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小説「升田のごとく」・第18話

 年が明け、1月4日がやってきた。
 午前9時30分。新冨エージェンシーの大会議室に呼び集められた60名の制作スタッフの中に、増田耕造の姿があった。
 1か月ぶりの出社。耕造は緊張していた。
 それは久しぶりに職場の空気に触れたせいでもあったが、それ以上に運命の社内コンペを迎えて、身の引き締まる思いに包まれていたからだった。
 さらに、西川由木子の存在を、耕造は意識していた。5年前に別れた妻が、この集団のどこかにいる。自分を蹴落とそうとする、競争相手の一人として。だが彼は、あえて彼女の姿を探そうとはしなかった。勝負を前に、心を乱されなくなかったのだ。
 とにかく今日は、自信を持ってコンペに臨めばいい。耕造は、自分にそう言い聞かせた。モミガラ老人のおかげで、「新居一生」の使用を、升田家も快諾してくれたのだから。
 そのとき、ドアが開き、大浜強志が入室してきた。
 会議室の空気が、ピンと張りつめる。
 身長190センチ、体重120キロの巨体いっぱいに威厳を漲らせ、部屋の中央へ進み出た常務取締役制作本部長は、目の前に整列した部下たちの顔をゆっくりと見渡した後、おもむろに口を開いた。
「諸君。新年おめでとう、と言いたいところだが、おめでたい年になるかどうかは、諸君次第だ」
 耕造が1か月ぶりに聞く、大きくて野太い声。
「いよいよ3日後に迫った、帝国不動産のウォーターフロントプロジェクトに関する広告キャンペーン企画競争。これを是が非でも勝ち取らなければ我が社に未来のないことは、この場であらためて説明するまでもないだろう。30社の広告代理店によって競われるコンペティションに、我が社が提出するクリエイティブ企画案。これを決定する社内選考会を、予定通り、本日実施する。諸君が正月休みを返上し、有らん限りの能力を振りしぼった成果に、私は大いに期待を寄せている」
 60名が押し黙り、大浜の話に耳を傾けていると、再び会議室のドアが開いた。
 入ってきたのは、常務秘書の渡辺彩子。続いて、もう一人、中年の男。小柄なその男の顔を見たとき、耕造はアッと声を出しそうになった。
「諸君、ご紹介しよう」
 大浜が言った。
「西北大学経営学部教授の安野正明先生だ。先生は大学で企業コミュニケーション理論を研究されるかたわら、日本広告アカデミーの理事も務めていらっしゃる。広告に関する、たいへんな学識をお持ちの方だ。本日はお忙しい中を、社内コンペの審査委員としてお越しいただいた。諸君の作品に忌憚の無いご評言をいただこうと、お招きしたわけだ。先生、どうぞよろしくお願いいたします」
 教授が、部屋の中央へ進み出た。
「ただ今ご紹介にあずかりました、安野でございます。本日は、皆様方のクリエイティブワークの真髄に触れ、広告に携わる者としてたいへん有意義な時間を過ごさせていただけることを心より嬉しく思っております。微力ではございますが、御社のために精一杯、審査委員の大役を務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます」
 話の最後を締めくくったのは、秘書の渡辺彩子だった。
「本日のコンペのプレゼンテーションは、常務室において実施いたします。時間は、まず午前10時より正午まで。その後、1時間の昼食休憩をはさんで午後1時より再開し、午後5時に終了の予定です。プレゼンテーションの持ち時間は、お一人、5分間以内。順番は、お名前を50音順に内線電話でお呼びいたしますので、作品をお持ちの上ご来室ください。なお選考結果の発表は、本日午後7時より当会議室において行いますので、皆様には再度お集まりいただきます。皆様、速やかな進行にご協力ください」

 60名が制作本部のフロアに戻って間もなく、時計の針が10時を示した。
 耕造の席の左向こうで、相沢という名のディレクターが立ち上がり、大きな袋を抱えて常務室へ向かっていく。いよいよ、長い一日が始まったのだ。
 通常の年であれば、仕事始めの日は製作スタッフにはさしたる仕事もなく、正月気分の抜けきらぬまま、のんびりと時間が流れていく。営業の人員たちは朝一番から得意先への挨拶回りに忙殺されるのだが、それとは逆に制作者たちは、時おり挨拶に訪れるプロダクションの人々の相手をするくらいしか、特にこれといった用事もない。
 ところが、今年はまるで違う。50億円のアカウントを何とか獲得しようという大浜の野望を支えるために、60名の制作スタッフは平成16年と17年の区切りも判然とせぬまま働かされ、今こうして、息の詰まるような沈黙の時間の中に置かれているのだ。

 最初に呼ばれた相沢が、蒼白い顔をして戻ってきた。入れ替わりに、次の人間が立ち上がり、常務室へ向かっていく。
 自分が呼ばれるのは、何時頃になるのだろうか。壁の時計を眺めながら、耕造は思った。
 それと気になるのは、安野教授のことだ。黒豹に賭け将棋で負け、大金を奪い取られそうになったあの男が、まさに日本広告アカデミーの理事職に就くほどの人物だったとは。
 しかも、大浜に招聘され、今日のコンペの審査委員を務めることになっていたなんて、思いもしなかった。はたして、これが吉と出るのか、凶と出るのか。
 耕造は、唇の上に蓄えた髭を撫でさすった。

 時計の針が正午を指し、20人目のコンペティターが戻ってきた。午前の部が終わったのだ。耕造は昼食を取りに、エレベーターで1階へ降りた。
 受付カウンターの前を通り過ぎるとき、竹内知美と目が合った。耕造が生やした口髭を見て、彼女は驚いたような顔をし、それから口に手を当てて笑った。その無邪気な素振りが、耕造の心の緊張をほぐしてくれた。

 午後1時、プレゼンテーションが再開された。フロアに、緊張と沈黙が戻った。

 午後2時5分。制作本部フロアの遠くで、一人の人物が立ち上がった。グレーのスーツ。スカート姿から、女性であることだけは分かる。もしかすると、由木子だろうか。12年間、結婚生活をともにした女。いや、今は追憶に浸るときではない。耕造は、一瞬訪れた過去の思いを振り払った。

 午後3時15分。耕造の上司であるディレクターの樋口直彦の番が来た。作品ボードの入った袋を抱え、耕造の席の脇を通り過ぎていく。得意のゴマスリ戦法は、今日のコンペでも通用するのだろうか。

 そして、午後3時50分。ついに、耕造のデスクの上で内線電話が鳴った。
 いざ、出陣だ。

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