小説「ころがる彼女」・第7話
元号が、令和に変わった。
朝食を終えた邦春は、愛犬を抱き、居間の窓から外の様子を見つめていた。新元号初日の昨日は、あいにくの雨だったが、二日目の今朝は降っていない。
「ベス。久しぶりにお外へ出て、令和の気分を味わってみないか」
邦春がそう言うと、愛犬は
「フンフン」
と鼻を鳴らした。
さっそくリードをつけ、玄関を出ると、数か月ぶりの屋外の空気が、老犬の全身を優しく包んだ。
「クンクン、フンフン」
家の周りの所々に生えた雑草に、ベスは鼻先を近づけ、しきりに匂いを嗅いでいる。嗅覚を集中して、季節の移ろいを読み取ろうとしている。
そのとき、向かいの家の、二階の窓が開き、
「あっ、ワンちゃん! 真っ白いワンちゃん!」
弓子が顔を出し、そう言った。
しばらくすると、玄関のドアが開き、彼女が近寄ってきた。
「おはようございます。清水さん、犬を飼ってたんですか」
「おはようございます。ウエストハイランドホワイトテリア。今月の十四日で満十六歳になる、女の子です」
「さわってもいいですか」
邦春が頷くと、弓子は老犬の傍にかがみ、頭を優しく撫でながら言った。
「かーわいーい。お鼻がハートの形をしてるー」
「左右の目と、鼻を結んだ線をひくと、ちょうど正三角形になります。向きは逆ですけど」
その言葉に笑い、こんどは背中や脇腹を撫でさすりながら
「可愛いホワイトテリアちゃん、お名前は?」
と、弓子。
愛撫に喜び、尻尾を振り、口を開けた老犬は
「ハッ、ハッ」
と息を吐いた。
「通訳しますね。私の名前はベスです」
「あら、古風なこと」
「女王エリザベスの、ベスですよ。英国スコットランド原産の犬ですからね」
「なるほど。ベスさま、ベス子さま、ね」
そう言って、弓子は微笑んだ。
半月ぶりに会った彼女の様子が、明るいのを感じ、邦春は訊いてみた。
「ところで、弓子さん。今のあなたの体調は、ABCの、どのあたりですか?」
彼女は即答した。
「Bです。おかげさまで、ここまで回復しました」
それを聞き、邦春は安心した。そこで、さらに訊いてみた。
「この連休中は、どこかへお出かけに?」
「いえ。とくに予定はありません。今のところ」
「では、私に付き合っていただけませんか。実は、スマホを買いにいこうと思いまして」
「スマホ?」
「ええ。以前に回文教室で、あなたがスマホでちゃちゃっと情報検索するのを見て、自分も同じようにできたらいいなと思っていたんです。私、モールス通信であればスペシャリストなのですが、インターネットとなると、からっきし、ダメで。そこで、弓子先生のアドバイスを頂戴して、今のガラケーから、颯爽とスマホデビューを果たしたいと」
「そうなんですか。携帯ショップへの同行ですね。どうしようかなあ……」
弓子が、ためらっていると、玄関先から声がした。
「ご一緒して差し上げなさい」
そこには、彼女の夫が立っていた。二人のやり取りを聞いて、家から出てきたのだろう。彼は、言葉を継いだ。
「清水さんには、お世話になっていることだし。弓子、ぜひご一緒して差し上げなさい」
それを聞き、彼女の声が弾んだ。
「分かりました。いつにします、お店へ行くのは?」
邦春は答えた。
「差し支えなければ、今日にでも」
邦春の車に乗り、二人は出発した。
黄緑色の、軽ワゴン。日々の買い物や、ベスの動物病院への通院に使うものだから、車はこれで十分だ。荷物だってたくさん積めるし、そもそも高級車を買う金などないし。
五十三歳で船を降りた邦春が、まず最初に行なったこと。それが運転免許の取得だ。長い航海生活には、車などまったく不要だったが、陸上の生活に移ったからには不可欠だと判断した。妻の敬子は運転が上手だったが、彼女ばかりに任せるわけにもいかない。
事実、敬子が自分より先に逝ってしまった今にして思えば、免許を取っていて、本当に良かった。さもなければ、まさに陸に上がった河童だった。
「いかがです、フェラーリの乗り心地は」
ハンドルを握る邦春が言うと、
「夢のようです」
助手席の弓子が、笑いながら応じた。
「高齢ドライバーには違いないけれど、一応、ゴールド免許です。安全運転で行きますから、ご心配なく」
邦春がそう言い添えた。
店内は混んでいた。休日のせいもあるだろうが、番号札を受け取るとき、どれくらい待つのか店員に訊いたところ、二時間くらいとの返事。焦っても仕方がないと、二人は並んで椅子に座り、雑談で時間をつぶすことにした。
「以前に伺った、海水風呂のお話、とても面白かったです。お船に乗っていらっしゃったときの思い出、ほかにも、たくさんあるのでしょう?」
弓子の問いに、
「そりゃあ、もう。七つの海を股にかけてきましたからね」
邦春は答えた。
「七つの海って?」
「北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋、インド洋、それに、北極海と南極海のことです」
「では、南極に行かれたことも?」
「一度だけ」
「ぜひ、お聞きしたいです。そのときのお話」
そこで、邦春は語り始めた。
今から五十年以上も昔に、南極海での捕鯨に出かけたこと。二十隻以上の大船団を組んで出航し、自分はその中核である大きな捕鯨母船の通信士を務めていたこと。日本から漁場まで約一か月をかけて航海したが、その途中、南緯四十度から六十度近くの偏西風区域帯では、暴風と大波に翻弄され、ものすごい船酔いに悩まされ続けたこと。けれど、そこを抜けていくと、やがて美しい夕焼けに包まれた、最果ての海が現れたこと。
「空も雲も海も、鮮やかなオレンジ色に染まっていてね。水平線には、氷山のシルエット。その上の方に、黄色い光の帯が、うっすらと輝いて垂直に浮かんでいたっけ……」
「黄色い光の帯が、垂直に?」
弓子が訊くと、
「オーロラ、さ。きれいだったなあ、あの輝きは……」
邦春は、遠くを見るような眼差しになり、そう答えた。
「ふうん、オーロラかー。一度でいいから、見てみたいなー、私も」
弓子は、そう言い
「大きいんでしょう、鯨って」
さらに質問を続けた。
「大きいよー。とくに、シロナガス鯨はね。全長が三十メートルくらいのを見たことがある。銛で撃たれて、捕鯨母船の甲板に運ばれてきたんだけれど。作業員たちが大勢、群がってね。どんどん解体していくんだ、ナギナタを使ってさ。それでね……あ……思い出しちゃった……変な男がいたことを……」
「変な男?」
「うん。でも、これを話すと、品性を疑われちゃうから、私の」
「聞かせて」
「いや、これは話さないほうが……」
「聞かせて。ねえ、聞かせて」
「ヒンシュク買っちゃうから」
「ヒンシュク売らないから」
「ほんとに? そこまで聞きたいのなら、話してあげましょう。解体が終わった甲板の上には、鯨の内臓が取り残されていた。大きいよー、内臓も。心臓が、車一台くらいある。で、その鯨はメスだった。でっかい子宮が放置されていたんだ。さてさて、その変な男、好奇心が実に旺盛らしく、なんと驚きの行動に出た。子宮に近づくと、生殖孔のなかへ入っていったんだ、頭から。周囲の作業員たちは、笑いながら眺めていたんだけれど、なかなか彼は出てこない。これは大変だということになり、あわててナギナタを振るい子宮を切り裂いていった。すると、そこにあったのは、濡れそぼった彼の亡骸だった。窒息死ですね」
「まあ……」
「これを、産まれたところで死んだ男、と言う」
「あっはっはー」
弓子の発した大声に、店内の客たちが振り向いた。慌てて両手で口をふさぐ彼女。その素振りに、邦春も笑ってしまった。
ややあって、邦春が言った。
「でもね。本当を言うと思い出したくないんです、捕鯨のことは。鯨たちが可哀想だから。確かに昔は、とくに敗戦後は、鯨肉は日本人の貴重なタンパク源になっていた。けれど、今はそうじゃない。七月から、日本の商業捕鯨が再開されるそうだけど、果たして、それが必要なのかな。まあ、人によって、意見は様ざまなんでしょうけど」
会話をしながら待っていると、ようやく邦春の番がきた。店員に案内されて、二人は接客カウンターへ向かった。
「結局、私のと同じスマホになっちゃいましたね、メーカーも、機種も」
帰りの助手席で、弓子が言った。
「うん。でも、そのほうが、なにかと教わりやすいし。弓子先生、今後ともよろしくお願いいたしますね、スマホの使い方も、回文の作り方も」
運転をしながら、邦春が応じた。
「音楽だって聴けるんですよ、スマホで。私が近ごろ聴いているのは、ローリング・ストーンズの曲。会社に勤め始めたばかりのときに、上司のディレクターに薦められ、ベスト盤のCDを聴いたんです。そしたら、いっぺんに好きになっちゃって。二十代のころは、夢中になってたなー、彼らの音楽に。初の来日公演にも行ったし。清水さん、ローリング・ストーンズは、ご存じ?」
「名前は聞いたことあるけど、どんな団体なのかは知らないなあ。ジャッキー吉川とブルー・コメッツみたいなもの?」
その問いに、弓子はスマホを操作したのち、答えた。
「ああ、ほぼ同世代ですね。ふうん、グループ・サウンズって言うんだー。あ、そうそう、西郷輝彦さんはご存じですよね」
「もちろん」
「あの人の曲に『ローリング・ストーンズは来なかった』というのが、あるんですよ。昭和四十八年に来日公演が決まっていたのに、彼らは来なかったんです」
「どうして来なかったの?」
「大麻の所持歴を、外務省に咎められて」
「へえ。けしからん連中だな」
邦春がそう言ったので、弓子はまた笑い出してしまった。