小説「けむりの対局」・第10話
勝つのは、どっちだ? 升田幸三 vs 人工知能
時刻は午後七時を過ぎ、勝負は終盤戦に突入していた。
持ち時間の残りは、戦友が三十分を切ったのに対し、升田はまだ一時間半以上も余している。
これまでの対局とは、逆の現象だ。コンピュータがつねに時間の余裕を残すなか、人間は長考を重ねたあげく、一手を六十秒未満で指さねばならない秒読み将棋に追いこまれ、敗れ去っていった。その立場が、いま、逆転しているのだ。
伝説の棋士の堂々たる戦いぶりに、テーブル側の者たちは畏敬の念を強くした。その五人に向かって、
「相手の考慮中に、こっちはもっと先の手を考えとるから、こげな芸当ができる」
上機嫌でそう言うと、升田はタバコを吸いつけ、プッハーと煙を吐き出した。ハイライトは、すでに八箱目。灰皿の菊の花も、もはや八分咲きの状態だ。
盤をはさんで向き合っているロボットの白いアームが、長時間にわたりタバコの煙を浴びて、うっすらと黄ばんでいる。そのアームが、盤面の中央にある歩の駒を吸盤で吸い上げ、一桝前へ動かそうとしたそのとき、事件は起きた。
吸盤からポロリと駒が落ち、その駒が前の桝目ではなく、左横の桝目のなかへピタリと収まったのだ。
前へしか進むことのできない歩が、なんと横へ進んでしまったのである。
「あ……」
「これは……」
「反則……」
テーブル側の男たちが、続けざまに声を出した。
「ということは」
「負け」
「つまり」
「人間の」
「勝ち!」
やったやったと小躍りする、朝比奈、磯野、川崎。
その三人に向かって
「ばっかもーん!」
升田の叱り声が飛んだ。
「ケチくさいことを言うんじゃない。ロボットの手先が故障しただけじゃろう。対局時計を止めて、早く修理をしなさい」
升田の言葉に先んじて早見が立ち上がり、下階の控え室へ電話を入れた。すると速やかに、待機をしていた開発メーカーのスタッフたちがやってきた。
そして、工具の類を手にすると、アームの先端を覗きこんだり、突っついたりすること、数十分。責任者が口をひらいた。
「吸引用のチューブを掃除しようと試みたのですが、駄目ですね。タバコのヤニが、チューブのずっと奥のほうまで詰まっています」
その報告に、もじゃもじゃの頭をぼりぼり掻きながら、
「なんと、ワシのタバコのせいであったか。これは、えろう済まんことをした」
升田が詫びた。
「修理をするには、いったん本社工場へ持ちかえる必要があります。再び動かせるのは、早くても明日の午後になるでしょう」
責任者の言葉に、
「それでは遅すぎる。主催社の放送の都合もあるし……」
朝比奈が頭を抱えた。
困惑と沈黙が、対局場をつつむ。
そのとき、腕組みをしていた升田が、早見に向かって言った。
「坊や、こっちへ来て、ワシと将棋を指さんか」