小説「ノーベル賞を取りなさい」第7話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
「……というわけで、労働階級の従事する生産的な職業や対人的な奉仕の仕事を下品で卑しいもの、不愉快で煩わしいものと軽蔑するようになった有閑階級の人たちは、これぞ自分にふさわしい高貴な務めとばかり、下等な労働はすべて家臣や召使にまかせて、自分はもっぱら、することがなにもないことを楽しみ、それを他人に見せびらかすようになりました。この行為に『顕示的閑暇』という名称をヴェブレンは付けたのです」
十五号館の教室で、柏田は「経済学史」の講義を行なっていた。初回、二回目と学生たちで満員だったので、三回目の今日からは数百名を収容できる大教室での授業となったのだ。その盛況ぶりを、最後列の席に着き、主任教授の清井は静かに眺めていた。
マイクを伝って、柏田の朗々とした声が響く。
「ところでこの『顕示的閑暇』って言葉、ちょいと難しいと思いませんか。これまでに『衒示的閑暇』や『誇示的閑暇』といった訳語も翻訳者たちは考えだしてきたんだけど、苦労の跡がうかがえるよね。そもそも原文は『conspicuous leisure』で、直訳すると『目立つ余暇』。なので『見せびらかし閑暇』って訳語でもいいと思うんだけどね。いずれにしても、この閑暇の習慣にハマりすぎると悲劇も起こる。ご膳番が長期不在にもかかわらず、食物を自分の手で口に運ぶことをしなかったため餓死してしまったポリネシアの首長さんや、主君の椅子を動かすのを職とする側仕えがたまたま近くにおらず、暖炉の火の前にじっと座り続けたためご尊体が焼けてしまったフランスの国王さまなどがその例です。このお二人の場合は、顕示的閑暇を見物する人たちまでその場に一人もいなかったのが致命的でした。良い子の皆さんは、けっして真似をしないように。はい、本日の講義はこれでお終い」
巻き起こる爆笑の中、教室を出た柏田は研究室へ向かった。ジャケットの内ポケットから携帯電話を取りだし、マナーモードを解除すると、さっそく着信音が響いた。由香からの電話だった。
「講義に感動のあまり、電話をくれたのかな」
柏田が応対すると
「そうなの。私も見せびらかしちゃおうかなー」
と、甘ったるい由香の声。
「見せびらかすって、なにを?」
「先生との仲。セックスしましたって、みんなに言いふらしちゃおうかなー。SNSで拡散させちゃおうかなー」
「な、な、なにを突然……」
うろたえる柏田の声を楽しむかのように、ゆっくりと間をおいてから由香は言った。
「だって、先に見せびらかしたの、先生じゃない」
「えっ? ど、どういう意味?」
「昨日のランチタイム。シャンソン亭で、私に見せびらかしたじゃない。茶色い髪と瞳をした、きれいな人とアツアツのところを」
「なんだ、あの店に居あわせたのか。気づかなかったよ。あの人はオルソン亜理紗さんといって、昨日から俺の秘書になったんだ。スウェーデン出身だからノーベル賞受賞に向けた論文の執筆作業の力になるんじゃないかって、総長が勝手に決めたんだよ。昨日は初日だから、いっしょにランチしただけ。見せびらかしたんじゃない」
納得させようとする柏田だが
「ふうん。先生の秘書なんだー。研究室の中に、毎日いっしょにいるんだー。ふうん。この私は週にたったの一度だけ、九十分の講義時間中に、大勢の学生のうちの一人としてしか会えないのに、あの人は毎日何時間でも先生と二人きりでいられるんだ。ふうん」
いびるような由香の話しぶりに困り果てた。
「もう大学四年生なんだから、子どもみたいなこと言わないでよ。どうしたら分かってくれるのかなあ」
「私と結婚してくれたら」
「ば、ばかなっ。ふざけるのもいい加減にしなさいっ」
「じゃあ、まじめに言うね」
「ああ」
「今夜、先生のお家に泊めてくれたら許してあげる」
それもまた呑めない条件だった。一度でも来宅を許したら、きっと二度三度と繰りかえすに違いない。自分は学者だ。研究は大学だけでなく自宅でだって行なう。ノーベル賞獲得の大役を仰せつかったいま、誰にも学問の邪魔はされたくない。由香の要求をなんとか退けようと、柏田は早口でまくしたてた。
「俺の家は汚いぞっ。築六十年の2LDKのオンボロマンションで地震のため大きく傾いてる。キッチンダイニングリビングはゴキブリたちのオンパレード。トイレも風呂もカビだらけ。バルコニーはカラスの糞だらけ。二つの部屋は何年も洗濯してない下着が散乱し物凄い腐臭を放っている。どうだ、それでも来たいかっ」
すると
「ぜひ行きたいわ! 世界一汚さそうな大学教授のお住まいを体感できるなんて、幸せ!」
と由香の歓声が上がったので、とうとう柏田は根負けし、帰宅をともにする約束をしてしまった。ふらふらの頭で研究室に着くと
「お疲れ様です」
と亜理紗が言い、コーヒーを淹れてくれた。
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