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将棋小説「三と三」・第25話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 何もかも、嫌になった。
 この自分にとって最も大切な二つのもの、八段昇段と愛しの若子を、いっぺんに失ってしまったのである。
 どうしてあのとき、すぐに6三歩成と指さなかったのだろう。そうすれば、たやすく勝利し、八段位は手にすることができたのに。嫁いでしまった若子はあきらめるしかないが、大切な一つのものは獲得できたのに。
 それを、要らぬことを口にしたばかりに木村の発言を招き、脳中に大混乱が起こって、考えもしていなかった大ポカの飛車を打ってしまった。大切なものを、両方なくす結果となったのだ。
 何という、手順の過ち、愚かな間違いだ。これで八段に上がるまでに、また歳月が必要になった。七段位は手にしたが、そんなものを貰っても、もはや嬉しくもない。痛恨の極みだ。
 若子は、どんな男と結婚したのだろう。一昨年に嫁いだと、木村は言った。そのとき、自分は兵役の三年目だった。あの手紙とオルゴールを送ってくれてから二年のうちに、彼女は人妻になった計算になる。
 どうして結婚したのだろう。それほどの素晴らしい相手に出会ったのだろうか。もしも、この自分を好いてくれていたとしても、いつ除隊するのか分からない男を待ち続けるほど、彼女は若くなかったのだろうか。
 もしかすると、あの手紙は、別れの手紙だったのかもしれない。結びの一文は、この自分に向けた、最後の励ましだったのかもしれない。
 それなのに、木村に負けた。八段になれなかった。それを思うと幸三は気も狂わんばかりになり、布団に潜って頭を掻きむしった。つのる悔しさと情けなさで眠れなくなり、床から起き出して酒を飲んだ。目が覚めても、苦しさからは逃れられず、昼間からまた酒を呷った。
 物資不足、米不足の戦時下、手に入るのはアルコールや糖類を添加した増産酒という不味い代物だったが、味などはどうでも良かった。酔って、心の辛さを紛らわせることができれば、それで事足りた。一人で飲むのが寂しくなると、棋士仲間や後援者の家を訪ねて飲んだ。そういう日々が三か月も続いた。
 谷ヶ崎もまた、そんな幸三の相手をした一人だった。荒んだ生活を聞き及んでいた彼は、目の前でコップ酒をがぶがぶと呷り続ける幸三の姿を見て、こう諭した。
「升田君、酒はもうちょっと控えたらどうや。君のは、飲むんやのうて、浴びるというもんやで」
 空になったコップをテーブルの上に置き、うつむく幸三。そこへ谷ヶ崎が言葉を継いだ。
「気持ちは、よう分かるで。あないな大ポカをして、必勝の将棋を負けたのやよってに。なんであそこで間違えたんやろと、阪田先生も不思議がり、残念がっていやはってたけどな。でもな、升田君。君の将棋人生は、これからが本番や。惜しくも八段にはなり損ねたけど、二十五歳の若さで七段。えらい早さの出世やで。名人になる楽しみを、たったの一年、先延ばしにしただけの話やないか」
 その言葉を、うつむいたまま、幸三は聞いていた。大ポカをやらかした理由を、口にできないのが、もどかしかった。
 谷ヶ崎は話し続けた。
「戦局がどんどん悪うなって、戦場に送りこまれた棋士たちの中には、遺骨になって帰ってきた者もおる。それも一人や二人やない。彼らに比べたら、君はほんまに幸せ者や。銃やのうて駒という武器で戦い、一兵卒から元帥へも昇っていけるのやからな。七十過ぎたこの老いぼれには、今日も明日も明後日も、死地に遣られる若者たちが、可哀想で可哀想でならへん……」
 その話の通り、連合国側にソ連やアメリカが加わって以降、欧州では枢軸国側が劣勢に陥り、この九月にはイタリアが無条件降伏。ドイツも勢いを失い、敗退を重ねていた。
日本もまた、太平洋上の拠点を次々とアメリカに攻略されていたが、軍部はラジオの大本営発表で虚偽の情報を流し、国民を欺き続けていた。
谷ヶ崎の悲しみは、幸三の胸にも伝わった。顔を起こすと、彼は老人の目を見つめ、口を開いた。
「そうですね。大勢の人たちが、戦争の犠牲になっているというのに、私は自分のことばかり考えていました。自分の心が、大局観を失っていました。生きていることの幸せと、将棋を指せることの喜びを噛みしめながら、これからも精進をしていかなくてはなりませんね。谷ヶ崎社長、今夜はどうもありがとうございました」

 帰宅すると、もう遅いのに、木見が起きて待っていた。そうして幸三を部屋へ呼び寄せ、無言で何かを差し出した。
 受け取って、見ると、それは召集令状だった。
 二度目の赤紙だった。
 そこに記された文言は、アメリカとの最前線での戦いに従軍せよと命じていた。
 頭の中が真っ赤になり、幸三はその場にへたりこんだ。


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