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小説「升田のごとく」・第5話

 居酒屋「とり助」の暖簾をくぐると、店内はすでに賑わっていた。
 10人ほどが 腰掛けられる、楕円形のカウンターが1つだけの小さな店。開店して数十分のうちに席の半分以上が埋まっている繫盛の理由は、焼鳥が安くて旨いからだ。
 カウンターの奥で取の肉や内臓を焼くこの店の主人は、60歳くらいだろうか。酒や料理を客に出したり空いたグラスや皿を片づけている、その配偶者らしき女は50を少し越えたあたり。店側の人間はこの2人だけで、今夜も忙しそうに立ち働いている。
 この地に家を買ってから10年の間、週に2回くらいのペースで耕造はここへ通っている。言わば顔なじみだが、店の主人も女も実に無口な人間で、いらっしゃいませ、ありがとうございましたなどの言葉はいっさいない。口を開くのは、会計の際に料金を告げる声を出すときだけだ。お互いの素性や境遇など、まったく知らない店の人間と常連客。
 だからこそ、大きな絆創膏を額に貼った自分を見ても、あらどうしたのそのケガなどと余計なことを口にせず、注文したウーロンハイと、トリカワ、レバー、スナギモを2本ずつ、黙って出してくれるこの店の不愛想さが、今夜の耕造には、ありがたかった。
 1杯目のウーロンハイを、一気にジョッキの半分くらいまで、耕造はぐーっと飲んだ。ふうっと、大きな息をつき、トリカワの串を1本口に入れて、肉片をこそぎ取る。それをくちゃくちゃと咀嚼し、ジョッキに残った茶色い液体で胃の中へ流しこんだ。
 2杯目のウーロンハイを注文し、レバーを食べながらそれを飲み干した頃には、額の傷の痛みはさほど気にならなくなっていた。
 いつの間にか、店内は満員になっている。コートを脱いで置くスペースなど、どこにもない狭い店だ。通勤電車さながら着ぶくれラッシュの状態で、客たちは酒を飲み、ツマミを口に運び続ける。
 3杯目のジョッキを、スナギモとともに空けたあたりから、耕造はふわふわした酔いに包まれ始めた。大浜強志から受けた厳しい叱責の件を思い浮かべてみたが、別段、怒りも屈辱も感じなくなっていた。どうせ来年4月の人事で、自分の会社人生は終わるんだ。あれこれ考えたって仕方ないじゃないか。あ、皿が空になってる。何か頼もうかな。何がいいかな。やっぱ、ハツだな。それと、カシラとナンコツもいいな。へげへー、どんなもんだい。安くて美味しいウーロンハイは、心の傷をきれいにしてくれる消毒液だろう。
 明るい声で、新たなツマミといっしょに4杯目のお代わりを注文する耕造。だが気持ちよく酔い始めた彼の心の片隅に、何かひとつ、引っかかるものがあった。それは、今朝の常務室で、大浜が彼に投げつけた最後のせりふだった。
「分かれたカミサンは今どうしてる? 優秀なコピーライターだったよな、彼女は。結婚退社したのがもったいないよ。彼女じゃなくて、お前が辞めれば良かったのにな」
 4杯目のウーロンハイを飲みながら、その言葉を反芻するうちに、いつしか耕造の記憶は18年の歳月を遡っていった。

 昭和61年12月。
 それは、この国に、バブル景気がやってきたばかりの冬だった。
 たっぷりのボーナスをもらってほくほく顔の耕造は、職場の同僚たちといっしょに六本木へ遊びに行った。31歳の増田青年は、元気いっぱいだった。仲間のコピーライターやデザイナーたちも、希望に瞳を輝かせていた。誰もが日本という薔薇色の国に生まれたことと、広告という素晴らしい舞台の上に立っていることを、心の底から喜んでいた。
 そう、広告業界は、まさに時代の花形だった。その最先端を疾走するスターコピーライターたちが紡ぎ出す珠玉のキャッチフレーズには、1行につき数百万円の値段がつけられた。若者たちは、明日の寵児になることを夢見て、才能のあるなしに拘わらず広告の世界に次々と足を踏み入れていく。それが、日本の80年代の、ひとつの姿だった。
 1軒、また1軒、さらにもう1軒。深夜の3時過ぎまで心置きなく店をハシゴした耕造たちは、なかなか停まってくれないタクシーを、やっとの思いでつかまえるたびに分乗し、長く楽しかった宴を解散した。
 耕造と同じ車に乗ったのは、2歳年下のコピーライター、西川由木子だった。
 当時、京王線千歳烏山駅近くの賃貸マンションに住んでいた耕造と、やはり京王沿線の調布市にある実家に暮らしていた由木子。帰宅方向が同じということで、二人はタクシーの後部シートに並んで座っていた。
 耕造は、以前から由木子に好意を寄せていた。彼女の理知的な顔立ちは耕造の好みだったし、何よりも彼女の書くコピーには、耕造にはない豊かな発想の力が溢れていた。新富エージェンシーの社内でもナンバーワンの若手コピーライターとして由木子の才能は高く評価され、それが、やや高慢な性格の彼女の鼻をいっそう高くしていた。
 年上の営業マンに対して生意気な口の利きかたを由木子がするのも、彼女が自分の才能に強い自信を持っているからこそで、そういう勝気なところが、おとなしい性格の耕造の目にはとても新鮮で魅力的に映った。
 二人を乗せたタクシーが甲州街道へ出たそのとき、耕造は意を決した行動に出た。右隣に座った由木子に、すっと自分の体を寄せると、右手を彼女の左手にかぶせ、力をこめて握りしめたのだ。
 由木子の顔が、こちらへ振り向いた。酒に酔ったその目は、潤みを帯びて耕造の顔を見つめている。酔っているのは耕造も同じだ。左手を伸ばし、由木子の顔を引き寄せると、素早い動きで彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 由木子は、抵抗をしなかった。耕造が舌を差し入れると、彼女もまた舌を差し出し、からませて応じてきた。その反応に勢いづいた耕造は、唇と舌を密着させたまま、左手を大きく開いて由木子の右胸のあたりに押し当て、コートの上から強い力でまさぐった。厚い布地を通して、かすかに乳房の弾力が伝わってきた。
 千歳烏山のマンションの前でタクシーを降りると、二人は耕造の部屋へ。照明と暖房のスイッチを入れると、着ている物を脱ぐのももどかしく、ベッドの上に体を重ねた。
 こうして耕造と由木子の交際は始まり、二人の関係は日に日に深くなって行ったのだ。
 若いコピーライターどうし、仕事は忙しく、深夜の作業に及ぶことも少なくない。そのストレスのはけ口を、相手の内部に求めるかのように、あるときは耕造のマンションで、あるときは路地裏のラブホテルで、二人は互いの体をむさぼり合った。
 そうして、1年余りが経ったある日、由木子は耕造にこう告げたのだった。
「できちゃったみたいなの。どうするつもり?」

 4杯目のウーロンハイは、早くも残り半分ほどになっている。ナンコツを噛み潰しながら、ジョッキからもうひと口飲むと、耕造の想念はまたもや過去へ戻っていく。

 やがて、二人は結婚した。
 耕造の由木子に対する思いは、一年を超える交際を通じてさらに強いものになっていたし、年齢的にも所帯を持ちたいと考えていた。
 由木子は由木子で、会社の激務に疲れてもいたし、やはり、そろそろ家庭に落ち着いて、子供を産み育てる日々を送りたいという思いがあった。
 かくて、32歳の新郎と30歳の新婦は、職場の上司や同僚たちに祝福され、新生活のスタートを切った。会社を辞めた由木子は、日に日に大きくなる腹部を撫でさすりながら、母親として生きていく人生への希望を膨らませていった。会社に残った耕造は、やがて二人の扶養家族を抱える生活を力強く支えようと、ますます仕事に励んでいった。
 そして夏、子供が生まれた。
 2900グラムの女の子は、明日花と命名された。耕造が「耕した」土地に、由木子という「木」が根を張り、その枝に明日花という「花」が咲いた。そういうストーリー性をこめたネーミングは、いかにもコピーライターの夫婦らしかった。

 耕造の注文は、5杯目になった。店に来てから、2時間以上が経過している。だが、彼が見つめているのは腕時計ではなく、10年前の光景だ。

「ワンちゃんを飼いたいの」
 朝食のテーブルで、娘がそう言った。
 耕造は39歳、由木子は37歳、一人娘の明日花は6歳になっていた。3人の家族が暮らす杉並区の2DKの賃貸マンションは、娘の成長とともにだんだんと手狭になり、そろそろマイホームをと夫婦は考えていた。
「ワンちゃんとお散歩したり、お風呂に入れてあげたり、いっしょにお寝んねしたいの」
 可愛い字一人娘の願いを、耕造はかなえてあげたいと思った。犬を飼うとなると、一戸建てしかない。今でこそ、ペットと暮らせるマンションはごく普通の存在だが、10年前には皆無だった。戸建ての家はマンションよりも高値だが、どこかの沿線の郊外なら買えるかもしれない。もうすぐ小学校に進む明日花に、緑の豊かな生活環境がふさわしいのは間違いないのだし。
 バブル経済はすでに崩壊し、土地の価格は下落の一途。かつては夢のまた夢だったマイホームだが、もはや庶民の手の届くところにまで来ている。しかも幸いなことに、耕造の勤務先は、不動産に強い広告代理店だ。会社のマーケティング部の人間に相談をすれば、とっておきの物件情報が得られるだろう。よし、本気で家を買うぞ。
 そして、耕造の熱意は報われた。念願の建て売り住宅が見つかったのは、千葉県だった。良く晴れた、秋の日曜日。3人の家族は、期待に胸を弾ませて、販売現地へと向かった。JR常磐線の柏駅から、さらに東武野田線に運ばれて、約10分。そこから20分ほど歩いた場所に、ライトグレーの外壁が輝く、新築の家が建っていた。
 わずか20坪くらいの狭い土地に建てられた家は、居住面積を確保するために、細長い3階建ての造りになっている。1階の半分近くは車庫のスペースに取られ、2階から上が実質的な生活空間だ。これとそっくりな外観をした家が、わずかな間隔を置いて、全部で5軒。横一列に建ち並び、1つの区画を形成している。いわゆる、ヨウカン切り住宅というやつだが、上手い呼び方をするものだなと耕造は苦笑いした。
 5軒の家のうち、4軒がすでに売約済みだった。売れ残っているのは、左右どちらから数えても3件目、ちょうど真ん中の家だ。
 不動産会社の販売員に案内されて、3人は家の中へ。車庫スペースの残りで構成された1階の空間には、バスルームと、洗面化粧台と、トイレが並んでいる。その奥には、5畳大の部屋が1つ。北側に窓を設けた居室だが、これは納戸代わりのようなものだろう。
 らせん状の階段を昇って2階へ行くと、部屋が2つあった。うち1つは、ピカピカのシステムキッチンが光る、フローリング床のダイニングルームで、広さは9畳ほどだ。もう1つは和室で、ぴったり6畳。さらに階段をぐるっと昇って3階へ行くと、屋根裏に6畳余りの部屋が2つ。どちらも、床はフローリング仕上げだ。
「専有面積76㎡の4DKです。3人のご家族には、じゅうぶんな広さでしょう。東と西側は両隣の家に面していますが、バルコニーのある南側の開口部からは日差しがたっぷりと入ってきますよ」
 販売員の説明に頷きながら、由木子はまんざらでもなさそうな顔をしている。
「このおウチに住みたい!」
 明日花の、そのひと言が、耕造にはたまらなく嬉しかった。

 5杯目のウーロンハイも、残り少なくなっている。3時間が経ち、満員の店内は、客の顔ぶれもすっかり変わってしまった。しかし、カウンターを動かぬ耕造は、変わることなく過去に思いを馳せ続ける。

「この子がいい! この子がいい!」
 柏市内のペットショップ。たくさん並んだショーケースの、その中のひとつに、顔と両手を押し当てて、明日花が大きな声を上げている。
 耕造と由木子が近寄り、ケースの中を覗いてみると、そこにはベージュと白のきれいな毛をした子犬が1匹、こちらに顔を向けていた。ピンと立った大きな耳、長い胴体と短い脚。ウェルシュコーギー・ペンブロークだ。
 女子店員がやってきて、明日花に言った。
「抱っこしてみる?」
「うん!」
 ショーケースのガラスの蓋をスライドさせ、両手でそっと子犬を持ち上げると、明日花の腕の中に優しく抱かせながら店員はささやいた。
「女の子よ。生まれてまだ2か月ちょっと」
 腕の中の子犬を、じっと見つめる明日花。きょとんとした顔で、見つめ返す子犬。
「ハナ」
 子犬に向かって、明日花が言った。
「いっしょにお散歩しよう、ハナ。いっしょにお風呂に入ろう、ハナ。いっしょにお寝んねしよう、ハナ」
「どうして、ハナなの?」
 由木子が訊くと、明日花は答えた。
「明日花の、花の字を、この子にあげたの。だから、ハナなの、この子の名前は」

 空いたジョッキに、耕造は6杯目の酒を入れるよう頼んだ。想い出の中で、ハナが野原を駆けまわる。

 新築の増田家にやってきたハナは、家族の一員としてたっぷりの愛情を注がれ、すくすくと育った。家の中でのよちよち歩きは、やがてダッシュやジャンプに変わり、体もみるみる大きくなっていった。
 そして、戸外へのデビュー。自然環境に恵まれた新興の住宅地は、もともと牧畜犬であるコーギーのハナに、格好の散歩コースと遊び場を提供してくれた。早朝の散歩相手は、耕造。夕方は、由木子と明日花。
 一日を通してハナと過ごす時間は、由木子や明日花の方がずっと長いのに、なぜかハナは耕造にいちばんなついていた。
 主人が会社へ出かけようとすると、寂しそうな目をしてクンクン鳴いた。主人が帰宅する気配を察すると、ワンワンと嬉しそうに吠え、妻や娘に抱かれて出迎えた。
 残業で、耕造の帰宅が深夜に及んでも、主人を待ちわびるハナの気持ちと態度に変わりはなかった。
 妻も娘も寝静まり、ひっそりとした家の中から、かすかな音が聞こえてくる。ぺた、ぺた、ぺたん。ぺた、ぺた、ぺたん。
 それは短い脚を懸命に使って、長いらせん階段をぎこちなく降りてくる、ハナの足音だった。ぺた、ぺた、ぺたん。ぺた、ぺた、ぺたん。
 ようやく1階まで降りてきたハナは、玄関ドアの内側に主人の姿を認めると、たたたっと走り寄り、その腕の中へジャンプした。そして満面の喜びを浮かべる主人の顔を、ぺろぺろ、ぺろぺろ舐めた。耕造は、ぎゅっと愛犬を抱きしめる。ただいま、ハナ。
 仕事で疲労困憊した耕造にとって、それは最高のいたわりであり、ねぎらいだった。朝の三時に帰ってきても、ぺた、ぺた、ぺたん。ぺた、ぺた、ぺたん。四時や五時になろうとも、。ぺた、ぺた、ぺたん。ぺた、ぺた、ぺたん。

 6杯目のウーロンハイを口にしながら、耕造の目はうっすらと涙を浮かべている。そして、記憶のタイムマシンは、5年前へ移動する。

 新居を構え、ハナを迎えて、五年の月日が流れていた。
 44歳の耕造と42歳の由木子は、ちょっと古びた中年の夫婦に、11歳の明日花は、やや大人びた感じの小学五年生に。3人と1匹によって営まれる生活は、平穏を保っていた。だが、それぞれの心の内には次第に変化が生じ、それらが少しずつではあるが、家族の日々を変質させていった。
 由木子は、不満を抱えていた。
 妊娠と結婚を機会に、会社を辞めて家庭に入ったものの、出産をし、子育てが一段落すると、心の中にぽっかりと空洞ができていた。
 20代の若さと情熱を、夢中になって注ぎこんだ広告の仕事。コピーを書くのが何よりも好きだったし、周囲の人々も自分の能力を高く評価してくれた。もしも子供を授からず、仕事を続けていたとしたら、大きな成功を収めていたかもしれない。
 今さらそんなことを考えても、仕方がないのは分かっている。しかし、心の空洞は大きく、いくら読書に没頭しても、インターネットを漁ってみても、その穴は埋めようがない。
 こんなつまらない人生を送るために、自分は生まれてきたのではないはずだ。
 毎晩遅くまで働き、家のローンを払い、自分と娘を養ってくれる夫に感謝の念はあるが、自分が辞めてしまった広告の仕事を今も続けている彼を、憎らしく思うことだってある。
 明日花は、嫌悪を抱えていた。
 初潮というショッキングな体験は、自分という人間が、女の体の仕組みを持った生き物であることを、むりやりに教えてくれた。
 生理が巡ってくるたびに、自分もハナと同じ、動物のメスなのだと痛感させられる。
 メスの人間も、メスの犬も、オスたちに精子を注ぎこまれ、妊娠させられ、子供を産まされてしまうんだ。
 自分がまだ小さな頃、お父さんはこう言った。明日花はコウノトリが運んできてくれたんだよ。意味は分からなかったけど、それがまったくの嘘であることは、もう分かった。
 お父さんは、嘘つきだ。汚らわしいオスの、嘘つきだ。そんな嘘つきのオスと、ずっといっしょにお風呂に入っていた自分。汚らわしいのを、自分はうつされてしまった。明日花の嫌悪は、強く父親に向けられ、自分にも向けられている。
 そして耕造は、疲労を抱えていた。
 広告不況の中、会社は生き残りをかけて戦っている。社員たちも必死に働いているが、仕事の量は増えても、給料はちっとも上がらない。それは、利益率が低いからだ。広告業界は、もはや斜陽産業に落ちてしまったのだ。
 深夜業務の連続。体の疲労、心の疲労、その両方を癒してくれるのがマイホームのはずなのに、ここ数年、妻の態度はそっけない。たまに体を求めても、そんな気分じゃないからと拒絶されてしまう。昔は、あんなに夢中でセックスを楽しんだのに。
 そっけないのは、娘も同じだ。顔を合わせると、すぐ目をそらす。話しかけても、返事はない。これは、いったい、どうしたことだろう?
 愛想がいいのは、ハナだけだ。この5年間、いつもの愛情で癒してくれる。ぺたぺたぺたん、お帰りなさい。ぺてぺたぺたん、お疲れ様です。
 ハナがいると、疲れが取れる。お前はぜんぜん変わらないね。でも、妻と娘を見ていると、何だか、変わっていくのをかんじるんだな。それがまた、疲れを呼んでしまうんだなあ。


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