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小説「サムエルソンと居酒屋で」第23話(最終話)

エピローグ

「あ、そろそろ開店の時間だわ」
 そう言うと実花子は、「ニューほそぼそ」と書かれた白いのれんを掲げに外へ出た。それから戻ってくると、ジーンズと長袖のTシャツに着替え、三角巾とエプロンを付けてカウンターの中に入った。
 最初の客は、留美だった。
「こんばんは、実花子ちゃん。いつものやつ、お願いね」
 と言いながら、英也の左隣に座った。昔は腰のあたりまで伸ばしていた髪は肩くらいまでに短くなり、ひざ上二十センチだったスカートの丈はひざ下にまで長くなっていた。
「あらまあ、瀬川くん、たいへんお久しぶり! 髪の毛が真っ白になっちゃって!」
「苦労だらけの半生だったからね。留美嬢は相変わらずお美しくてなによりです」
「でも、ほんとうはそんなにお久しぶりでもないの。五月の二十五日と一昨日の七月二十八日、山手線外回りの電車の前から五番目の車両の後部座席で、ぐっすりお休み中のあなたの寝顔を拝見してるから。もっとも一昨日のは狸寝入りだったでしょうけど」
「えっ。す、すると、サムエルソンの上巻と下巻を座席に置いてくれたのは……」
「わ、た、し。実花子ちゃんは、お店の仕込みであの時間帯は外出できないから、代役を買って出たの。数年前、あなたがホームレスになっているのを六本木駅で目撃してからというもの、その住処や日々の行動パターンについて調査してきたのよ、学生たちに手伝ってもらってね。それで無事に本を渡すことができたっていうわけ」
「学生たちが手伝いを? 麻雀サークルの学生さんたち?」
 そのとき、実花子がウイスキーと氷の入ったグラスを留美の前に置きながら
「英也さん、この方はもう雀姫ではなくて総長なの、大隈大学の」
「ええーっ。プロの雀士じゃなく、大隈大の総長になっちゃったの。どういう経緯で?」
「卒業してすぐ、麻雀のプロが競い合う麻雀神王戦に参加したの。そしたらなぜか初出場初優勝しちゃってさ。最高にうれしかったけど、もう目標がなくなっちゃった。じゃあ、気分転換に経済学をやろうかってことで、マサチューセッツ工科大学に留学したの。サムエルソン教授の講義も受けたわ。そして帰国後は大隈大に戻り、大学院へ。環境経済学を研究して博士になり、教授になり、政経学部長になり、気がついたら総長になってたの。次の目標は、全国大学総長学長名人戦みたいな競技大会を開催することね」
 そう話して、留美はウイスキーをひと啜りした。
 英也もビールを注文し、グラスの半分ほどを飲みほすと、留美がまた口を開いた。
「でもね、私、とても羨ましいの、あなたたちのことが。遥か四十年もの時間の壁を乗り越えて、いまだに愛し合えるんだもの。私はとうとうこの歳まで、一人で生きてきたわ。高校時代の恋人の想い出を胸の奥にしまったまま……」
「愛してはいても、今の僕はダイヤの指輪ひとつ実花子に買ってあげられない……」
「瀬川くん、サムエルソンの上巻の最後の章は読み終えた?」
「ああ、彼女が青いペンで文字を囲んだページだね。えーと『価値のパラドックス』というところまで読んだけど」
「そこに、水とダイヤモンドの話が書いてあったでしょ。『人間生活のために極めて有用で不可欠な水が非常に低い価格でしか売れないのに、まったくなくても済むようなダイヤモンドが高い価格を呼ぶのはどういうわけか』というパラドックス」
「それは、ダイヤモンドが非常に稀少で追加的に次の単位を入手するための費用が高いのに、水は比較的豊富で世界中大部分の地域でその費用が低いから。そう書いてあった」
「つまりこれは『限界効用』と『総効用』の違いから生じるパラドックスなのね。経済学の始祖であるアダム・スミスの時代には、まだ限界効用の概念がなく、スミスはこの問題を解くために『交換価値』と『使用価値』という考え方を用いたの。水ほど有用なものはない。しかし水の交換価値はゼロに等しい。それに対して、ダイヤモンドはほとんど使用価値がないのに、その交換価値はたいへんなものであると。瀬川くん、私があなたに言いたいのは、交換価値よりも使用価値を大切にしてほしいってことなの。尽きることのない水の流れのような愛情を、いつまでも実花子ちゃんに注いであげて」
「留美、どうもありがとう。こうして、サムエルソンと居酒屋で過ごせる日がまたやってくるのを、どれだけ僕は待ちわびていたことか」
 いつの間にか、店内は混んでいる。そのとき入口の戸がガラガラっと開き、一人の男が入ってきた。かなりの高齢だ。顔はシワだらけで、頭は白髪がほぼ抜け落ち、シャツから覗く両腕は骨と皮、腰はひどく曲がっている。
彼はカウンターの中の実花子に
「ウォッカをくれ」
 と言い、それからいちばん奥の席に座った。
「ワダさん、あなたがしてくれた予言のおかげで、私、ようやく幸せになれそう。どうもありがとうね」
 そう言いながら実花子がウォッカを彼の前に置くと
「そいつは良かった。で、どんな予言だい? この俺がしたのは」
 とワダが訊いた。
「ビンボー・シンボー・ビリーバボーっていう予言なの」
 実花子がそう答えるのを聞きながら
「あの人、まだ生きていたんだ。いったい、いくつになったんだろう?」
 と英也が問うと
「九十三歳だそうよ」
 留美が答えた。
「で、いつごろ俺はそんな予言をしたんだい?」
 とワダがさらに訊くと
「一九七八年です」
 と実花子。それを聞き、ワダは
「なんと、フランス革命が始まった年か。今年が二〇一九年だから、そこから一七八九年を引くと、えーと、二百三十年。そうか、俺は少なくとも二百三十年以上は生きてきたわけか。道理で体中ガタガタなわけだ」
 と話した。
「一九七八年を一七八九年と勘違いして計算してるよ、あの人」
 留美がそう言うと
「でも、ビンボー・シンボー・ビリーバボーの予言はみごとに当たったよ。やっぱり只者じゃないな」
 と英也が応じた。
「サムエルソンは二〇〇九年に死んだけど、この俺はまだ生き残っている。名誉や冨では負けたけど、寿命では俺の勝ちだ、ざまあみろ」
 ワダ・トシハルはそう言ってウォッカをひとくち飲み
「こんどは、地球がいつ人類を見捨てるか、予言してみせようか」
 と声を上げ
「けーっけっけっけーっ」
 と愉快そうに笑った。
                                      

(了)

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