みかんの色の野球チーム・連載第33回
第4部 「熱狂の春」 その5
翌、4月2日。
津久見は、朝から雨だった。
ということで、今日はブッチンたちと遊ぶことはせず、私は茶の間の白黒テレビの前で高校野球の観戦をして過ごすことにした。
幸いなことに、甲子園球場にはまだ雨の気配はなく、ベスト8の残り3枠をめぐって、朝から熱戦が繰り広げられていた。
もはや野球観戦に欠かせなくなっているスケッチブックを開くと、そのトーナメント表には、2回戦の結果の続きが赤いマジックペンで記されている。
明星―県岐阜商は、0対1で県岐阜商が勝って、ベスト8進出。
津久見―倉敷工は、3対2で津久見が勝って、ベスト8進出。(これは特別に太線で記入)
高知―桐生は、3対2で高知が勝って、ベスト8進出。
そして、本日行われる、2回戦残りの3試合は。
熊本工―三田学園
新居浜商―平安
鎮西―報徳学園
スケッチブックのこのトーナメント表と同じく、テレビ観戦の興味を盛り上げるのが、大分日日新聞朝刊のスポーツ面の「高校野球・今日の見どころ」欄だ。
先ほど、目を通したところ、本日の試合予想は次のようになっていた。
まず、第1試合。九州大会の覇者で優勝候補の1つに数えられている熊本工は1回戦で富山商相手に4‐2勝ちとまずまずのスタートだが、相手の三田学園は1回戦の対・尾道商戦で11得点を上げるなど、打線が好調。熊本工有利とはいえ、接戦となる可能性が大。
続いて、第2試合。優勝候補最右翼と評される平安は、1回戦で桜美林に5‐0勝ちと貫禄を示した。これに挑む新居浜商も、やはり1回戦では札幌光星に6‐0の快勝。強打の平安打線を、新居浜商のエース合田が1、2点に抑えれば勝機もなくはない。
そして、第3試合。報徳学園は平安、高知に続く優勝候補。1回戦の対・若狭戦で9得点を稼ぎ出した自慢の「カモシカ打線」の機動力は抜群だ。対する鎮西も1回戦では愛知に5‐0と快勝しているが、報徳学園有利と見るのが順当だろう。
なるほど、今日の3試合にはすべて、優勝の行方が絡んでいるのだな。これは、楽しい1日になりそうだと思った私の目の前で、早々と第1試合が終了し、熊本工が三田学園に2対1で競り勝った。「今日の見どころ」の、予想通りの接戦。さすがは、大分日日新聞だ。
ふと、視線を窓の外へ移すと、雨足が強くなっている。試合の間はアナウンサーの声やスタンドの応援で気づかなかったのだが、第1試合の喧騒が途切れた今、テレビの音声を打ち消すかのようなザーッザーッという雨音が、茶の間の中にも大きく聞こえて来る。
この雨で、庭の桜が見頃になるのは、また何日か先へ延びるだろう。
それに、明日は甲子園も雨天となり、ベスト8の激突が順延になるかもしれない。
予定では、明日の準々決勝の第3試合、春夏を通じて初めてのベスト4入りを賭けて、県岐阜商業と対戦することになっている津高だが、試合の先延ばしは、果たして吉と出るのか凶と出るのか。
それにしても、雨音とテレビの音声の他は、物音のしない静かな日曜日だ。
母と2人の妹たちは、今日は臼杵の爺ちゃんの家に出かけているし、父は、休日にも関わらず仕事のやり残しがあるとかで、今朝からずっと作業部屋にこもりっきり。飼い犬のジョンは、犬小屋の中にうずくまり、この雨をやり過ごしているのだろう。
私は再び、テレビの画面に目をやった。本日の第2試合、新居浜商と平安の戦いが、これから始まるところだ。
そのとき、ぐーっと、お腹が鳴った。
時計を見ると、すでに午後1時を回っている。
朝食が済んで、臼杵へ出かける際、お昼にはインスタントラーメンに卵を入れて食べなさいと母から言われていたのを、私は思い出した。(※注)
台所へ行くと、ラーメンの袋が2つ。私と父の、2人分なのだろう。
どうせだから、父のラーメンもいっしょに作ってあげようと親孝行を思い立った私は、仕事部屋へ行き、ドアを開けて、ミシンを踏んでいるその背中へ声をかけた。
「とうちゃん」
「うん?」
作業中のままの姿勢で、父が返事をした。
「チキンラーメンと出前一丁、どっちがいい?」
「うーん。ごまラー油が付いちょるのは、どっちじゃったかのう?」
「出前一丁」
「ほんなら、出前一丁」
台所へ戻った私は、鍋とヤカンに水を入れ、火にかけた。
ちょうどそのとき、テレビの歓声が大きくなり、絶叫のようなアナウンサーの声が聞こえて来た。
「先制したのは新居浜商業! 早くも1点先取です!」
父と並んで、ちゃぶ台に着き、アツアツの即席ラーメンを啜る。
テレビの画面は、試合の中盤。依然として、新居浜商がリードしている。
「ちゅるちゅるちゅる、はふはふはふ。太次郎、もしかしたら」
「ちゅるちゅるちゅる、はふはふはふ。とうちゃん、もしかしたら、っち?」
「じゅるじゅるじゅる、はぐはぐはぐ。この試合、もしかしたら」
「じゅるじゅるじゅる、はぐはぐはぐ。この試合、もしかしたら、っち?」
「ずるずるずる、ずずずー、ぷっはー。優勝候補の大本命が」
「ずるずるずる、ずずずー、ぷっはー。大本命が、どげえなる、っち?」
「負けるかもしれん」
「えっ、平安が?」
どんぶりを置き、お茶を飲みながら、父が言った。
「うむ。見てみい、この新居浜の、合田っちゅうピッチャー。内角、外角、ストライクとボールのすれすれのところに、いい球を投げ分けよる。球のキレもいい。こりゃあ、なかなか、打ち崩せんぞ」
父の解説の通り、優勝候補最右翼の打線は、相手投手の攻略に手こずっていた。新聞の「今日の見どころ」欄の予想には、平安打線を1、2点に抑えれば新居浜商に勝機も生じると書いてあったが、まさにその展開でゲームは進んでいた。
そして、1時間後。
インスタントラーメンを食べ終わった後も、ずっとテレビに見入っていた父の予感は、ずばり的中した。
3対1で、新居浜商の勝ち。
優勝候補筆頭の平安が、2回戦で姿を消してしまったのだ。
「こうなると、津高の前に立ち塞がるのは……」
立ち上がり、仕事部屋へ向かいながら、父は呟いた。
「報徳じゃろう……」
父がオレンジソックスのライバルに指名した報徳学園は、続く第3試合に登場。
このゲームでも、父の予感は見事に当たった。
大分日日新聞の「今日の見どころ」欄が絶賛していた「カモシカ打線」は、ダイヤモンドを颯爽と駆けめぐって、次々と加点。6対2で、報徳学園が鎮西を降したのだ。
これで、ベスト8が出揃った。
私は、さっそくスケッチブックを開き、トーナメント表に今日の試合結果を反映させた。
かくて、準々決勝の組み合わせは。
高知―熊本工
甲府商―市和歌山商
県岐阜商―津久見
新居浜商―報徳学園
夜になって、母と妹たちが臼杵から帰ってきた。
「ほんとうに、よう降るなあ。明日もたぶん、雨じゃろう」
そう言いながら、母は晩御飯の支度に取り掛かり、
「臼杵の爺ちゃんから、麦焼酎をもろうて来た。太次郎、とうちゃんを呼んで来んせ」
一升瓶をちゃぶ台の上に置いて、私に指図した。
仕事部屋に行って父に声をかけ、2人で茶の間に戻って来た、ちょうどそのとき、
「こんばんはー。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
番傘をたたみながら、正真和尚が玄関に現れた。
「いやあ、よう降るのう。今日は法事の後、ちょいと宴席があってのう。いい気分になっちょるんじゃあけど、まだちょいと飲み足りんでのう。それで、寄らせてもらいました。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
そう言うと和尚は、私たちといっしょにちゃぶ台に着き、麦焼酎の一升瓶を見るなり、
「おうおう、いいものが、置いちょるのう。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
ほろ酔いの顔を、ほころばせた。
さっそく父と晩酌を始めた、和尚。
これはいい機会だとばかり、私はスケッチブックを開いて見せた。
「おうおう、ベスト8の決定かあ。どれどれ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
焼酎のお湯割りをグイッと呷り、トーナメント表を見つめていた和尚は、しばらくして口を開いた。
「まあ、客観的に言うとじゃのう。決勝へ勝ち上がるのは、高知と報徳学園じゃろうな。まず、高知。1回戦で松山商に勝った桐生を、2回戦で降したのはさすがじゃあ。桐生も松山商も、戦前の予想では優勝候補じゃった。その激戦ブロックを勝ち抜いてのベスト8進出は、平安が消えた今、優勝本命校であることの証と言える。『黒潮打線』の破壊力は、天下一品じゃあ」
ここで、お湯割りを、もう一口。音吐朗々と、和尚は続ける。
「次に、報徳学園。高知の『黒潮打線』に引けを取らないのが、機動力抜群の『カモシカ打線』じゃあ。1回戦では9点、2回戦でも6点と、足を絡めた攻撃は得点能力が非常に高い。その上、長打力も備えちょるから、鬼に金棒。投手力を見ても、左腕の安田と下手投げの森本の力は、高知のエースの三本に匹敵しちょる。やはり野球は総合力じゃあけん、投打の抜きん出た、高知と報徳の2校が本命ちゅうことになるのう」
またも、お湯割り、もう一口。和尚の弁舌は、滑らかだ。
「ダークホースは、新居浜商。平安打線をたったの1点に抑えた、エース合田の投球術はみごとじゃった。しかも天気予報では、甲子園は明日も明後日も、雨。エースの休養が充分なら、報徳のカモシカたちを沈黙させることができるかもしれん」
さらに、お湯割り、もう一口。和尚の話は、いよいよ佳境へ。さて、津高は、どうだ?
「2日続けての休養の雨は、ノーヒット・ノーラン男の野上投手を擁する市和歌山商にも好材料。九州の覇者、熊本工。関東の雄、甲府商。どちらも戦前からの優勝候補じゃあし、伝統力を誇る県岐阜商も、虎視眈々と、栄冠を狙うちょることじゃろう。以上、酔っ払い和尚の解説でございました。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
「えっ? それだけ?」
オレンジソックスの評価を期待していた私は、肩透かしを食らった。
「津高は? なあ、津高は? なあ、なあ、和尚さん、なあ、なあ、なあ」
肝心カナメの解説を私がせがむと、
「津高は、ずばり、優勝です!」
和尚は、声高に宣言した。
「えっ? 優勝は、高知か報徳じゃ無えん? さっきから、そう言いよるし……」
訳が分からず、私が訊くと、
「それは、客観的な話でのう。主観的に申し上げると、津久見市民のこのワシが、津高の優勝を断言せんで、どげえするんか。はははははははっ、はははははははっ、はははははははっ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
そう答えながら、焼酎のお代わりを自分で作った。
ほんとうに、酔っ払い坊主だなあ。
呆れながらも、私は嬉しい気分になっていた。
(※注)インスタントラーメンの第1号である「チキンラーメン」が日清食品から発売されたのは、1958年の3月。60年代に入ってからは各社が続々と即席めんを発売し、戦後食文化のシンボルとして定着していった。なお、即席カップめんの登場は、1971年の9月。日清食品の「カップヌードル」が最初の製品である。