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小説「ノーベル賞を取りなさい」第19話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




「女を殺るどころか手下を病院送りにされただとお」
 晴道学園大学の理事長室に、石ヶ崎の野太い声が響いた。
「やい、清井。女が究心館空手の五段だってこと、どうして事前に知らせなかった」
 石ヶ崎が座る大きなソファーの前で、床に這いつくばって清井は答えた。
「知らなかったのです。まさかあのオルソン亜理紗が空手の達人だなんて。ほんとうです。ほんとうに知らなかったのです。どうぞ、どうぞお許しください」
 土下座をしたまま、清井は助命を嘆願した。
「無能なんだよ、おめえは。二度も続けて失敗しやがって。とても晴道学園大学の学長を任せられる器じゃねえ。ぶっ殺してやりてえが、鳥飼、どう思う?」
 石ヶ崎の隣に座っている鳥飼が、意見を求められて答えた。
「この男を殺してしまえば、大隈大とのパイプ役がいなくなるかと言うと、実はそうではありません。そもそも中川という大隈大政経学部の教授が私と高校の同級生で、その推薦でこの男がやってきたわけです。私はまた中川に接触し、代わりになる人物を至急探しますが、いずれにせよもう警察が動きだしているでしょうから、この男は表立っては使えません。でも殺すのはいつでもできますから、なにかがあったときのために生かしておくのがよろしいかと」
 鳥飼の話を聞き
「命拾いしたな、おめえ」
 と言いながら立ちあがった石ヶ崎は、目の前の清井の顔を蹴り上げて仰向けにひっくり返し、その胸部を思いきり踏んづけた。
「ぐぁ」
 という奇妙な声を発したのち、やがて清井はぴくりとも動かなくなった。
「あ」
 と、石ヶ崎。
「あーあ、もう死んでますよ。心停止しちゃってるし」
 と、清井の手首の脈をとりながら鳥飼。
「なんだ、もろいやつだな。つまんねえの。鳥飼、こいつを秩父の山奥にでも埋めておけ」
 石ヶ崎が命じた。

 三日後。東京都調布市、多摩川の河川敷。愛犬のジャックラッセルテリアがリードを外され、広い原っぱを元気に駆けまわる様子を見て、中川保司は幸せそうな笑みを浮かべた。牝の五歳で、名前はガガ。大好きなミュージシャンから頂戴した。大学の雑事から解放され、思う存分にガガと過ごせる週末のこの時間を、彼はなによりも大切にしていた。
 そのとき、ウエストポーチの中の携帯電話が鳴りはじめた。手にとって画面を見ると、鳥飼からだ。
「もしもし。どうした?」
 と、通話を始めると
「休日なのに、済まないね」
 同級生の声が返ってきた。
「別にかまわないよ。犬を遊ばせてるところだから」
「実はね。紹介してもらった清井さんが行方不明になっちゃったんだ。清井さん、大隈大には来てる?」
「そう言えば、ここ数日、姿を見ていないなあ。国際会議に出かけたって話も聞いてないしね。病気やケガで療養中とか?」
「もしもそうだとしたら、困るんだよね。実は例のノーベル経済学賞のプロジェクト、その成果物をまだ清井さんが入手できていないんだ。柏田教授が論文を書き上げるのが、今月内。あと数日だ。それをいち早く盗みだしてくれないと、俺も大学内での立場がマズいことになっちゃうんだよね」
「あ、いま柏田って言ったな。あの野郎、俺のゼミ生だった女子学生を引きぬいて、自分の秘書にしやがった。くそう、だんだん腹が立ってきたぞ。せっかくの休日だと言うのに」
 すると鳥飼は、しばらく考えたのち
「その秘書の女子学生というのは使えないかな。柏田教授といつもいっしょにいるんだろ」
 と言った。その発言に中川は
「あの娘は無理だよ。柏田にゾッコンだし、裏切るはずがない」
 と答えた。
「三千万円を餌にしても?」
「世田谷の成城のお嬢様だ。食いつくはずがない」
「なあ、中川」
「うん?」
「同窓のよしみで、なんとかしてくれ。俺はマジでヤバい立場にいるんだ。うちの理事長の噂、聞いたことあるだろ」
「さいたまの国王。大変な巨漢で豪快な人柄。そんなところかな、俺が聞き知っているのは」
「それは表の顔。その裏側がものすごいんだ。頼む。助けてくれ」
 哀願するような旧友の口調に、しばらくして中川は言った。
「分かった。なんとかする。うまくいったら一杯おごれよ」

     

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