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みかんの色の野球チーム・連載第21回

第3部 「事件の冬」 その4
 
 
 ユカリの涙は、事件の予兆だったのかもしれない。
 その日の放課後、忽然と、彼女は姿を消したのだ。
 私たちの前から。父親と母親の前から。4万市民の前から。
 翌、1月10日、火曜日の朝。
 ユカリの席だけがぽつんと空席になっている教室に現れたのは、校長先生、福山先生、そしてもう1人は私たちが見たことのない中年の男性だった。
 まず、口を開いたのは、校長先生だった。
「皆さん、これからお知らせするのは、とても重大な出来事です。新学期を迎えたばかりの我が津久見小学校の生徒の1人に、大変なことが起こりました。皆さんのクラスメートである深大寺ユカリさんが、昨日の放課後から、行方不明になってしまったのです……」
 ツルピカ頭の明るい輝きとは対照的に、とても暗くて重い表情をした校長先生の口から出た驚きの知らせに、クラスの39人はたちまち騒然となった。
 そのざわめきを打ち消すように、大声を発したのは、福山先生だった。
「みんな、静粛に! 非常に大事な話なので、静かに聞きなさい!」
 生徒たちが口を閉ざすのを待ってから、福山先生はユカリの身に起こったことについて説明を始めた。
「昨日の夜、7時頃、深大寺のお父さんから先生の家に電話があった。ユカリがまだ家に帰ってこないのだけど、学校で何かあったのでしょうかと。いつも4時前には帰宅するのに、今日はまだ帰ってこないのは、いったいどうしたのでしょうかと。先生にも思い当たる節はなかったが、もしかすると寄り道でもしているのではないかと考え、もう少しだけお待ちになってみてはいかがでしょうとお答えし、それで電話は終わった」
 濃いヒゲに覆われた口から出てくる重い言葉に、クラスの全員は真剣な面持ちで、じっと耳を傾けている。
 先生は、再び話を始めた。
「2度目の電話がお父さんから掛かってきたのは、9時半頃だった。あれからずっと待ち続けたけど、ユカリさんはまだ帰ってこない。そこでお父さんは、警察に捜索願いの連絡を入れた。通報を受けた警察署から、さっそく消防署に連絡が行き、消防署から深大寺さんの住まいの地域を管轄する消防団の第1分団にも連絡が行った。先生たちの教職員組合も参加して、今朝からユカリさんの捜索が開始されたという訳だ」
 そこまで状況説明をすると、先生は、先ほどから鋭い視線で私たち生徒の顔を見回していた中年の男を右手で指し示し、みんなに紹介しながら言った。
「こちらにお見えになっているのは、津久見警察署(※注)の丸岡刑事さんだ。丸岡さんは、同僚の刑事さん2人といっしょに、まず最初に我が小学校に情報収集のためにお越しになった。みんな、刑事さんのお話をよーく聞いて、捜査にご協力するように」
 先生にバトンタッチされて、目つきの鋭い刑事が話し始めた。
「津久見署の丸岡です。昨日から行方不明になっている深大寺ユカリさんは、何かの事件や事故に巻きこまれた可能性が高い。しかし、その捜査の手掛かりは、今のところまったくありません。そこで、一番必要なのは、最後にユカリさんを見かけたのは、いつ、どこで、どのような様子だったかという、市民の皆さんの目撃情報です。われわれ3人の刑事がこの小学校を真っ先に訪れたのは、昨日の放課後にユカリさんがどのような行動を取っていたのか、生徒の皆さんのうちの誰かが見たり、知っているのではないかと考えたからです」
 丸岡刑事は、身長こそヒゲタワシ先生より5センチくらい低いものの、肩幅などは逆に10センチ以上広いがっしりとした体格で、とても腕っぷしが強そうだった。短く刈りこんだ、頭髪。低く抑えられた声には聞く者たちを威圧するような凄みがあり、テレビの刑事モノのドラマの取調室で容疑者に暴力的な尋問を行うシーンを連想させるような人だった。
「1年生から6年生まで各4クラス、合計24クラスの中でも、とりわけユカリさんが在籍するこの6年3組の生徒さんたちからの情報は極めて重要です。皆さん、よく思い出してください。昨日の最後の授業が終わった後、深大寺ユカリさんは、いったい何をしていましたか?」
 返事をする者は、誰もいない。
 細い目からの視線をさらに鋭くして、黙りこくり下を向いている生徒たちの顔を1人1人見つめ回した刑事は、しばらくして、また口を開いた。
「昨日の放課後、深大寺ユカリさんといっしょにいたのは、いったい誰ですか?」
 だんだんと声高になってきた刑事の質問だが、やはり誰からも返事はない。
「昨日のユカリさんの様子に、どこか変わったところはありませんでしたか?」
 またしても、無反応。
 そのとき、丸岡刑事の隣に立っていた福山先生が大声を出した。
「こらっ! 黙ってばかりいないで、何か言わんか、おまえたち!」
 さらに、山本佳代子の方を向いて、
「こらっ! 学級委員長! 何か発言しろ! 何のための学級委員長なんだ! みんなを代表しておまえが発言しろっ!」
 いちだんと声を張り上げた。
 いきなり名指しをされて驚いた様子の佳代子は、しばらく無言のままでいた。だが、やがて、意を決したように椅子から立ち、青ざめた顔をして話し始めた。
「あ、あのう……、き、昨日の最後の授業は、図工でした……。教室の窓から見える風景を……、校庭とか、山とか、自分たちの好きな風景を、す、水彩で描いていました……。それから、終業のベルが鳴って……、先生が今日はこれで終わり、後片付けをして帰るようにと言ったので……、みんな水道のところに行って、パレットとか筆とかを水で洗って、拭いて……、それから机の中にしまいました……。じ、深大寺さんも、みんなと同じように、図画の後片付けをしていたと思います……」
 威圧的な眼差しの刑事と、怒号を飛ばす教師。それらの恐怖に耐えながら、一語、一語、搾り出すように、佳代子は答えた。
 だが、唯一の回答者に興味を示したらしい丸岡刑事は、佳代子の席の近くまで歩いていき、さらに問い詰めるような声を発した。
「で、それから?」
「え……?」
「終業のベルが鳴って、図画の道具の後片付けをした。そこまでは分かりました。で、それから後はどうしたんですか?」
「…………」
「図画の道具の後片付けを終えた後、それからどうしたんですか、深大寺ユカリさんは?」
「か、帰った、と思います……」
 クラスの中でも最長身の佳代子だが、それでも丸岡刑事に比べると15センチくらいは低い。えぐるような視線を上から浴びせられながら、うつむいたままの格好で、彼女はかすれた声を返した。
「ほう」
 しかし、刑事の追及は終わらなかった。
「授業の後片付けが済んだら、すぐに帰っちゃったわけ? さようなら、も言わないで、帰っちゃったわけ?」
「…………」
「一人ぼっちで、帰っちゃったわけ?」
「…………」
「いっしょに帰る友だちとか、いなかったわけ? えっ?」
 高圧的な声色はともかく、言葉使いだけはそれまで丁寧だった刑事だが、ここへ至ってその配慮すらも失い、内側に秘めた野獣のような獰猛さがだんだんと滲み出してきた。
 もうすでに立っているのも限界のように見える佳代子は、それでも学級委員長の責務を果たそうと、最後の声を振り絞った。
「じ、深大寺さんには……、友だちが……、いないんです。い、いつも……、一人で……、帰っていくんです……」
 そのときだった、またしてもヒゲタワシの怒声が飛んだのは。
「こらっ! 山本! 深大寺に友だちがいないのは、おまえのせいだろう! 学級委員長の立場を悪用して、おまえが深大寺をみんなから仲間外れにしたんだろう!」
 あまりにも無慈悲で無神経なその大声が、とうとう佳代子の忍耐力を打ち砕いた。
「ち、違います! ひ、ひどい! わあーっ!」
 椅子にくずおれ、机に突っ伏して、佳代子はわあわあ泣き出した。
 その姿を、短い頭髪をボリボリ掻きながら丸岡刑事が見つめていると、
「委員長の言うたことは、ほんとうじゃあ!」
 教室の隅の方から、新たな発言者の声がした。
 刑事、先生たち、そしてみんながそちらを振り向くと、椅子から立ち上がり、ヒゲタワシを睨みつけながら大きな声で話し始めたのは、ブッチンだった。
「委員長が言うた通り、ユカリには友だちがおらん! 一人も、おらん! 勉強が一番できるけんち、矢倉の工場長の娘じゃあけんち、いつも威張っちょるけん、友だちが一人もおらん! 東京生まれの東京育ちじゃあち言うて、いつも自慢ばっかりしよるけん、友だちが一人もおらん!」
 これは貴重な証言だと思ったのか、泣いている佳代子の席から離れ、丸岡刑事がブッチンの方へ歩み寄っていった。ヒゲタワシは、憎々しげな表情で、ブッチンの顔を睨み返している。その横で、オロオロとしているのは、校長先生だ。
 ブッチンの視線と声は、丸岡刑事に向きを変えた。
「じゃあけん、刑事さん。ユカリはいつも一人で帰るんじゃあ。友だちといっしょに帰りとうても、肝心なその友だちがおらんのじゃあ。一人も、おらんのじゃあ。じゃあけん、刑事さん。昨日もユカリが一人で帰ったんは、間違いの無えことなんじゃあ。じゃあけん、昨日の放課後、ユカリがどこで何をしよったんか、このクラスの誰も知らんのは、仕方の無えことなんじゃあ。じゃあけん、昨日のユカリの様子に変わったところが無えかったかち訊かれても、誰もそげなことに気付いておらんのじゃあ」
 佳代子に代わって、熱弁を振るうブッチン。
 それを黙って聞いていた刑事は、彼が話し終えると、おもむろに訊いた。
「君の名前は?」
「吉田。吉田文吾、です」
「吉田君、話をどうもありがとう。とても参考になったよ」
 そう言うと、刑事は生徒たちの方を振り返り、今度はみんなに向かって言葉を発した。
「深大寺ユカリさんの行方不明を知らされたばかりで、今朝の皆さんは気が動転しているだろうし、それも無理のないことです。われわれ警察は、これから消防署や消防団の人たち、それに先生方といっしょに、一刻も早くユカリさんを捜し出すよう努めますが、そのためには、やはり皆さんを始めとする市民の方々の情報提供のご協力が欠かせません。ですから、ユカリさんについて何か思い出したことがあったら、どんなことでも構わないので、先生を通じて、あるいは直接警察署に電話をくれてもいいですから、ぜひとも私たちに知らせてください」
 話し終えると、丸岡刑事は、校長先生とヒゲタワシを伴って教室を出ていった。
 その後の授業は、すべて自習時間になり、3人の刑事と先生たちによる全校24学級での聴き取り捜査が終了した午後3時過ぎ、新学期を迎えたばかりの津久見小学校は休校となった。
 消息を絶った小学6年生の少女を、誰かが見つけ出す、そのときまで。
 
 

(※注)警察署は、港のすぐ近くにある。筆者は小学生のとき、社会の授業で見学に行った。子供の目から見た刑事さんたちには、なんだか近寄りがたい雰囲気があった。いま思えば、生徒たちの手前、威厳を保っていたのかもしれない。


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