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みかんの色の野球チーム・連載第4回

第1部 「青空の夏」 その3

 
 
「やられてしもうたのう、ヒゲタワシに」
 5人で歩く、下校の道中。カネゴンがブッチンに声をかけた。
「すまんかったのう。俺が少年マガジンやら持ってこんかったら、こげなことにはならんかったにい……」
 ペッタンが、申し訳なさそうに沈んだ口調で言った。
「まだ痛えんじゃろ、顔が。8発も叩かれたんじゃあけえ」
 ヨッちゃんの気遣いの言葉の通り、ブッチンの両頬は腫れて膨らんでおり、彼がペッとツバを吐くと、赤い血がまじっていた。口の中を切っているようだ。
 その様子はたしかに痛々しかったが、私はそれほどブッチンに同情しているわけではなかった。福山先生の鉄拳制裁はひどいものだったが、その原因となったブッチンのユカリへの仕打ちはもっとひどいものだったと思うからだ。
 言葉の暴力はまだ許せるとしても、まさかユカリの胸を掴むなんて。パイパイがぺちゃんこだ、なんて。彼女がブッチンに汚されてしまったみたいな気がして、私は少なからず不愉快だった。あるいはそれは、ブッチンに対するヤキモチのような感情だったのかもしれない。
商店街を通り抜けたとき、ヨッちゃんが言った。
「どうする、これから? グラウンド行って、野球する?」
 その問いかけに、ビンタをくらって以来ずっと口をつぐんでいたブッチンが、ようやく言葉を発した。
「そげな気分じゃ無えな、今日はもう」
 彼がそう答えると、みんなはその場で立ち止まった。
 盛夏の日差しは強い熱気を伴って照りつけ、半ズボンに半袖シャツを着た5人はすでに汗だくだった。太陽が沈んで暗くなるまで、これからの長い時間、今日は何をして遊んだらいいのだろう。
 そのとき、ウーッ、ウーッ、ウーッと、大きな音が辺り一帯に響き渡った。市民たちに正午の到来を告げる、サイレンの唸り声。ここからそう遠くない、宮山という丘の頂上からその音は聞こえてくるのだ。
 ウーッ、ウーッ、ウーッ。ウーッ、ウーッ、ウーッ。
 その甲高い連続音が、グッドアイデアを運んできたらしく、ブッチンが口を開いた。
「そうじゃ、宮山じゃあ……」
 4人の顔を見渡しながら、
「宮山に行こうや! 基地に行こうや!」
 サイレンに負けない大声で、彼は言った。
「宮山かあ!」
「基地かあ!」
「その手があったのう!」
「行こう! 行こうや!」
 みんなは異口同音に、やはり大きな声で賛成した。
 高さ100メートル足らずの宮山の中腹には、この夏休みが始まったばかりの7月の末に、みんなで作った秘密の基地がある。そこへ入ることが許されるのも、この5人だけ。あんな出来事があった今日みたいな日には、野球よりも基地で遊ぶことのほうがピッタリするように私たちには思われたのだ。
「今日は給食が無えかったけんのう」
 カネゴンが言うと、
「腹が空いちょるけんのう」
ヨッちゃんが応じ、
「生協に行ってのう」
 ペッタンも続き、
「パンやらジュースやら買うてのう」
 私も声をつなぎ、
「みんなで基地で食べようや!」
 ブッチンが締めくくった。
 そうと決まれば、行動に移すのみ。私たちは今朝の通学路を東の方向に曲がり、勢いを増してきたセミの合唱の中を、駆けるように歩いていった。
 
 福岡、大分、宮崎、鹿児島の4県にわたり、東九州の沿岸沿いを縦断する日豊本線。津久見駅から上りの列車に乗ると、すぐ目の前に暗闇が口を開けて待っている。それが、宮山トンネルだ。(※注)
 そのトンネルの近くに、山への登り口があり、緩やかな傾斜道を行くと、大人の足なら5分、子供でも10分あれば頂上までたどり着くことができる。
 鉄製のサイレン塔のほかには特にこれといった施設もない山頂だが、そこからの景色は眺める人にちょっとした驚きを与えるかもしれない。
 青い南側と、白い北側。この山裾を境界線にして、津久見市はまったく異質な2つの世界に分かれているのだ。
 南の青は、海の色。リアス式海岸の細長い半島の先には、保戸島という遠洋漁業の拠点があり、その先はもう豊後水道だ。私の母が女学生の頃、そこを南下して進んでいく戦艦大和に向かって、みんなで旗を振ったそうだ。海と山々に四方を囲まれた狭い陸地には、行政、交通、教育、医療、福祉などの主要施設や、いくらかの商業集積がある。ちなみに、津久見市で唯一の高等学校があるのも、こちら側だ。 
 北の白は、セメントの色。水晶山、それと胡麻柄山と呼ばれる2つの石灰山には、矢倉セメントを筆頭に、大小さまざまな採掘加工会社の鉱業施設がへばりついている。そして今朝の教室でブッチンが話したように、1日に数回行われるダイナマイトの爆破によって粉砕された石灰石の塵が、セメント町と名づけられたエリアの家々の屋根に降り積もり、それはまるで一面の雪景色を見ているようだ。
 この両者に共通しているのは、名産みかんのオレンジ色。その栽培は南側のほうが盛んだが、北側には樹齢800年という日本最古のみかんの原木がある。
 南側の住人である私たちが、反対側の町へ出かけることは、ほとんどない。行くのは、ゴジラやモスラやラドンやキングギドラに会うときくらいだ。津久見には3軒の映画館があり、うち2軒はこちら側なのだが、1軒は時代劇専門で、もう1軒は私たちが観ることのできない成人映画の上映ばかり。大好きな怪獣映画は、あちら側の独占公開なのだ。
 
「ふうー。食うた、食うた」
 アンパンとジャムパンとメロンパンをがつがつと頬張り、ファンタオレンジで胃の中へ流しこんだペッタンが、満ち足りた顔をして言った。
 カネゴン、ヨッちゃん、それに私もご同様。パンとジュースだけでオカズのない献立は、学校の給食にくらべたら見劣りするのだけど、5人のほかは誰も知らない場所で取るランチは、どこか特別な味がした。ただ、ブッチンだけは、あまり食欲がなかった。口の中がまだ痛くて、むしゃむしゃとは食べられないのだろう。
 宮山の登り道から外れた、段々畑。雑木を何本も切り、紐で結わえて骨組みをし、上の段に群生している葦の茎と葉を折り曲げて屋根に仕立てた、私たちだけの秘密基地。
5人座ると、もう隙間のないほど狭い空間だけど、地面にはちゃんとビニールシートが敷いてあり(これはヨッちゃんが提供したもの)、トランジスタラジオや懐中電灯も常備して(電器屋のカネゴンが親に内緒で持ってきた)、読み古してはいるが少年マガジンやサンデーなどの雑誌もいちばん奥に積んでいる(もちろんペッタン)。
 私が持ちこんだのは、ベルは壊れて鳴らないけれど、きちんと時を刻む目覚まし時計。ブッチンは蚊取り線香とマッチを用意したが、残念ながら、この辺にはヤブ蚊がうようよ飛んでいて、いまのところ物の役には立っていない。
 ブーン、ブーン、ブーン。ブーン、ブーン、ブーン。
 真夏の吸血鬼たちは基地の中にも遠慮なく侵入し、容赦なく5人に襲いかかってくる。私たちは腕を振り回して応戦し、防衛に成功したり、失敗したりした。
「ちきしょう! また食われた!」
 怒声とともに立ち上がったブッチンは、基地を飛び出し、自分の腕から血を吸い取っていったやつを執拗に追いかけ回して、ついに両手で叩き潰した。
「ほうら、見てみい」
 戻ってくるなり私たちに向かって両手を開くと、吸われたばかりの彼自身の鮮血の中でぺっちゃんこになっているヤブ蚊の死骸を見せつけ、ブッチンは言葉を続けた。
「こんやつはのう、ヒゲタワシじゃ。俺がのう、ぶち殺しちゃったんじゃ」
 吐き捨てるようにそう言うと、ブッチンは何度も何度も両手を叩き合わせた。
「こんやつめ! こんやつめ! こんやつめ! ヒゲタワシめ! ヒゲタワシめ! ヒゲタワシめーっ!」
 怒り狂った顔で怒号を放ちながらバチバチと音を立て続けるブッチンの姿に、私たちは言葉を失った。
 そうして、しばらくすると、彼はやっとおとなしくなり、再び基地を出て、地面に生えたいろいろな葉っぱの中から大きくて柔らかそうなのをちぎり取ると、それで汚れた両手を拭いた。
 学校でヒゲタワシに食らった8発のビンタへの怒りと屈辱からやっと解放されたのだろうと、みんながそう思い、安堵の胸を撫で下ろしたそのとき。
ブッチンは、基地の中の私の顔をじっと見つめて、静かな口調でこう言ったのだ。
「タイ坊。おまえを仲間から外す」
 
 自分が何を言われたのか、瞬時には理解ができなかった。幼稚園のときから今日まで、8年間もいっしょに遊んできた親友の口から、こんな言葉が出てきたとは、まったく信じられなかった。根も葉もないことを突然言い出し、相手をからかい困らせて面白がる彼のいつもの悪い癖がまた始まったのだと、そう思いたかった。
 しかし、ブッチンの顔には、いたずらっぽい笑みは微塵もなく、冷たい無表情しかそこには存在しなかった。
「のう、分かったか。おまえを仲間から外すんじゃ」
 彼がもう一度そう言ったとき、もはやこれが現実の言葉であることを私は悟った。
「な、なんで……?」
 私は、声を絞り出した。
「なんで、俺を、仲間から外すん……?」
 実に弱々しい声だと自分でも情けなく思いながら私が訊くと、ブッチンから意外な答が返ってきた。
「おまえ、学校で、俺の加勢をせんじゃったろう」
「え……?」
「おまえ、俺がユカリと言い合いよるとき、俺の加勢をせんじゃったろう」
「…………」
「あいつが、パパっち言うたとき、俺はそれをからこうた。カネゴンも、ヨッちゃんも、ペッタンもからこうた。みんなで、あいつをからこうた」
「…………」
「じゃあけんど、おまえは、せんかった。なーんもせんで、黙っちょった」
「…………」
「おまえ、ユカリの味方じゃろ。ユカリに、惚れちょるんじゃろ」
「ええっ……。違う……。味方と違う……。惚れちょるんと違う……」
「嘘言え。おまえは、ユカリの味方じゃ。東京もんの味方じゃ。おまえは、ユカリに惚れちょるんじゃ。東京もんに、惚れちょるんじゃ」
 たしかに、ブッチンの言う通りだった。私は、嘘をついている。ほんとうは、私は憧れの気持ちを抱いているのだ。ユカリという女の子に対して。東京という大都会に対して。そのことを、ブッチンは見抜いてしまった。なんという鋭いやつだろう。しかし、いま、この場で、それを認めるわけにはいかない。たとえ何があろうとも、仲間外れにされることだけは避けなければならない。絶対にそれだけは、避けなければならない。なんとかして、ブッチンの心を宥めなくては。私は、出まかせを口にすることにした。
「何言いよるんか、ブッチン。俺がユカリに惚れちょるわけ、無かろうが。あげな生意気で、頭がいいち威張っちょって、東京の自慢ばっかりしよって、津久見を真っ白にしよる人間の娘で、チビスケで、おっぱいがぺちゃんこの女に、俺が惚れちょるわけ、無かろうが。だいたいのう、ブッチン、俺は昔からのう、男が女に惚れちょるやら、女が男に惚れちょるやら、そげんことが好きじゃ無えんじゃ。嫌いなんじゃ。ほんとうなんぞ、ブッチン。俺はのう、恋やら愛やらいうんが、ものすごう嫌いなんじゃ」
 私の必死の弁明を、ブッチンは黙って聞いていた。それから、何事かを思案するような表情になり、しばらくして口を開いた。
「おまえ、いま言うたこと、ほんとうか?」
「おう、あたりまえじゃあ、ほんとうじゃあ」
 私は即座に答えた。
「嘘じゃ無かろうのう?」
「おう、あたりまえじゃあ、嘘じゃ無え」
「絶対に、そうか?」
「おう、あたりまえじゃあ、絶対に、そうじゃあ」
「よっしゃ、分かった。ほんならのう、おまえをこれから、テストする」
「テスト?」
「そうじゃ、テストじゃ。これから山頂に行って、おまえをテストしちゃる。頂上のベンチでのう、いつもいちゃいちゃしよるアベックがおろうが。今日も、やってきて、いちゃいちゃするはずじゃ。そいつをのう、ぶち壊してこい。それがテストじゃ。恋やら愛やらいうんが、ものすごう嫌いなおまえじゃったら、喜んで、ぶち壊してえじゃろ。テストに合格したら、これまで通り、おまえは俺どーの仲間の、タイ坊じゃ。もしも不合格じゃったら、おまえはこれから、ただの石村太次郎じゃあ」
 ああ、なんということに、なってしまったのだ。私は、心の中で、頭を抱えこんだ。
 
 
 
(※注)もちろん、まだ電化されていない鉄道路線なので、「列車」と言っても「電車」ではなく「汽車」である。筆者が田舎で過ごした高校時代まで、ついに「電車」が走ることはなかった。上京して大学生になったばかりの頃、東京出身の級友たちの前で「山手線の汽車に乗って」という発言をした筆者は、みんなに笑われ大恥をかいてしまった。


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