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小説「サムエルソンと居酒屋で」第19話

 翌週の月曜日、学生ラウンジのテーブルを挟んで英也と向かい合いに座っているのは、留美だった。
「夏休みは、大分まで来てくれてありがとう。それと全国学生麻雀大王戦での優勝、あらためておめでとう。こないだの金曜日、『ピーエム・ジューイチ』の麻雀教室を観てたら、留美が出演して打ってるんだもん、驚いちゃったよ。もはや時代の寵児だね」
 英也の言葉に
「どうもありがとう。あのテレビ番組に出るのは、麻雀を始めたころからの夢だったの。トップ・プロの先生方とお話しすることができて、とても勉強になったわ」
 と留美が応じた。
「ところで、きょうの話ってなあに?」
 その質問に、煙草に火をつけ、一服してから留美は答えた。
「実花子ちゃんのことなの」
 それを聞き、英也の表情が変わったが、留美は話し続けた。
「昨日の午後、彼女から電話があってさ。英也さんとはもうダメかもしれないって、泣きながら言うのよ。それでね、うちへ呼んで話を聞いたの、先々週の土曜日の出来事から。彼女によると、その後なんど電話をしても出てくれないので、外出禁止が解けてすぐ下宿に行き玄関のドアをノックしたら、大家さんが出てきて、瀬川さんなら木曜日に引っ越しました。引っ越し先は分かりませんって告げられたって」
「そう。僕は転居したんだ。あの女から逃れるためにね」
「あの女って……。ねえ瀬川くん、実花子ちゃんはあなたの婚約者だし結婚を目前にしていたって聞いたけど、彼女のお父さんがあなたにしたのは、それがご破算になるほど酷いことだったの? 悪いのはお父さんで、実花子ちゃんに罪はないんじゃないの?」
 その発言に、間を置いてから、英也は言葉を返した。
「あのさ、留美。失礼を承知で訊くけど、レイプされそうになったことはある?」
「ないけど……」
「僕は、まさに犯される寸前までいった。あのときの恐怖は筆舌に尽くしがたい。今でも時おり記憶がよみがえり、身の毛がよだつ思いをする。君の言うように、実花子に罪はないかもしれない。だけど関係はあるんだ。なぜなら、彼女は僕に襲いかかってきた男の娘だから。実花子という名前を耳にしただけで、僕はあの男のことを思いだし、恐怖に苛まれる。だから僕は彼女との、いっさいの関係を断ち切ったんだ」
 英也の話を聞きながら、留美は煙草をくゆらせている。それを灰皿でもみ消すと、また口を開いた。
「その恐怖というのは、時間とともに薄れていくものなのかしら?」
 留美の質問に、しばらく思案したのち、英也は答えた。
「それは分からない。これから十年、二十年、三十年、四十年……長い歳月が辛い記憶を消し去ってくれるものなのかどうかは、まだ二十年しか生きたことのない自分には分からないよ。ただ言えることは、僕の負った心の傷は、一年や二年で癒えるようなものではないということだ」
「どうもありがとう」
 そう言うと留美は立ち上がり
「酷い目に遭ったばかりなのに、いろいろと訊いてごめんなさいね。ところでサムエルソンの勉強会を今週の金曜日から再開しようと思ってるんだけど、瀬川くんは参加する?」
 と言葉を継いだ。
「僕はもう中退だ。彼女が続けるというのなら、悪いけど授業のあと阿佐ヶ谷駅からタクシーで寮まで送ってあげてくれないか」
 英也の求めに頷くと、留美はラウンジから出ていった。

 夕方になると、東西線、総武線、それにバスを乗り継ぎ、英也は家庭教師のバイト先へ向かった。先週の月曜日に教えに行ったのが二学期の最初で、どうやら一学期の通知表の内容がとても良かったらしく、六年生になる来年もどうぞよろしくとのありがたい依頼を母親から受けた。さらに引っ越しを終えたあとの木曜日の訪問時には、両親が亡くなったこと、それに伴い下宿先も変わったことを話し、新しい住所と電話番号を伝えた。
 教え子の家に着き、算数と理科を一時間ずつ教えたのち、食事の時間になると、ビーフステーキと野菜サラダとライスのほかにビールまで付いてきた。家族はもう食べ終わっているので遠慮なく牛肉をいただこうとナイフとフォークを手にしたところ、母親が現れ
「さ、先生」
 と言ってビールを注いでくれた。グラスの半分くらいまで飲むと、さらに注ぎながら
「ご両親を亡くしてお寂しいでしょう。先生はガールフレンドはいらっしゃるの?」
 と訊いてきた。実花子と別れることを決めたばかりのときにこんな質問をと思ったが
「いやあ、いませんよ。僕みたいな田舎者には」
 と、軽く受け流した。ところが相手は
「あら、そう。でも欲しいでしょ、ガールフレンド」
 と、なおも訊いてくる。仕方がないので
「ええ、まあ。いい相手がいれば」
 と返事をした。するとこんどは
「そうよねえ、ほしいわよねえ。実はね、先生。私の姪で、賢妻女子大に通っている子がいるの。まだ一年生で、ボーイフレンド募集中なんですって。こないだ先生の話をしたら『えっ大隈大の政経?』って驚いてたけど、もしも良かったらこんど会ってみない?」
 と具体的な提案をされた。せっかく来年も雇ってもらえることになったのに、断りでもしたら機嫌を損ねるに違いない。そう思った英也は、やむを得ず
「ええ、ぜひ」
 と答えてしまった。
 すると母親は、英也が食事をしているテーブルに同じくビーフステーキ、野菜サラダ、ライス、グラスを運んで並べたのち、奥の部屋へ入っていった。そして若い女性を連れて戻ってくると、英也に向かって
「先生、姪の福井朱夏です。実はもう、うちに呼んでおいたんです」
 と話した。すっかり虚を衝かれた英也は、ナイフとフォークを持ったまま立ち上がり
「瀬川英也です。初めまして」
 と挨拶した。その姿がとても滑稽に映ったらしく、姪っ子は
「きゃははっ」
 と笑い、それから
「でも美男子」
 と言いながらテーブルに着いた。そして
「初めまして、福井朱夏です。中学高校時代は、陸上をやっていました。大学では、文学部で日本文学の勉強をしています。好きな食べ物はお肉、嫌いな食べ物はとくにありません。ひいきのプロ野球チームはヤクルトスワローズです」
 はきはきと自己紹介した。
「えっ! ヤクルトのファンなのっ?」
英也が声を上げると
「そう。だって自宅が信濃町にあるんだもの。神宮球場のすぐ近く。子どものころから家族で応援に行ってました。サンケイアトムズの時代から」
 と朱夏が応じた。
「ぼ、僕もアトムズ時代からのファン! 鉄腕アトムは強いのに、野球のアトムズは負けてばかり。でもそんな弱いところが愛おしいんだよね! そのヤクルトが、今季はいよいよ悲願の初優勝目前! 昨日の時点で二位巨人に三ゲーム差をつけて、マジック六!」
 英也が興奮気味に喋ると
「さっきまでラジオ聴いてたの。広島と接戦やってるわ。勝って減らして、マジック五!」
 大仰な口調でそう言い、朱夏がステーキにかぶりついた。その開けっぴろげな様子に、英也は好感を持った。
 この娘は、お世辞にも美人とは言えない。目はパッチリしているが、陸上をやっていただけあって顔はよく日焼けしており、色白の実花子とは対照的だ。身長も、百五十センチくらいか。シャツの上から見た限りでは、肉感的な体つきをしているふうでもない。
 でもそれは、美しすぎる実花子を基準にしているからだ。もう過去の存在となった女に、いったい、いつまで縛られ続けているんだ。心の中で己を叱った英也は、まだ朱夏のグラスが空なのに気づき、ビールを注いでやった。  すると彼女が一気に飲みほしたので、もういちど注ぎながら
「われらのスワローズの応援に行かない? 僕の予想だと、セリーグ制覇は十月二日ごろだと思うんだけど」
 と言った。すると朱夏が
「私の予想は、十月四日。でも、チケット買えるかなあ。絶対、超満員になるよね」
 と応じたので
「だいじょうぶ。大混雑は避けられないけど、外野席二枚くらいなら、なんとかなるさ」
 と英也。
 二人はそれから電話番号を交換しあい、食事が済んだらいっしょに帰ろうということになった。
 バスに乗り、総武線に乗り換えて、信濃町駅に到着。電車を降り、家まで送っていこうと歩き始めた英也の隣で、ラジオを聴いていた朱夏が大声を出した。
「やった! 五対四でヤクルトの勝ち! いよいよマジック五だよーっ!」


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