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小説「サムエルソンと居酒屋で」第9話

 実花子との仲が急速に発展した英也は、再びサムエルソン経済学の勉強に意欲を燃やし、熱心に励み始めた。デートを翌日に控えた金曜日にも、重い本の入ったバッグを持って、ほそぼそへ向かった。
 店内に入ると、実花子も留美もすでに席に着いている。だが、実花子が身にまとっているのは色っぽいミニスカートやポロシャツでなく、以前のオーバーオール。黒縁の眼鏡もかけていた。
「こんばんは、中野のセクシー姉妹さん。実花子ちゃん、服装、元に戻したんだ」
 英也がそう言うと、実花子が返事をした。
「月曜日にあの格好で通学電車に乗っていたら、吊革をつかんで立っている私を、座席に並んでいる男の人たちがじろじろ見るんです。やだな、痴漢に遭ったらどうしようという恐怖がこみあげてきて、次の日からはまたオーバーオールに。でも明日のデートはミニスカートはいて行きますから、がっかりしないでくださいね」
 すると英也は、こう話した。
「そんなこと、しなくていいよ。僕は初めて会ったときにアイスコーヒーをごちそうしてくれた君の心の優しさに好感を持ったし、こないだは君の容姿の美しさに恋心を抱いた。つまり君の内面と外面の両方、ありのままの実花子ちゃんのぜんぶが好きになったんだ。だからもう、ミニスカートをはくのは留美に任せて、明日はふつうの服装で来て」
 それを聞き、喜びに実花子の白い頬が紅潮していく。その隣から留美が
「とりあえず乾杯しましょ。マスター、ビール一本とグラスを二つ、それと私はいつものやつ」
 と注文した。
「まいど! ビールの大にグラスが二つ、ウイスキーのオンザロック、ダブルね!」
 いつものように店主が大声を発し、やがて三人の席へ飲み物が運ばれてきた。
「幸せな二人に乾杯!」
 留美が声高に発声し、三人はグラスを合わせた。
 酒が進むと、英也の顔を見て留美が言った。
「映画デートの件は、ちゃんとキャンセルできたの?」
 それを聞き、英也が答えた。
「うん。火曜日の夜に電話した。『親父が危篤なので』と言ったら、『まあ、それはお気の毒に。気をつけてお帰りください』だって」
 すると
「まあ、なんて優しい娘。罪な男ね、瀬川くんって」
 と、留美。
「そっちが入れ知恵したんじゃないか。でも四十九日が過ぎて、もしも『そろそろお会いしたいです』なんて電話がかかってきたらどうしよう」
 英也の言葉に
「じゃあこんどは、お母さんに危篤になってもらうしかないわね」
 留美はそう言って、ウイスキーを啜った。
「なんか食べよ」
 と、英也は壁に貼られたメニューを見ながら
「焼鳥の盛り合わせとサバの塩焼きください」
 そう注文した。
 続いて
「私は日本酒を冷やで、それとエイヒレ」
 と、実花子。
「私はピーナッツ」
 と、留美。
「俺はウォッカと、きゅうりの味噌漬け」
 と、ワダ・トシハル。
「まいど! 焼鳥の盛り合わせ、サバの塩焼き、日本酒の冷や、エイヒレ、ピーナッツ、ウォッカ、きゅうりの味噌漬けね!」
 店主が注文を復唱する中、三人は店の入口近くの席を見た。そこには痩せた白髪の五十男、生まれながらの予言者が、いつの間にか座っていたのである。
「ちっ。また来やがったよ、あいつ」
 留美が露骨に嫌な顔をすると
「関係ないよ、無視、無視」
 英也にそう言われ
「気にしないで授業をお願いしますね」
 実花子にも冷静になるように諫められたので、留美は煙草を手に取ると火をつけ、深く吸いこんで煙を吐いた。
そして、まもなく運ばれてきた酒や料理を三人で味わい続けたのち、おもむろに彼女は口を開いた。
「そろそろ始めようか」
 その言葉を合図に、英也と実花子はバッグから分厚い本を取りだした。
「では、実花子ちゃん。きょうの『討議のための例題』は?」
「第八章の『政府の経済的役割』からです。『政府の財貨およびサービスへの支出は公共財を成すが、そのかなりの部分が市場的経営の私企業によって生産される。この文の当否を論ぜよ』。この文が『当』であることは分かるんですが『否』であることが私にはよく分からなくて……」
「瀬川くんはどう思う?」
「市場原理に基づいた生産であれば無駄はありえないけど、政府による支出となればどうしてもそうは行かないんじゃないかなあ。税金の無駄づかいって、ニュース番組なんかでよく耳にするし……」
「おっ、成長したね、瀬川くん。さすがは恋に目覚めた男だ。政府による財やサービスへの支出は、たしかに個人的消費の対象になる財やサービスと同じ性格のものではあるけれども、たとえば軍需品に代表されるように、一般的な市場性を持たないものが多いよね。つまり、生産者と消費者とが直接に相対する場において商品の生産と販売が行なわれるわけではない。それゆえ財政による消費行為には多くの無駄と浪費が生まれやすい。これが『否』にあたること」
「わーっ、瀬川さん、すごーい。やっぱり頭がいいのね。同じ本で勉強しても、理解力が私とはぜんぜん違うもの」
 と、実花子が言うと
「わーっ、瀬川さん、すごーい。でも、この白髪の爺ちゃんにだって、それくらいのことは分かるよーっ。アメリカでいっぱい勉強したからねーっ」
 と、ワダ・トシハル。いつの間にか席から離れ、三人のそばに立っている。
「ダメだよ、ワダさん。ほかのお客さんたちに迷惑をかけちゃ」
 カウンターの向こうから店主が注意したが、まったく意に介さない様子で、ワダは喋り続ける。
「ポール・アンソニー・サムエルソン。経済学に科学の装束をまとわせたことでノーベル賞の名誉をものにし、この教科書のベストセラー化によって巨万の富をつかんだ男。ところがアメリカには、こいつの大先輩でありながら、株価の大暴落によって富も名声も一瞬のうちに失っちまった経済学者がいる。その名は……」
「アーヴィング・フィッシャーね」
 沈黙を破って、留美が言った。
「イェール大学の教授だった彼は、当時ある投資信託会社に経営上の助言を与えていた。一九二九年の秋には『株価は恒久的な高原状態に達したようである』との見解を発表し、投資家たちを幸福感でつつんだ。ところが九月五日、小さな下落が起こった。これに対しても彼は『株価が下降線をたどることはあるかもしれないが、暴落状態になることはないだろう』と発言し、投資家たちを安心させた。さらに十月十五日、『私は株価が二、三か月以内に今月よりもかなり高いレベルまで上昇すると見ている』と述べたけど、当の株価は着実な足取りで下降線をたどり続けていた。そして運命の十月二十四日がやってきた。彼自身も財産のほとんど、そして経済学者としての名声を失い、晩年はイェール大学の世話になりながら、ひっそりと暮らした。そのサムエルソンの本にも、彼の名前が出ているはずよ。たしか第十五章の『物価と貨幣』の中に」
 留美の言葉に、英也と実花子は急いでページをめくり始めた。そして
「あった! 四六四ページ!」
と、実花子。続いて
「交換の数量方程式って書いてあるぞ。『MV≡PQ』。なんじゃ、こりゃ?」
 と、英也が声を上げると
「Mは貨幣量、Vは貨幣の流通速度、≡は恒等関係を表し、Pは一般物価水準、Qは実質的なGNPだ。いずれこのGNPというやつは古くなり、GDPという指標に取って代わられることになるだろうがね」
 ワダがそう答えた。そして
「経済学を学ぶ目的は、経済学者にだまされないようにすることであーる!」
 と、いつぞやのせりふを繰り返した。
「アーヴィング・フィッシャーという名の経済学者にだまされて、多くの人間たちが破滅した。さらにフィッシャー自身も、自分という経済学者にだまされて没落した。だからこそ、経済学を学ぶ目的は経済学者にだまされないようにすることなのであーる!」
 ワダがそう言い終えたとき、留美が反発した。
「その言葉、イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンが『マルクス・マーシャル・ケインズ』というエッセイの中で述べたものでしょ。あなたのオリジナルではないはずよ」
 それを聞き
「ちぇっ、バレたか」
 と、ワダ。
 さらに留美が
「あなたは生まれながらの予言者らしいけど、その予言の方法をぜひとも教えてもらいたいものだわ」
 と追及すると
「そうさねえ。たとえば景気というものには独特の臭いがあるんだ。好況が近づいてくると、俺の鼻は香木、とくに三大香木のような匂いを嗅ぎとり始める。逆に不況が近づくにつれ、俺の嗅覚は焼いたくさやの臭いで満たされてくる。経済学者にとって最も大切なもの、それは景気を嗅ぎ分ける能力なんだよ」
「三大香木って?」
 英也がそう問うと
「芳しい香りを漂わせる花木の中でも、とくに強い匂いを発散させる三種類の植物のことだ。具体的には、春のジンチョウゲ、夏のクチナシ、秋のキンモクセイ。言わば、季節の風物詩だな」
 と、ワダが答えた。
「くさやって?」
 実花子の質問に
「日本人なのに、くさやも知らないのか。伊豆諸島の名産だぞ。新鮮な魚を開き、『くさや液』などの発酵液に漬けこむ。この液には二、三百年ものあいだ使われてきたものもあり古いものほど旨味が出るとされている。漬けこんだ魚は天日干しに。それで干物が完成する。そうだ、マスター。こちらのお嬢さんに、くさやをひとつ。俺からの奢りで」
 ワダの声に
「まいど! くさや一丁ね!」
 店主が威勢よく反応した。
「ワダさん、あなたの言ってることは、まやかしのようにしか聞こえないわ。景気に臭いがあるだなんて、そもそも科学的な態度ではないし。けれども、二歳のときに一九二九年十月二十四日の株価大暴落を、一年も前に予知したというエピソードを聞くと、やっぱりあなたという人間には、どこか尋常ならざるものを感じないわけにはいかないの。ワダさん、いったいあなたは何者なの?」
 留美の言葉に
「なあに、加齢臭の漂う、ただの五十男ですよ」
 ワダがそう答えたとき、実花子の悲鳴が聞こえた。
「いやーっ! くっさーいっ!」
 見ると、彼女の目の前には焼いたばかりのくさやの干物が皿に載っており、ドブのような強烈な臭いを周囲にまきちらしている。
「うわあ! 鼻がひん曲がる!」
 と英也。
「マスター、悪いけど、この皿さげて!」
 留美が顔を歪めて哀願した。
 その騒ぎを実に楽しそうに眺めながら
「けーっけっけっけーっ。けーっけっけっけーっ」
 ワダはいつまでも笑い続けた。
  
「ひどい! ワダさんって、ほんとうにひどい!」
阿佐ヶ谷駅からの帰り道。実花子は、くさやのショックから抜けだせず、半べそをかいていた。
「大丈夫だよ。もう臭いなんかしてないし」
 英也がそう言って慰め、バッグからなにかを取りだして、彼女に見せた。
「あ、映画のチケット」
「そう。話題作の初日だから混むと思って、前売券を月曜日に買っておいたんだ。しかもフンパツして、指定席だぞ。これでスター・ウォーズ、心置きなく楽しめるね」
「うれしい! 瀬川さん、大好き!」
 笑顔に戻った実花子に、英也は告げた。
「じゃあ、明日は午後一時に、新宿駅東口のみどりの窓口で待ち合わせしよう」
「午後一時に新宿駅東口のみどりの窓口ね! 明日が来るのが待ち遠しいわ!」


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