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みかんの色の野球チーム・連載第18回

第3部 「事件の冬」 その1
 
 
 冬休みは、珍客を連れてやって来た。
その朝、通学の煩わしさから解放されて惰眠をむさぼっていた私を、温かい布団の中から引っぱり出したのは、いつもの母の叱責ではなく、飼い犬のジョンの吠え声だった。
 ウォン、ウォン! ウォン、ウォン! ウォン、ウォウォーン!
 いったい何事かと、まだまだ眠たい目をこすりながら起き出した私は、パジャマの上に丹前をはおり、家の裏口へと向かった。
 土間へ下り、サンダルを履き、引き戸を開けた私は、ビックリ。
 そこに広がっていたのは、初めてこの目で見る、雪景色だったのだ。
 地面はどこまでも真っ白く覆われ、隣家の瓦屋根も土塀も、ジョンが寝起きする小屋の三角屋根も、ふわふわの綿帽子を被っている。
 空から次々と舞い降りてくる花びらのような雪は、裸の木々にも降り積もり、その重みに耐えられなくなった枝が積雪を地面に振り落とすドサドサッという音が、しんしんとした静寂の中に時おり聞こえてくる。
「おう、雪か……」
 いつの間にか私の背後に立っていた父が、感慨深げに言った。
「津久見に雪とは、珍しいのう。たしか、5年くらい前にも、降ったような覚えがあるけんど、ちょこっとした粉雪で、積もったりはせんじゃった」
 そんなに前の、わずかな雪だったのなら、私が記憶しているはずもない。ましてや生後3年に満たないジョンにとっては、正真正銘、初めての雪なのだ。
 ウォン、ウォン! ウォン、ウォン! ウォン、ウォン!
 飼い犬の鳴き声に、
「おう、ジョンよ。この雪じゃあ、今朝の散歩は中止じゃのう。おまえの足が凍えてしまうけんのう」
 父が、宥めるように言った。
 まだ子犬の頃は、ジョンの散歩相手は私だった。だが、見る見るうちに体がでっかくなり、私が引き綱を自由に操れなくなってからは、父にその役目を譲った。1日じゅう仕事部屋にこもりっきりの父にとって、ジョンとの朝の散歩は、運動不足解消のための良い習慣になっていた。
 サンダル履きのまま、私は真っ白い戸外へ出ていき、両手いっぱいに雪を掬ってみた。初めて手にした雪は、ふんわりと柔らかく、やがてじわじわと冷たさを沁みこませてきた。
 
 ジョンの散歩は中止になっても、私たちの遊びに休みはない。
 朝食を済ませると、いつもの仲間と電話で連絡を取り合い、私たちはさっそく市民グラウンドに集合した。
 市役所の前に位置するグラウンドは、津高のそれに負けないくらい広々として、スポーツ好きの市民たちでいつも賑わっている。
 だが、今日の一番乗りは、私たち。さすがに、このグラウンドコンディションの中で野球やサッカーに興じようという物好きな人たちはおらず、だだっ広い雪原のど真ん中に私たちは陣取っていた。
「さーて。まず、何から始めようかのう」
 5人分の足跡の他は、何ひとつ汚されていない純白のグラウンドを見渡しながら、ブッチンが言った。
「雪の中で遊ぶちいうたら、やっぱあ雪合戦かのう」
 あのギンナンかぶれの腫れがすっかり消えた、元通りの顔をほころばせて、ペッタンが応じた。
「雪ダルマっちゅうやつも、いっぺん作ってみてえのう」
 毛糸の手袋をした両手をパンパン叩き合わせ、期待にワクワクした表情で、カネゴンが続けた。
「北海道やら東北やら北国の子供たちじゃったら、スキーとかで遊ぶんじゃろうのう」
 市内のスポーツ用品店のどこにも置いていない遊具の名前を出したのは、さすがは運動能力抜群のヨッちゃんの発言だった。
「まあ、俺どーは、ふだんから雪に馴染の無え南国の子供じゃあし……」
 そう言いながら私は腰をかがめ、手袋で雪を掬い取って、それを球状に固めながら、
「……映画やら漫画やらで見たんを真似してみるしか無かろうのう。えいっ!」
 その言葉と同時に、右手に持った雪の球をブッチン目がけて投げつけた。
 私の奇襲は成功し、雪球は彼の茶色いジャンバーの胸に命中して砕け散った。
「やったのーっ! こんやつめーっ!」
 ブッチンは大仰に怒りの声を発し、すぐさま自分も雪を掬って丸く固めると、
「ほーらっ! お返しじゃーっ!」
 そう叫びながら私に狙いを定めて右手を振り上げ、その直後、左側に立っているペッタンに向き直って雪球を投げつけた。ペッタンの青いジャンバーの肩で雪が弾けた。
「ちーくしょーっ! ひきょーものーっ!」
 今度はペッタンが叫び声を上げ、同じように雪の塊を手にしてブッチンに投げつけるふりをした後、正面のカネゴンに向かって球を放った。ベチャッと大きな音を立てて雪塊はカネゴンの左の頬を直撃し、
「あいたたたーっ!」
 悲鳴を上げて、犠牲者はその場にくずおれた。
「だ、大丈夫か……?」
 ちょいと、やりすぎたかな。そんな顔をして、左手で頬を押さえたまま前のめりに倒れているカネゴンに歩み寄ったペッタンだが、このときすでにカネゴンは空いた右手で雪球を作り、反撃の機会を窺っていた。そしていきなり立ち上がると、
「大丈夫か、じゃ、無えじゃろーっ!」
 怒号とともに目の前のペッタンに復讐するかと思いきや、くるりと身をひるがえして、後ろにいたヨッちゃんに向かい雪の塊を投げ放った。
 それを予期していたかのごとく、すばやく左へ飛びすさって雪球をかわしたヨッちゃんは、そのまま雪のグラウンドをくるくると回転しながら、いつの間にか左手に弾丸を用意し、次の瞬間、雪上に起き上がったサウスポーの投じた鋭い雪球は、見事に私の急所を捉えた。
「いててててーっ!」
 ズボンの股間を両手で私が押さえると、みんなはゲラゲラ大笑いし、雪遊びの第1ラウンドは終了した。
 気がつくと、すでに雪は止んでおり、朝の太陽の光が白いグラウンドに降り注いでいる。
 私たちがひとしきり遊んだ跡は、ところどころ雪のカーペットがめくれ、湿った黒い土が覗いている。やはり津久見に降り積もる雪など、この程度の厚さなのか。
 広いグラウンドのあちこちには、私たちと同じように、雪合戦をしたり雪ダルマを作ったりして遊んでいる子供たちの姿が散見され、歓声も聞こえてくる。
 それらの様子を私が眺めていると、後ろからペッタンの声がした。
「不意討ち雪合戦の次は、雪球の宝探し、どうじゃあ?」
 
 自分が発案した新しいゲーム「雪球の宝探し」についてのペッタンの説明は、こういうものだった。
 まず、5名のそれぞれが、ズボンの中から10円玉を取り出し、ジャンケンをする。
 次に、ジャンケンに勝ち残った1名が、各人から10円玉を受け取り、自分のお金と合わせて合計50円を預かる管理者となる。
 管理者は、自ら5つの雪球を作り、その中のどれか1つに、みんなから預かった10円玉5枚を埋めこむ。その間、管理者以外の4名は、後ろを向いてじっと目をつぶっていなければならない。
 それが完了すると、いよいよゲームのスタート。管理者を除く4名が再びジャンケンをし、勝った者から順番に、好きな雪球を選び取っていく。残った1つが、管理者の雪球だ。
 さあて、見事、50円の大金を手にするのはいったい誰でしょう、という、実に単純な遊びで、いかにもペッタンらしい思いつきではあるのだが、彼の説明を聞き終えたみんなは、俄然やる気になっていた。
 何といっても50円というお金は子供たちにとって大金だったし、「宝探し」という呼び名には、私たちの射幸心を煽るワクワクした響きがあった。(※注)
 ということで、管理者を決める最初のジャン、ケン、ポン。
 4人がグーで、1人だけパー。一発で管理者の資格を得たのは、カネゴンだった。やはり、おカネのことならカネゴンか。
 ルールの通り、4人揃って反対側を向き、目を閉じた、ブッチンとペッタンとヨッちゃんと、私。その背後ではカネゴンが、せっせと5つの雪球を作っている。
 やがて、「できたぞー」の声に目を開け、私たちが振り返ると、大きさも形もまちまちだが、雪球が5個、そこには並んでいた。
 この中のどれかに、50円のお宝が! 期待に胸を膨らませて、私たち4人が順番決めのジャンケンをしようとした、そのとき。
 ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュッ。ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュッ。
 雪を踏みしめながら、こちらへ走ってくる足音が聞こえてきたのだ。
 その音の方を私たちが見やると、近づいてきたのは1人の男性。
 紺色のウインドブレーカーに、青いトレパン、黒いシューズ。茶色い毛糸の帽子を頭に被り、白い軍手を両手に着けて、口から湯気のような息を吐いている。
「あっ、ユキにいちゃん!」
 ヨッちゃんが大きな声を上げたのと同時に、私たちは、この人物が津久見高校野球部の前嶋幸夫選手であることに気づいた。あの夏の終わりの日、私たちを津高グラウンドでの練習見学に連れていってくれた人。ヨッちゃんの従兄弟。蛍光塗料の戦車のクジを引き当てた、強運の持ち主。
 私たちのすぐそばで立ち止まり、ランニングを終えた前嶋選手は、両手を両膝に置いた前傾姿勢のまま、しばらくハアハアと荒い息をついていたが、やがて呼吸が治まると体を立て直し、私たちの方を向いて、
「よう、何しよるんか?」
 メガネの奥の目をにこやかに笑わせながら訊いた。
「雪球の宝探し、しよったんじゃあ」
 ヨッちゃんが答えると、
「雪球の宝探し? 何じゃあそりゃ?」
 と、前嶋選手。
「あそこに雪の球が5つ並んじょるじゃろう。あの中のどれか1つに、50円が入っちょるんじゃあ。ユキにいちゃん、どの球じゃか分かる?」
 ヨッちゃんの説明に、前嶋選手は、
「そりゃあ、おまえ……」
 と呟きながら、並んだ雪球を眺めていたが、やがて
「右から2番目のやつじゃろう」
 何気ない顔をして、そう言った。
 その言葉に、ビックリした表情を見せたのは、管理者役のカネゴン。
「中を開けてみい」
 ブッチンの声に促されて、カネゴンが右から2番目の雪球を手に取り、高く掲げ、両手で握り潰したとたん、ポロポロポロポロポロと、10円玉が続けざまに5枚、雪の上に落ちていった。
 私たちは、言葉を失った。駄菓子屋でのクジに続いて、二度までも……。
「あっはっはーっ、驚いたかー。じゃあけんど、お金をオモチャにして遊んじゃあいけんのう」
 さすがは高校生。前嶋選手は、小学生の悪ガキどもを、たしなめることも忘れなかった。
「ユキにいちゃん、今日はトレーニングしてきたん?」
 ヨッちゃんが話題を変えると、
「おう。西ノ内の万年橋まで、2往復してきた。10キロくらい走ったかのう。今日だけじゃあ無えぞ。明日も、明後日も、その次の日も。冬の間は毎日、ずーっと走りこみじゃあ」
 前嶋選手は、力強い口調で答えた。
「万年橋まで2往復も! この雪の中を!」
 ブッチンが驚きの声を上げると、
「ユキの中の、ユキにいちゃんじゃあ!」
 お調子者のペッタンが、くだらないシャレを飛ばした。
「あっはっはーっ。雪が降ろうがユキにいちゃん、雨が降ろうがユキにいちゃんじゃあ。走りこみだけじゃあ無えぞ。冬休みの間も、毎日グラウンドに行って猛練習じゃあ。早う、レギュラーの座を掴まんとのう」
 笑いながら話す前嶋選手だが、正二塁手のポジション獲得への思いには必死なものがあるのだろうなと、私は思った。現在の彼の役割が、試合の終盤での代打要員であり、守備固めの要員であることを、大分日日新聞の記事で知っていたからだ。
「ユキにいちゃんは、すげえ強運を持っちょるけん、絶対にレギュラーになれるわい」
 ヨッちゃんの言葉に、
「運だけじゃあ、ダメ。一に努力、二に努力、三四も努力、五も努力じゃあ」
 前嶋選手は返事をすると、
「見てみい、あれを」
 そう言って、市民グラウンドの向こう側、線路沿いの道を、宮山の方へ向かって走っていく人影を指差した。
「あの人は?」
 私が訊くと、
「おまえどーも良う知っちょる、吉良修一投手じゃあ。あいつが大野郡の大恩寺中学から入部してきたばかりの1年生の頃は、ブルペンで投げよっても、キャッチャーミットまでやっと届くくらいのヘナヘナボールじゃった。そこで、あいつは努力を始めたんじゃあ。学校での練習が終わってから、毎日10キロのランニング。雨が降ろうが、嵐が来ようが、1日たりとも休むことなく走り続けて、今もああやって走り続けよる。しかものう、普通のシューズじゃあ無え。重てえ鉄板の入っちょる、工事現場用の安全靴をどっかから探して来て、それを履いて走り続けよるんじゃあ。その努力が実って、あいつの足腰はものすごう鍛えられて、直球の威力が以前とは比べもんにならんくらい増した。コントロールも抜群に良うなった。ウイニングショットのドロップも、秋の初めの頃はまだまだじゃったけど、国体の試合からは格段にキレが鋭う落ちるようになった。エースの浅田に追いつけ追いこせっちゅう必死の思いで努力に努力を重ねて、今じゃあ肩を並べるまでになった。九州大会までは背番号『10』を付けちょったけど、次の大会ではひょっとして『1』を付けるようになるかもしれん。あいつを見習うて、この俺も、努力、努力、努力じゃあ!」 
 前嶋選手は、ひとしきり熱弁を振るった。
「次の大会って、来年の夏の甲子園の県予選のことですよね? センバツには、もう出られんし……」
 さらに私が訊くと、
「まあ、九州大会の成績の上ではのう。じゃあけんど、監督は、俺どー選手たちにいつも言いよる。いつ試合が始まってもいいように準備だけは怠るな、っちのう。おっと、ちょいと長話をし過ぎたのう。ほんなあ、俺、これから学校の練習に行くけん。またなあ」
 そう言い残すと、前嶋選手は私たち5人に手を振り、その場から走り去っていった。
 ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュッ。ザシュ、ザシュ、ザシュ、ザシュッ。
 その後ろ姿を眺めながら、私は頭の中で繰り返していた。
 あの小嶋監督が、選手たちに言い聞かせているという言葉を。
 いつ試合が始まってもいいように、という、その言葉を。
 
 
 
 
(※注)この頃のサラリーマンの初任給がだいたい2万円だから、当時の50円は現在の5~600円くらい。


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