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小説「サムエルソンと居酒屋で」第2話

 それはまだ、大学生活というものが、自由な時間に満ちあふれていた時代のことだ。
 十年くらい前までは、いわゆる「団塊世代」の若者たちが国家権力を相手に派手に暴れまくったものだったが、今ではそれも小さな燃えカスとなり、キャンパスの端っこでくすぶっていた。後年「しらけ世代」と呼ばれたように、今の学生たちは何事かに対して一所懸命に行動することを好まない傾向があった。つまり、これが自由だった。
 勉強をしたい者はたくさん並んだ建物の中のどこかの教室の好きな席に座って教授の講義に耳を傾ければ良かったし、そうでない者はキャンパスを隙間なく取り囲む約百軒もの店の中から、食堂、喫茶店、書店、古書店、麻雀荘、ビリヤード場、アルバイト紹介所、少し離れた名画座などの好みの場所を選んで暇つぶしをすれば事足りた。
 さらに、はなから授業をサボろうと思ったら、下宿や自宅で一日中ごろごろするという手もあるわけで、そうやって若さと時間を持て余している者たちに対しても大学はうるさいことを言わなかった。約四万人の学生を擁する大隈大学は、何よりも自主性を重んじることを学風としていた。
 そしてこの特徴は、創設者の建学の精神を受け継ぎ、看板学部と称される政治経済学部の学生たちの日常に顕著に見られた。要するに、甘やかされていたのだ。

 一九七八年五月二十五日の午後一時ごろ、一人の若者が下宿先のある喜久井町から坂道を歩き、大学に近い馬場下町へ下りてきた。身長は一七五センチほど、ブルージーンズに水色のストライプの半袖シャツという服装が、いかにも初夏らしい。
 爽やかな季節だというのに、彼の整った顔立ちが不機嫌そうに歪んでいるのは、右手に捧げ持ったバッグの中身が重すぎるからなのだろうか。いや、問題はこんな物を持ち歩いて売りに出かけなくてはならなくなった原因にあった。昨日、彼は麻雀で思わぬ大敗を喫してしまったのである。
 同じ語学クラスの麻雀仲間と、いつもの雀荘で卓を囲んだのだが、留美のやつにいきなり狙い撃ちされるとは思わなかった。

「ロン。イッツードラドラ。満貫」
「ロン。タンピンサンショクドラドラ。跳満」
 序盤から派手に上がり続ける留美の勢いをやりすごそうと、毛利、石原の二人は徹底防戦に努めたが、すでに殴られ続けて頭に血が上ってしまっている英也は、弱い牌勢のまま反撃に出ようとした。そして
「ロン。スーアンコタンキ。ダブル役満。親だから九万六千点ね」
 煙草を口から灰皿に移した留美が、ミニスカートからすらりと伸びた脚を組み替えて、ゆっくりと牌を倒しながらそう告げた。
 たちまち英也はトリプルドボンになり、最初の半荘から地獄のどん底に突き落とされた。
 続く半荘も、その次の半荘も、留美は鬼のように上がり続けた。ひとたび親の座に着くや満貫、跳満、倍満、三倍満、役満と、次々と巨大化する手をツモり続け、他の三人みんなをドボンにした。
 せめて一矢報いようと、英也が最後の半荘でようやく千点をツモって迎えた親の座も、すぐさま留美に流され、その後も軽く巧妙に打ちまわされてゲームセット。留美の記録的な大勝利となったのだ。
 千点五十円の安レートとはいえ、英也は一万五千円以上、毛利も石原もそれぞれ五千円以上負けた。尻ポケットから取りだした財布を開いて中を覗くと、一万円札が二枚と千円札が一枚、あとは小銭だ。家庭教師のバイト先から一昨日もらったばかりの給料二万円を留美に差しだすと
「どーも。端数はサービスしとくわね」
 と言いながら五千円札を返してきた。これで英也の全財産は六千数百円となった。どうしよう……仕送りの日まであと半月近くもあるのに……。

 という経緯があったので、当座の生活資金を得るために四畳半の下宿部屋にある品々の中から英也が選んだのが、本棚に並んだ分厚い二冊となったわけだ。
「サムエルソン 経済学 原書第九版」。上下巻合わせて千五百ページを超える大作。去年入学したばかりのとき、社会科学系の一般教育科目の中から選んだ経済学の講義で、使用する教科書に指定されていたのがこの本だ。上巻二千三百円、下巻二千七百円。自慢じゃないが勉強が嫌いなので、書きこみも折りこみもなく新品同様だ。古本屋に持っていけばきっと四千円くらいで売れるだろう。
 バッグを持ち馬場下町の路上で立ち止まった英也は、しばしの間、思案した。大隈大の商店街にも古本屋はたくさんある。しかも、歩いてすぐの距離だ。だが、こんな屈辱的な売却を母校の近くで行なうことには抵抗があった。大学のそばの雀荘で「負けました」と金を払い、大学のそばの古本屋で「買ってください」と頭を下げる。いくら生活のためとはいえ、そんな恥ずかしいことができるかよ。
 やっぱ、神田神保町だな。電車代はかかるけど、古本のメッカといえば神保町だ。店舗数もここより多いし、高値で買い取ってくれる店が必ずあるはずだ。よし、行こう。
 そう心に決めると、道路を少し歩いたのち、地下鉄東西線の駅へと続く階段を英也は下りていった。

 空いた電車の座席にバッグを置き、その隣に腰を下ろした英也。先ほどまでの不機嫌な表情は、いつの間にか哀しそうな顔つきに変わっている。
 今日は二十歳の誕生日なのだ。それなのに祝ってくれる人もいないばかりか、生活費を得るためにこんなことをしなくちゃならないなんて。
 麻雀に負けたのは自業自得だけど、まさかあんなに大負けするなんて。留美があんなに強くなっていただなんて。
 
 上条留美。五十名で編成された語学クラス「二年七組」に、女子はたったの二人。もう一人の白井文子が授業を一日たりとも休んだことのない優等生であるのと対照的に、留美は一日の大半を雀荘で過ごしている。しかし文子は帝都大の文科二類を落ちて大隈大の政経にやってきたが、留美は合格した文科一類を蹴ってきた。どうしてそんなもったいないことをしたのかと問われるたびに
「私の夢はプロの雀士になることなの。大学麻雀最強の学校といえば、やっぱり大隈大でしょ」
 と、帝都大の文一を滑り止めにした理由を、こともなげに答えるのだった。
 驚くべきなのは、それだけではない。留美の父親の職業は、大学教授。それも大隈大の政経学部長なのだ。授業にはちっとも出ないのに、留美が経済学の知識を豊富に持っているのは、幼い頃から父君の薫陶を受けて育ったからに違いないと、みんなは思っている。
 留美を語るうえで欠かせないことが、もうひとつある。頭脳明晰だけでなく、容姿端麗でもあることだ。一六五センチ近い、細身の長身。腰のあたりまで届きそうな黒髪から覗くほっそりとした顔は、鼻筋がすっきりと通り、口元はきりっと締まっている。やや切れ長の目が、いかにも利発そうだ。
 清楚な顔立ちと好対照を見せているのは、大胆なファッションだ。形の良い長い脚を惜しげもなく露出するミニスカート姿。そう、上条留美といえば、大隈大で知らぬ者はない「ミニスカ雀姫(じゃんき)」。ただでさえ女子学生の少ない雀荘で、両脚をエロチックに組んだり組み替えたりしながら牌を操るのだから、つねに注目の的だ。スケベ根性を出した男がわざと点棒を床に落とし、拾おうと雀卓の下に顔を突っこんでスカートの中を覗き見しようとしても、留美は平然と煙草を吸っている。なぜなら、そのような愚挙に及ぶ者はその時点で闘牌に集中力を欠いていることを明かしており、いずれ自分の餌食となり敗者に転落することが目に見えているからだ。
 一年生の頃は、勝ったり負けたりのいい勝負だったのに……。電車の座席で英也は思った。それが、あっという間に雀力に差がついてしまった。噂によると春休みの二か月間、留美は高田馬場や新宿のフリー雀荘に足しげく通って、強者たちを相手に腕を磨いたらしい。それらの中にはプロの打ち手もいたそうで、ずいぶん痛い目にも遭ったという。その体験を
「五十万円くらい負けたけど、その負けは百万円くらいの価値があった」
 と、さらりと言ってのけたというのだから、やはり只者ではない。卒業するまでに全国学生麻雀大王戦で優勝することが自分の目標だと留美は公言しているが、彼女ならきっと栄冠をつかむに違いないと、英也は思う。いずれにしても、あのミニスカ雀姫と卓を囲むのは、もう願い下げだが。
 そうするうちにも電車は九段下駅に着き、バッグを手にした英也は空いたドアからホームに降り立った。
 階段を上って路上に出ると、大通りを英也は歩き始めた。数分もすると古書店がいくつか見え始め、さらに数分進むと古書店街の中心地に到着した。
 通りの両脇に、たくさんの店が並んでいる。どこにしようか……。店先にうずたかく本を積み重ねた古本屋の一軒一軒を覗きこみながら歩いていると、「経済学書専門取扱・ 古井書店」という看板を掲げた、比較的大きな店に行きあたった。経済の本の専門店か、なかなか良さそうだな。よし、ここに決めた。即断すると、ドアを押し開け、英也は店の中に入っていった。
 いちばん奥まで至ると、店主らしき人物が椅子に座っていた。頭の禿げあがった、六十くらいの男だ。眼鏡をかけて新聞を読んでいる。そこへ英也は声をかけた。
「買ってもらいたい本があるので、見てもらえますか」
 すると店主は、じろっと英也の顔を見たのち、無言のまま机の上を二回叩いて、ここに本を置けという意思表示をした。そこで、バッグの中から二冊の本を取りだして机の上に置き
「新品同様です」
 と英也が言うと、店主は上巻、下巻の順に本を箱から抜きだし、パラパラとめくったあと、ダミ声で意外な言葉を吐いた。
「二冊で五百円」
 それを聞いた瞬間、店主が冗談を言っているのではないかと英也は思った。そこで、もういちど話しかけてみた。
「上巻が二千三百円、下巻が二千七百円、合計五千円で去年の四月の初めに購入したものです。書きこみも折りこみもなく、使用感もまったくありませんから、四千円くらいの価値はあるのではないでしょうか」
 すると店主の返答は
「上巻が二百三十円、下巻が二百七十円、合計五百円」
 というものだった。
「冗談を言わないでくださいよ! 何ですか、その五百円という値付けは!」
 怒りから英也が声を荒らげると
「どうやら、ご存じないみたいだな」
 と、店主がダミ声で話し始めた。
「この二冊は原書第九版。だが、新たに改訂された原書第十版がすでに発売中なんだよ。上巻は去年の四月の末から、下巻も十一月の下旬から日本全国の書店に並んでいる。サムエルソンのこの本は一九四八年の刊行以来、ほぼ三年に一度のペースで改訂されているんだ。もちろん、それに合わせて日本語版のほうもね。だからこの第九版には、もう値打ちがないってわけ」
 思わぬ現実を突きつけられ、英也は呆然となった。そして、しばしの沈黙ののち、机の上の二冊の本をバッグの中に戻し、店を出ようとした。すると
「どこの店に持っていっても、同じことを言われると思うよ」
 と、店主の声。
 その声を振りきるように店を出て、路上に立った英也は、これからどうしたらいいのかすっかり分からなくなり、あてもなく通りを歩き始めた。
 すると、先ほどの店のドアが開き、彼を追いかけてくる者がいる。そして背後から近づくと
「その二冊の本、合計千円で私に売ってください!」
 と、大きな声を発した。
 英也が振り向くと、そこには女子学生と思しき人物が立っていた。その独特な姿かたちに、彼は目を丸くした。
 オーバーオールに身をつつみ、髪はショートカットというよりは刈り上げと呼んだほうが適切と思われるほど短く、ごつい黒縁の眼鏡をかけている。
 そして肩にかけた大きな赤いバッグを下ろすと、その中から一冊の本を取りだし、英也に向かってこう言った。
「千円のほかに、サービスとしてこの本をお付けします。『よくわかる家政学』という本です。経済学は『ECONOMICS』、家政学は『HOME ECONOMICS』。似てるでしょ。似ている本をお互いバッグに入れて持ち歩いているというのも、何かのご縁。ぜひ、千円で本をお譲りください!」
 一方的にまくしたてられ、英也は呆気にとられた。通行人たちが何事かと視線を注いでくるし、このままではマズいと思った彼は、オーバーオールの娘に言った。
「とりあえず、お茶でも飲みませんか」

 通りに面した喫茶店に入り、英也はアイスコーヒーを、娘はアイスミルクティーを注文した。
「申し遅れました。私、山内実花子といいます。晶立女子大学家政学部の一年生です」
 向かい合って座った娘が、そう挨拶し、お辞儀した。
「僕は、瀬川英也。大隈大学政治経済学部の二年生です」
 と挨拶を返すと
「えっ!」
 実花子が驚いたような声を出した。
「福沢大と並び称される、私学の雄! しかも最高偏差値を誇る政経学部は帝都大よりも難しいって、よく聞きます。瀬川さん、すごーい!」
「いやー。国立大とは受験科目数が違うから、そんなことはないと思うんだけど。でも、帝都大の文一を蹴ってウチに来たやつはいるけどね」
「ほんとですか! やっぱり大隈大の政経はすごいなあ!」
「で、そいつに麻雀でこっぴどく負かされて、生活費がなくなり、こうして重い本を二冊ぶら下げて神保町までやってきた間抜けな男が、この僕ってわけ。今日は二十歳の誕生日なのに、情けないったらありゃしない」
「えっ、今日、お誕生日なんですか。おめでとうございます! じゃあ、ささやかですけど、プレゼント差しあげます」
「えっ、プレゼント?」
「ここの代金、私に払わせてください。つまりアイスコーヒーがお誕生日のプレゼント」
「あ、ありがとう……」 
 礼を述べながら、英也は心が和むのを覚えた。生活費の獲得に失敗した落胆も忘れて、自分が明るさを取り戻していくのを感じた。バッグから本を二冊取りだすと、それを差しだしながら、彼は言った。
「千円で買ってください。ただし家政学の本は要りません。まだ一年生だし、授業に使うこともあるでしょ」
「やったーっ!」
 分厚い上下巻を受けとると、うれしそうな顔で実花子は箱をじっと見つめ
「八年前にノーベル経済学賞に輝いた、ポール・アンソニー・サムエルソン。その天才経済学者が書いた世界的なベストセラーを、今こうして手にできるなんて……」
「そんなに欲しかったの? その本が」
「ええ。ずっと欲しかったんです。でも高くて買えなかったの、実家からの仕送りが少ないので」
「最新の第十版じゃないけど、いいの?」
「ええ。細かいことは気にしないタチなんです、私」
 英也の問いに、実花子がそう答えた。そして
「やったにゃ、サムエルソンだにゃ」
 と、不思議な言葉を発した。
「にゃ?」
「あ、失礼しました。これは猫語といって、秋田の県北にある私の故郷の方言なんです。うれしいと、ついつい出てしまうんですよ」
 そう話しながら、本を箱から抜きだした実花子は上下巻をめくっていたが、やがて本から顔を上げると、英也を見つめてこう言った。
「まったくの新品ですね、二冊とも。瀬川さん、勉強しなかったんですか、この本で」
 呆れたというふうな実花子の表情と口調に、ややどぎまぎしながら英也は応じた。
「あの、僕、勉強が嫌いなの。大隈大の政経に入ったのも、ほかの学部にくらべて勉強をしなくても済むから。進級試験も卒論もないし、四年間で百六十二単位を取りさえすれば卒業させてもらえるしね」
「百六十二単位? そんなに!」
「数は多いけど、大したことはないんだ。政経学部には、ユニークな先生が多くてね。たとえば、試験のたびに採点をするの大変でしょ、学生数が多いから。なので、答案用紙をまとめて持って、階段の上から放り投げる。そして遠くまで飛んだのを『優』、途中まで飛んだのを『良』、あまり飛ばなかったのを『可』とする。ただし『不可』はなしというルールだから、みんな単位をもらえるわけ。勉強家の学生には気の毒だけどね」
「私、大隈大の政経を見る目が変わってきたかもしれない。卒論がないって本当ですか?」
「三年生になるとゼミを受けられるけど、学生の数に対して教授の人数が少なすぎるの、政経学部は。なのでゼミ生は全体の半分くらいしかいない。そうして四年生になって書くのが、ゼミ論。これが卒論のようなものだね。ただしゼミを受けるかどうかは学生の自由だから、卒論がないという言い方ができるわけ」
「ふうん。あとひとつ訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
「ある週刊誌の記事で、大隈大の政経は、学生一流、施設は二流、教授は三流って読んだことがあるんですけど、それって本当なんですか?」
「それは内緒。口が裂けても言えません」
 と英也が真顔で答えたので、実花子は
「あははははっ」
 と笑いだしてしまった。それから腕時計を見ると
「あ、もうこんな時間。次の授業があるので、そろそろ失礼します。私の学校、すぐ近くなんです。サムエルソンの本、どうもありがとうございました。一生懸命、勉強します」
 そう言いながら本をバッグに入れると椅子から立ち上がり、伝票を手に取った。英也も席を立ち、いっしょに店を出た。
「じゃあね」
 英也が手を振ると、実花子も同じ動作で応じた。
「へば」
「へば?」
「あ、また秋田弁が。翻訳します。じゃあね」
 そのやりとりを最後に、にこやかに二人は別れた。


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