小説「ノーベル賞を取りなさい」第25話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
研究室の椅子にもたれ、足を組み、柏田はじっと天井を見つめていた。その姿勢は、もう一時間以上も続いていた。新しい論文のことをまた考えているのだろうと由香が思っていると
「あっ! そうかっ!」
と、突然の大声。それから立ちあがると、柏田は後ろのデスクで驚き顔になっている由香に向かって言った。
「うちをクビになった中川さん、下の名前はなんて言うの? 彼のゼミ生だった君なら知ってるだろ」
「保司。中川保司さんですけど……」
柏田の真剣な表情に気おされながら由香が答えると
「やっぱりな!」
柏田が再度、大声を出した。そしてホワイトボードに近づくと、黒いマーカーで次のように書いた。
「なかがわやすし」
続いて赤いマーカーを手にすると、黒く書いたばかりの名前の各文字に、数字を付けていった。「な」には「3」を、「か」には「1」を、「が」には「2」を、「わ」には「4」を、「や」には「7」を、「す」には「6」を、そして「し」には「5」を。その作業が終わると、柏田は由香に言った。
「番号順に読んでみて」
由香は頷き、立ち上がって声を出した。
「か、が、な、わ、し、す、や。あっ! 加賀縄静也! ということは……」
「そうなんだ、あの本の著者は中川保司さんで、そのペンネームが加賀縄静也ということになるね」
「じゃあ中川さん、大隈大をクビになったあと、晴道学園大の教授になったってこと?」
「そう考えるのが自然だな。ただし中川さんは君を使った囮捜査で新宿署へ連行される途中、事件についてはすべて晴道学園大の鳥飼事務長が知っているとペラペラしゃべったらしいのに、そういう人間がどうして受け入れられたのか、俺にはよく分からないんだ」
「この件、さっそく総長、学部長、亜理紗さんに知らせないといけないわね!」
そう言って部屋のドアへ向かった由香を
「ちょっと待った!」
と、柏田が語気強く制した。それから彼女をソファーへと誘い、向かいあわせに座って、ひそひそ声で話しはじめた。
「俺の書いた英語の論文が、どうして晴道学園大学に渡ったのか。それは、あのコピーを持っている、ノーベル経済学賞獲得チームの誰かが相手と通じているからに違いない。では、誰が? 上条総長か? それはあり得ない。なぜなら『SHIGAKU‐TOP』のプロジェクトを立ち上げ、その最初の施策としてノーベル経済学賞の獲得を立案し、わざわざ茨城のマンション清掃人だった俺をスカウトしにきた。そういう人が犯人のはずがない。では、オルソン亜理紗ちゃんか? それもまたあり得ない。なぜなら、彼女は毒矢で命を狙われた。そういう敵対関係の相手に、コピーを渡すなど考えられない」
柏田がそこまで話すと、こんどは由香が口を開いた。
「では、柏田先生か? それは絶対にあり得ない。なぜなら、今回の盗作の件では最大の被害者だから。では、私、花崎由香か? それも絶対にあり得ない。なぜなら、柏田先生のことを心から愛し、必ずノーベル経済学賞を獲得してほしいと願っている人物だから」
ここで二人は声を揃えた。
「ということは、犯人は、牛坂学部長」
柏田が言葉を継いだ。
「あの人には、俺がノーベル経済学賞を受賞しても、なんのメリットもないもんな。金は一銭も入らないし、名誉は俺と総長のものになるだけだし」
由香が応じた。
「あの人、次期総長の座を狙ってるって噂、どこかで耳にしたことがあるわ。同期入学なのに、片や『帝都大の文一を滑りどめにした女』、片や『帝都大の文二に蹴とばされた男』。大隈大初の女性総長に上条先生が就任したのに、牛坂先生は政経学部長まで昇ったものの、あくまでも上条先生の部下に過ぎないという現実。憎くて憎くて仕方のない上条総長の面目を潰し、自分の次期総長へのステップになるように、コピーを晴道学園大に渡したんだわ、きっと」
「よし、反撃開始だ。ターゲットは加賀縄静也こと中川保司。ただし人員は、俺と君の二人だけ。牛坂に知られてはマズいし、総長には心配をかけたくないし、亜理紗ちゃんには総長秘書という重要な仕事があるし」
「わー、先生と二人きりで反撃だなんて、楽しそう。さっそく晴道学園大のホームページを見なくっちゃ」
そう言ってデスクに戻り、パソコンを操作しはじめた由香が、しばらくして大声を上げた。
「あーっ、見て見てっ。毎週土曜日にやってるTASの人気テレビ番組『殿様のヒルメシ』の話題本コーナーに、加賀縄静也が生出演だって。放送日は十二月の三日。さっそくターゲットが動きだすわよーっ」