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小説「ノーベル賞を取りなさい」第2話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 それから四か月後。大隈大学新宿キャンパス本部ビルの最上階にある総長室の窓から、桜の花びらが風に舞う様子を留美は眺めていた。時まさに新入学の季節。いまから四十五年前、この自分もまたあの桜並木に迎えられ、この大学の門をくぐったのだ。キャンパス内の建物や周辺の街並みは、すっかり新世紀のたたずまいになってしまったが、若者たちの胸にふくらむ夢や希望や誇りは決して昔と変わることはないだろう。いや、断じて変えてはならないのだ、彼ら彼女らが抱く大隈大生なればこそのプライドは。そう肝に銘じると、留美は右手を握り、その拳にぎゅっと力をこめた。
 そのとき電話が鳴り、総長秘書の萩原宏冶が応対した。短い通話ののち受話器をもどした彼は、立ちあがると留美に用件を告げた。
「総長。八十人の先生方が全員、会議室に入られました」
 それを聞いた彼女は
「あら、そう。コロナ渦が完全に終息してほんとうに助かるわね。では参りましょうか、家畜のような教授たちの群れの中へ」
 皮肉を言うと、萩原を従え部屋を出て、おなじフロアにある特別会議室へと歩いていった。
 広い会議室には、政治経済学部および大学院の教授たちが巨大な円卓を囲んで着席していた。留美が入室すると直ちに全員が立ちあがって礼をし、学部長を務める牛坂建蔵の右隣に彼女が腰を下ろすのを見届けてから、再び全員が席に着いた。秘書の萩原は留美の後方に椅子を動かして座った。
 備えつけのマイクを通して、留美の声が室内に響いた。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ご苦労様。それではさっそく本題に入るわね。半年前に学部長会議で決議された、本学のすべての学部学科の偏差値が福沢大学を追い抜くためのプロジェクト『SHIGAKU‐TOP』の創設は、このたび理事会で承認され実行に移されることになりました。ただし、その先鞭をつけるのは建学以来の看板学部である政治経済学部の役割とするという条件つき。そこで理事長でもある私が考えたプロジェクト成功のための施策こそが、ノーベル経済学賞の受賞者をわれらが大隈大学から出すというものです。皆さんご存じのように、経済学賞は厳密に言えばノーベル賞ではありません。物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞の五つの賞とは違い、経済学賞はノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行が一九六八年に創立三百年を迎えたのを記念してノーベル財団に働きかけて設けられた賞だからです。なので、正式名称はアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞。でも、そんなことはどうだっていいのよ。受賞者の選考を行なうのは他の賞とおなじスウェーデン王立科学アカデミーなんだし、なんと言ってもこれまで日本人が一人も手にしたことのないこの賞を、もしも大隈大学の誰かが受賞したら、いったいどうなると思う?」
 留美の話を受けて、左隣の席の牛坂学部長が口を開いた。
「日本中が大騒ぎ。我らが政経学部の評価は爆発的に上がり、偏差値はうなぎのぼりに伸びて、福沢大の経済学部どころか法学部をも抜きさり、帝都大の文科二類、いやいや文科一類にさえ肉迫するのではないでしょうか」
「肉迫する?」
「え……? あ、いやいや間違えました。ぶっちぎる。そうです、ぶっちぎることでしょう。思い起こせば、総長と私はおなじ昭和五十二年の入学。おなじ語学クラスで初めてお会いしたのでした。私が帝都大の文科二類を落ちて大隈大の政経学部に入ったのに対し、総長は帝都大の文科一類に合格したのにそれを蹴って来た。その理由を訊くと、プロの雀士になりたいから麻雀日本一の大隈大に来たのだとおっしゃいましたよね。『帝都の文一を滑りどめにした女』がいると、当時は学内でたいへん話題になったものでした」
 ノーベル賞の件に興味を示すどころか、牛坂の話に八十人の教授たちの大半が顔を曇らせ、中には下を向く者もいた。受験生時代の屈辱を思いだしたのだろうか。そのとき留美が言った。
「昔のことはどうだっていいのよ。肝心なのは、いまとこれから。ノーベル経済学賞をとって燦然と輝きたいと思う者は、この中にいないの? われこそは!と進みでる者は一人もいないわけ?」
 長い沈黙。
「じゃあ仕方ないわね」
 吐息のような声をもらすと、留美は後ろの椅子に座っている萩原に指示をした。
「一階のロビーで待機しているあの人を呼んでちょうだい」
 それに従い、萩原は会議室を出て、携帯電話を取りだした。
 数分後、萩原に先導されて一人の男が入室してきた。一八〇センチくらいの長身に紺色のスーツをまとった五十代半ばのその男は、顔をきれいに剃って清潔感を漂わせていたが、どんな髪型をしているのかは分からなかった。なぜなら、アライグマの帽子をかぶっていたからである。
 椅子から立ちあがった留美は、彼の隣に立つと、呆気にとられた様子の教授たちに向かって言った。
「ご紹介しますね。皆さんに代わってノーベル経済学賞を狙ってくださる柏田照夫さんよ。特任教授として私が自らスカウトしてきました。専門分野は制度経済学。皆さん、どうぞよろしくね」
 
                 

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