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小説「ころがる彼女」・第26話

 順風満帆とは、このことだ。
 十月二十四日。彩雲ホームパークス七〇三号室売買の本契約を終えた邦春は、心からそう思った。
 つい二十日ほど前は、購入資金が四百万円も足りず、途方に暮れていた。 ところが、弓子の叔父が亡くなり、五百万円の遺産が入った。資金が足りないどころか、百万円もお釣りがきたのだ。
 車が家に着き、玄関のドアを開けて入ると、ベスがベッドから出てきて、邦春を出迎えた。今や愛犬はすっかり回復し、点滴も不要になっている。
 思えば、彩雲ホームパークス七〇三号室を手に入れることができたのも、もとはと言えば、ベスのおかげだ。「ペット可」の条件で、しかも速やかに家を探さなければならなかったからこそ、あのエジンバラ城に、自分と弓子はたどり着けたのだ。
 それだけではない。動物病院の待合室で便利屋の宙丸と出会い、その伝手で不動産屋の藤川とも知り合えて、家を百五十万円も高く買い取ってもらえた。それも愛犬のおかげと言って良いだろう。
「ベスや。おまえは、ほんとうに名犬だねー」
 そう言って、ササミ巻きおイモを放り投げると、愛犬はダッシュして飛びついた。
 その様子を微笑ましく眺めながら、邦春は脱出計画の最終段階に自分たちが立っていることを再認識していた。
 それは、引っ越しだ。
 その作戦会議は、明日午後一時から、この家で行われる。

 翌日の午後一時前、まず弓子がやってきた。
「契約、お疲れさまでした」
 と、ねぎらいの言葉を邦春にかけ、
「やっとお家を買えたのね」
 そう言って嬉しそうに笑った。
続いて、午後一時ちょうど。インターホンを通して聞こえてきたのは、
「ごめんください、宙丸です」
 という、便利屋の声だった。
 ドアを開けると、黒縁の眼鏡をかけた懐かしい顔が現れた。がっしりとした体格は、引っ越しを主業務にしているのだと先日の電話で聞いて、なるほどと邦春に思わせた。
「まず、お家のなかを拝見しますね」
 そう言うと、宙丸は一階と二階のすべての部屋に入り、そこにある家具や電気製品などに視線を注いでいった。
 やがて居間に戻ってきた彼は、邦春に告げた。
「そんなに荷物はありませんね。二トントラック一台で十分でしょう。まず必要なものを、ここからN区のご新居まで運び、帰りにはここで不用品のすべてを積んで、廃棄場まで向かいます。費用は、往復で二十万円。経験豊かなスタッフを三名つけましょう。段ボールもサービスで、後日お届けしますよ」
「ありがとうございます。頼もしい限りです」
 邦春が礼を言うと、
「きょうが十月二十五日。できれば今月中には済ませたいですね。大丈夫ですか?」
 宙丸が訊いたので、
「分かりました。それでは、三十一日の木曜日の引っ越しでいかがでしょう。それまでに荷造りを終わらせますので」
 そう答え、承諾された。
「さてさて問題なのは」
 宙丸はそう言い、
「人妻奪取作戦ですね」
 と、二人の顔を交互に見つめ、言葉を継いだ。
「お手数をおかけします」
 邦春と弓子が声を揃え、頭を下げると、
「私は便利屋の看板を掲げていますが、便利だからと言っても犯罪行為まではやりません。ご新居へは、ご自分の意思で行かれることをお勧めします」
 宙丸はそう話した。
 二人が不安そうな顔をすると、
「ただし、荷物などは、あくまでもご依頼を受けたからという理由で、お運びしますよ。ご主人が不在なのは、平日の何時から何時ごろまでですか?」
「朝の八時から夜の七時ごろまでです」
 弓子が答えた。
「荷物はたくさんあるのですか?」
「いいえ。ほとんどの物は置いていこうと思っています。そうだなあ……大切な本と、CDと、パソコンと、衣類……。そんなところかしら、持っていくのは。お金が百万円残っているので、家具類は引っ越したあとに買い揃えればいいし……」
「そういうことであれば、こちらも助かります。軽トラックに、段ボールを積んで、お昼ごろにお伺いする。ご指示に従って、段ボールを組み立て、どんどん詰めていく。それが終わったら、ご新居へ運ぶのみです」
「そうか。それなら、時間もかかりませんね」
「三十分もあれば済むでしょう。ご近所の目を、なるべく避けなくてはなりませんしね。そういう意味でも、まず来週の木曜日に清水さんが引っ越しをされますから、できれば一か月くらい経ってから実行に移したほうが賢明だと思いますね」
 宙丸の言葉に、弓子はスマホを取り出し、操作してから応じた。
「分かりました。それでは、十一月の二十九日が金曜日ですから、その日にお願いしてもよろしいですか?」
「十一月の二十九日ですね。了解しました。費用は、そうだなあ、五万円もいただければ」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
 弓子は宙丸に礼を述べ、
「軽トラックがスタートしたら、私は電車に乗ってエジンバラ城へ向かうから、待っててね」
 と、囁くように邦春に言った。


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