小説「サムエルソンと居酒屋で」第12話
六月最後の金曜日、午後五時を過ぎたころ。英也、実花子、留美の三人は、ほそぼその席に着き、ビールやウイスキーを飲んでいた。
「明日からもう七月ね。それぞれ大学の前期試験も近いことだし、サムエルソンの勉強会は今日で第一学期終了としましょうね。二人とも、夏休みはどうするの?」
留美の問いに
「私は故郷へ帰省です」
と実花子が答えた。
「僕は今のところ予定なし。家庭教師の仕事も夏休みに入るし、なにかバイトでもしようかなあ、デパートの屋上ビアガーデンとかで」
英也はそう言ったのち
「留美はどうするの?」
と訊いた。
「私はいよいよ全国学生麻雀大王戦に初参戦。まず関東地区予選が七月三十日に、それを勝ち抜くと、全国大会が八月の六日に行なわれるの。場所は、いずれも新宿区内の雀荘。絶対に予選を通過して決勝へ進み、栄冠を勝ちとるつもりよ」
そう話すと、彼女はウイスキーをひとくち啜った。
「頑張れよ。留美ならきっと優勝できるさ。新宿区内という地の利もあるし」
「そうよ、新宿区といえば大隈大、大隈大といえば上条留美」
英也と実花子の励ましに
「地の利で勝てるほど麻雀は甘くないのよ」
女雀士はピシャリと言い
「でもありがとう。友人のみんなが応援してくれていると思うと、とても心強いわ」
そう言葉を継いだ。
「よしっ。留美の優勝を祈念して、なにか食べよう。えーと、アジフライ二枚と肉じゃがください」
「私は日本酒の冷や、それと焼き明太子」
「私はウイスキーのお代わりとピーナッツ」
三人が注文すると
「まいど! アジフライ二枚と肉じゃが、日本酒の冷やと焼き明太子、それにウイスキーのオンザロック、ダブル、あとはピーナッツね!」
と、店主のいつもの声が弾けた。
やがて飲み物と料理が各自の前に運ばれると
「ほそぼそさんは、いつから夏休みなんですか?」
実花子が訊いた。
するとカウンターの向こうでいつも無口に働いている店主の女房が、実花子の顔を見てかすかに微笑みながら首を横に振り
「ほそぼそ経営は、まいにちコツコツが肝心。だからウチは年中無休。夏休みなんかありませんよ」
店主がそう答えた。
「たいへんだね、マスター。私、夏休みの間も麻雀の稽古の帰りにちょくちょく寄らせてもらうから、よろしくね」
留美の言葉に
「ありがとう! ミニスカ雀姫の留美ちゃん! 大会での大活躍をお祈りしてるからね!」
と、店主が笑顔で応じたそのとき、入口の戸をガラガラっと引き開けて、白髪頭の男が入ってきた。
「いらっしゃい! ワダ・トシハルさん! 本日は早いお越しで!」
その声を無視するように、彼はカウンターの後ろをすたすたと歩き、いちばん奥の席に腰を下ろした。そして
「ウォッカ。それとサラミ」
と注文し
「まいど! ウォッカとサラミね!」
と店主が大きく発声した。
「また来やがった」
と留美。
「きょうは、なにをやらかすつもりだろう」
と英也。
「せっかく一学期最後の勉強会なのに……」
と実花子。
「まあ、気にしないで、授業を始めましょ」
留美の言葉を合図に、二人はバッグからサムエルソンを取りだした。カウンターに置かれた実花子の本を手に取ると、留美はパラパラとめくりながら
「きょうは私から出題するね。夏休み前のサービスで、簡単なやつを。えーと、第九章の『討議のための例題』は……うん、これにしようか。二九五ページのいちばん下の問題。『子どもが増え、自動車が増えると、地方政府の支出と負債が増える。これを論評せよ』。はい、分かる人は手を上げて」
そう言うと
「はーい」
「はーい」
と、二人ともすばやく挙手をした。
どちらを指名しようかなと留美が迷っていると、カウンターの奥からワダの声が聞こえてきた。
「子どもが増えると保育園、幼稚園、学校など地方財政のなすべき事業が多くなる。自動車が増えると道路の整備、交通の安全対策、排出ガスへの対策など、これまた地方財政のやるべき事業が多くなる。小学生でも解けそうな問題だな」
「やめてよ! あなたはどうして私たちの授業の中に入ってくるの!」
留美が怒声を発すると
「閉まりのゆるいドアに寄りかかって家に入る者は不法侵入の汚名を受けることになるが、ゆるいドアにもある程度は罪があるのだ」
と、ワダ。
「なによ、それ。どうせまた、誰かの受け売りでしょ」
「またも、バレたか。ジョン・ケネス・ガルブレイスの名著『ゆたかな社会』の一節だ。彼とは大学の同僚でね」
「えっ、あなた、ハーバードで教えていたの?」
「うそ」
「なんなんだよ、こいつ、もー」
留美はすっかり呆れ果ててしまった。
すると、それまで二人のやりとりを聞いていた実花子が席を立ち、隣の英也の手を取って椅子から立ち上がらせると、その手を引きながらワダの座る席へと向かった。そして、こう言った。
「ねえ、ワダさん。このお店での振舞いはたとえメチャクチャでも、あなたは二歳のときにウォール街の株価大暴落の年月日を予言した方ですよね。その奇跡的な予知能力を見こんで、実はお願いがあるのです」
「願い? どんな?」
「私と彼は恋人どうしなんですけど、これから二人の未来がどうなっていくのか、それを予言していただきたいんです。厚かましいお願いで恐縮なんですけど……」
話を聞いていたワダは、ウォッカをひとくち飲むと、目を閉じて黙りこんだ。そうして数分が経つと、彼は目を開け、言葉を口にした。
「それぞれの生年月日を西暦で紙に書け。きょうの年月日も西暦で書け」
それを聞くと実花子は席に戻り、バッグの中からノートとボールペンを取りだして再びやってきた。そして
「一九五八年五月二十五日、一九五九年七月二十八日、一九七八年六月三〇日」
と書き、ノートからちぎってワダに手渡した。
紙を受けとると、ワダは深呼吸を始めた。最初は小さく、しだいに大きく、やがて最大限まで息を吸いこむと、それを吐きだしながら彼は一気に言葉の放出を始めた。
「いち・きゅう・ご・はち・ご・にじゅうご・いち・きゅう・ご・きゅう・しち・にじゅうはち・いち・きゅう・しち・はち・ろく・さんじゅう」
「いち・きゅう・ご・はち・ご・にじゅうご・いち・きゅう・ご・きゅう・しち・にじゅうはち・いち・きゅう・しち・はち・ろく・さんじゅう」
「いち・きゅう・ご・はち・ご・にじゅうご・いち・きゅう・ご・きゅう・しち・にじゅうはち・いち・きゅう・しち・はち・ろく・さんじゅう」
同じ言葉を三度繰り返して発したとき、突然店の明かりが消えた。暗闇の中で客たちが「停電だ!」と騒ぎ始め、あわてた店主が懐中電灯を手に、落ちたブレーカーを上げた。
明かりが点いたとき、床の上にワダが倒れているのを見つけて、再び客たちが騒ぎ始めた。「死んでるぞ!」の声に、店主が飛んできて、うつ伏せに倒れたワダに顔を近づけた。すると、どうだろう。ワダの両手両足にだんだん力がこもり、四つん這いの姿勢になり、やがてふらふらと立ち上がった。 そして実花子にノートとボールペンを要求し、それらを受けとると、次のようなフレーズを書いた。
「ビンボー・シンボー・ビリーバボー」