小説「ころがる彼女」・第28話
弓子のブログは、先へ先へと更新されていった。
それは回文を新しく作るたびに、今は亡き人たちから称賛の声が聞こえてきて、彼女を激励し、さらなる創作意欲をかき立ててくれるからだった。懐かしい声に包まれて作業をすることは、何物にも代えがたい喜びを、彼女にもたらした。
きょう十月三十一日は「ガス記念日」です。一八七二(明治五)年のこの日、横浜の馬車道でガス燈が点灯されました。関内地区と横浜港を結ぶこの道は、当時、外国文化への玄関口でした。横浜に「日本初」が多いのも頷けますね。では回文を。
良い。
なんか。
ガスで灯し、
明かりかあ。
地元ですか?
関内よ。
[よい なんか がすでともし あかりかあ じもとですか かんないよ]
明かりを灯したのは、地元横浜の実業家・高島嘉右衛門でした。一八七〇(明治三)年に日本ガス社中(現在の東京ガス)を設立後、フランス人技師を招いて、六百メートルの街路に十数基のガス燈を輝かせた、日本のガス事業の記念日です。
「上手イナア」
と、祖父の声が聞こえた。
「モット読ミタイナア」
弓子は言った。
「任せといて、お爺ちゃん」
きょう十一月六日は「お見合い記念日」です。一九四七(昭和二二)年のこの日、東京の多摩川河畔で雑誌社の主催する集団お見合い会が行われました。戦争のため婚期を逃した二十代から五十代の男女四百人近くが参加したそうです。では回文を。
誰さまだ?
好意抱き、合コンへ。
「婚後、縁、乞うご期待!」言う娘。
騙された。
[だれさまだ こういいだき ごうこんへ(え)こんごえん こうごきたいいうこ だまされた]
合コンや婚活パーティーは、昔も今も、お相手探しの有力な手段ですね。でも、この回文のような事態に陥らないよう、お相手選びは、慎重に。
「面白イネエ」
と、祖母の声が聞こえた。
「モット読ミタイネエ」
弓子は言った。
「これからどんどん面白くなるわよ、お婆ちゃん」
きょう十一月十二日は「洋服記念日」です。一八七二(明治五)年のこの日、それまでの公家・武家風の和服礼装を廃止する太政官布告が出されたことにちなんで制定されました。これにより、洋服の使用が促進されることになったのです。では回文を。
いよいよ
洋服を、貴公、着るか?
軽き動きを、工夫よ。
良い良い。
[いよいよ ようふくを きこう きるか かるきうごきを くふうよ よいよい]
欧化政策を急ぐ明治政府は、前年に、散髪脱刀令を出しました。まげを切り、刀を差すのをやめた当時の人びとにとって、洋服は、とても動きやすく、実用的な服装だったことでしょうね。
「為ニナルナア。モット読ミタイナア」
と、伯父の声が聞こえた。
弓子は言った。
「勉強しながら書いてるのよ、伯父さん。もっともっと期待して」
きょう十一月二十二日は「大工さんの日」です。この日付が大工さんと密接な関係にあることから制定されました。まず「十一」を組み合わせると、「技能士」の「士」の字になること。さらに二十二日は「大工の神様」とされる聖徳太子の命日(六二二年二月二二日)であること。そして「11二二」を組み合わせると、「11」は「二本の柱」を表し「二二」は「土台と梁または桁」を表して「軸組の構造体」となること。なるほど、いろいろな関係があるんですね。では回文を。
大工、肉を食え。
で、
大工、奥に杭だ。
[だいく にくをくえ で でえく おくにくいだ]
大工(だいく)さんは、なんといっても体力勝負ですからね。お昼ごはんは、お肉をたくさん食べましょう。で、食べ終わったら、敷地の奥のほうに杭を打つのが、大工(でえく)さんの午後からの仕事です。
「気ガ利イテルワネエ。モット読ミタイワネエ」
と、伯母の声が聞こえた。
弓子は言った。
「センス抜群でしょ、伯母さん。私が作るのは、誰にも真似のできない回文なの。私は言葉の天才なのよ。躁うつ病は、病気かもしれないけど、ほんとうは病気じゃない。能力なの。だって、こんなに素晴らしい回文を、私は作れるんだもの。躁うつ病は、病気かもしれないけど、ほんとうは病気じゃない。個性なの。だって、こんなに輝いているんだもの、私が紡ぎ出した言葉たちは」