言った。
「お座りになって。準備をしてきますから」
椅子に腰かけた邦春は、長い航海生活の、ほんのひとコマを思い起こしていた。あれは、たしか、ジャクソンビルに寄港したときのことだった。米国フロリダ州の、その港町で、女を買ったのだ。とても愛らしいメキシコ娘。名前はもう忘れたが、顔は何となく覚えている。どこか、弓子に似ているのだ、おぼろげな記憶だけど。
船乗りと、港の娼婦。それは、切っても切れない間柄だ。船旅の無聊を慰めてくれる、女たち。たくさんの稼ぎを与えてくれる、男たち。四半世紀におよぶ船員生活を通して、邦春も何度かお世話になったことがある、彼女たちには。そのころは、まだ若かったし、これぞ船乗りという振舞いを気取ってみたかったのかもしれない。もちろん、妻の敬子には、ずっと内緒にしてきたが。
懐かしい思い出に浸っていると、部屋のドアが開き、弓子が戻ってきた。邦春と向かい合って椅子に座った彼女は、本と、ノートを一冊ずつ、それにペンを一本、テーブルに置いた。そして言った。
「それでは回文教室を始めます。まず、清水さん、今日は何月何日ですか?」
その問いかけに、なんだ認知症の検査かよと少しムッとしたが、八十四歳になったって脳味噌はしっかりしているんだぞと
「平成三十一年三月十三日、水曜日です」
元号と曜日までサービスして答えてやった。
すると弓子は
「はい、正解。では、三月十三日は何の日か、ご存じですか?」
と質問を続けてきた。
何の日? 何だ、そりゃ? 今日は平日だし、特に何かあったっけ……? 考えあぐねていると、
「実は、私も知りません」
と、弓子。
「なので、調べてみましょう」
そう言うと、彼女はテーブルに置いてあった本を手に取り、ぱらぱらとめくり、じっと目をやり、それから口を開いた。
「この記念日ガイドブックによると、三月十三日は、新選組の日、青函トンネル開業記念日、サンドイッチデーなど、いろいろありますね」
ああ、そういうやつか。一年の三百六十五日は、皆それぞれが何らかの記念日になっているのだと、テレビか何かで聞いたことがある。納得した邦春に、弓子は三度目の質問をした。
「それでは、サンドイッチデーにしましょうか、本日のお題は。どうして三月十三日がサンドイッチの日かと言うと、三・一・三というふうに、一が三に挟まれているからだそうです。ところで、清水さん、サンドイッチはお好き? お好みのサンドは、なあに?」
邦春は答えた。
「好きですよ、サンドイッチ。スーパーとかコンビニで、よく買いますし。好みと言えば、そうだなあ……ハムサンドとか、卵サンドとか、ポテトサラダサンドとか、ツナサンドとか、エビカツサンドとか……」
「了解」
短く応じると、弓子は腕を組み、目を閉じて、何やら瞑想状態に入ったかの様子を見せた。
そうして、待つこと、数分。
突然、彼女の目が開いた。ノートを開き、ボールペンで何かを書き始めた。無言のまま、猛然とペンを走らせること、数分。おもむろに椅子から立ち上がると、壁際のホワイトボードへ歩いていき、黒いマーカーを手にして、彼女はこう書いた。
ツナ、いい。卵(たま)もまた、いいなっ。
書き終えると、弓子は言った。
「これを、上から読んでください」
「つな、いい。たまもまた、いいなっ」
「こんどは、下から読んでみてください」
「つないい、たまもまた、いい、なっ。あ……。ああ……。おんなじだ……」
「その通り!」
弓子の言葉に、力がこもる。
「上から読んでも、下から読んでも、同じ。これを、回文と言う」
邦春は、驚いた。自分が好きなサンドイッチの種類をいろいろと挙げたら、それらのなかから二つが読みこまれて、回文というやつが出来上がった。それも、わずか十分足らずで。この女性は、いったい、何者だ?
呆然と、ホワイトボードを見つめる、邦春。そこに黒く書かれた文字列の中心部分「たまもまた」を、こんどは赤いマーカーで囲みながら、彼女は言った。
「これが、回文の、おヘソ」
続いて、ヘソの上下にある二つの「いい」を赤く囲み、
「こうやって、言葉を足して、伸ばしていく」
さらに最上部の「ツナ」と最下部の「なっ」を囲んで、
「どんどん、伸ばしていく。上と下へ、シンメトリックに。どこまでも、シンメトリックに」
そう講釈すると、弓子は邦春の顔を見ながら、笑った。
「どう? 簡単でしょ?」
どこか悪戯っぽい笑みと言葉を投げかけられ、邦春は顔を左右に振った。そのしぐさを見て、また笑い、彼女は言い添えた。
「最後に、回文作りのルールについて、補足説明しておきますね。一つ。濁音も半濁音も、清音と見なすこと。つまり『ばびぶべぼ』も『ぱぴぷぺぽ』も、『はひふへほ』と同じです。二つ。拗音も清音と見なすこと。なので『ひゃ』と『ひや』は同じです。三つ。促音も清音と見なすこと。この回文にあるように『なっ』と『なつ』は同じです。あとは、現代かな遣いでも歴史的かな遣いでもオーケーと、私は回文作りのルールを緩くしてありますから、清水さんも、すぐに作れるようになりますよ」
弓子の言葉に、頭をかく、邦春。
ホワイトボードからテーブルに戻り、椅子に腰掛けてから彼女は訊いた。
「清水さん、回文って、楽しそうですか? 面白そうですか?」
「うーん。あなたの腕前には驚いたけど、私にはちょっと無理ですよ。でも楽しませてもらったし、面白いなと感じたのは事実です」
「だったら、やりましょうよ!」
身を乗り出し、顔を近づけて、弓子は言う。
「お月謝は、たったの三千円です。土曜・日曜・祝日以外は、毎日通えて、三千円。こんなに楽しくて、脳トレにもなって、お金のかからない趣味が、清水さん、今どき他にあるかしら?」
そのせりふが決め手となった。月に三千円は、一日に百円ずつ。習い事としては、破格に安い。とうとう邦春は、その気になった。
「分かりました。生徒になります。西原先生、これからどうぞよろしくお願いいたします」
テーブルに両手をつき、頭を下げながら邦春は言った。
「こちらこそ!」
弓子の声が、大きく弾んだ。それから彼女は、言葉を継いだ。
「今日は初めてなので、これくらいにして。続きは明日から、またやりましょう。清水さん、明日も来れますか?」
「ええ、ヒマなジイさんですから」
それを聞くなり、弓子は記念日ガイドブックを再び手に取った。そして、ぱらぱらとめくり、目を通してから、邦春に告げた。
「それでは宿題を出します。明日、三月十四日は、ホワイトデーなど、いろいろな記念日があります。それらのなかから、数学の日をお題にした回文を作ってきてください。円周率の近似値、三・一四にちなんで数学の日、です。分かりましたか。必ず作ってきてくださいね」
「うへっ」
邦春は頭を抱えた。