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将棋小説「三と三」・第24話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 決戦の朝がきた。
中村邸の母屋にある広い和室に、将棋盤、駒箱、駒台が置かれ、それらを挟んで座布団と脇息が差し向かいに並べられている。
 障子を開け放した窓からは、内庭が見え、それを背にして据えられた机の席には、記録係の本間一雄四段が着いている。
 そこへ、まず幸三が入室し、下座に着いた。数分遅れて、木村が現れ、床の間を背にして着座した。戦時態勢を敷いている将棋界だが、重要対局とあって、今日ばかりは両者とも和服の正装で臨んでいる。
 離れ屋にある大広間には、対局中継用の鉄製の大盤が設置され、磁石の付いた駒が四十枚、すでに両陣に並べられている。
 それを前にして座っているのは、大成会大阪支部の関係者たち、新聞社の記者たち、そして多くの観客たち。すでに満室になっている広間には、阪田と谷ヶ崎の姿もあった。

 対局室。定刻の九時となって、本間四段が口を開いた。
「それでは升田六段の先手で対局を始めてください。持ち時間は、各十時間。それを使い切りますと、一手六十秒未満で指していただきます。では、よろしくお願いいたします」
 礼を交わしたのち、幸三、ビシッと7六歩、角道を開けた。続いて木村、バシッと8四歩、飛車先の歩を突いた。ここで幸三、7六の歩を、さらに前進させて、7五歩。
 その手を見て、木村の動きが止まった。なぜならば、それは余りにも有名な、奇襲戦法の出だしに他ならなかったからだ。金縁眼鏡の奥から、幸三を睨みつける木村の目。そこには、明らかに怒りの炎が燃えている。
 
 大盤中継室では、対局室から送られてくる両者の指し手の情報を、そのつど若手の棋士たちが駒を動かして盤上に再現している。7六歩。8四歩。7五歩! その手を見て「おおーっ」と、どよめきが起こった。たったの三手で、この将棋、ケンカ将棋と相成った。
「やりよった」
 阪田が、嬉しそうな声を出した。
「木村名人、定めしお怒りのことですやろな。ワハハ」
 谷ヶ崎が、楽しそうに言った。

 対局室。木村の怒りは、その駒音に表れた。四手目、バッシーンと激しく盤面を叩いて、8五歩。それに対して、幸三、素知らぬ顔で静かに7七角。木村、またもや駒音激しく、ビッシーンと7二金。幸三、ここで7八飛と飛車を転回し、ついに作戦を明示した。
 それを見て、
「名人を相手に石田とは……。潰してやる……潰してやらねば気が済まぬ……」
 低く呟きながら、木村、8三金から8四金と、玉を囲いもせずに攻撃の金を繰り出してきた。
 それは百も承知と言わんばかりに、幸三、9六歩から8八角と、相手の金の進出を妨げる。
 木村、6二に右の銀を上がったのち、五筋の歩を突いて左の銀を4二、5三と繰り出し、3一に角を引いて、憎たらしい7五の歩をむしり取ってやるぞ、との気迫。
 それも先刻お見通しですよと、幸三、左の銀を6八、6七、7六まで速やかに動かし、狙われた7五の歩をがっちりと守った。さらに6五の桝目まで歩を伸ばし、自陣の角筋を通すとともに、相手の左銀の進出を阻んだ。
 いまだに怒りの治まらない木村、それでも潰してくれようぞと、6四歩。相手が伸ばしたばかりの歩に、自陣の歩を突き当てた。
 幸三、涼しい顔で、4八玉。居玉のままの相手陣より、一足早く玉を安全地帯に移そうという一手。そして相手が6三へ右銀を進めるのを見て、ようやく攻撃の主軸を担う飛車を、6八の桝目へ転回した。
 木村、先ほどぶつけた歩で、相手の歩を取って、6五歩。
 幸三、それを飛車で取り返す。6五の桝目へ、大駒が躍り出た。
 木村、その忌々しい飛車に、6四銀と左の銀をぶち当てた。
 幸三、ひらりと飛車を逃がした先は、2五の桝目。
 木村、このままでは飛車に成りこまれてしまうので、やむなく、それを防いで左の金を3二に上がった。
 幸三、自陣の角を9七に遣って、相手の銀の進出を食い止める。そして6五に歩を打って木村の銀を5三へ引き下がらさせたのち、悠々と角を元の8八の桝目へ戻した。
 ここに至って木村は、一気に勝負をつけてやろうとの、己が闘志の空振りに終わったことを認めざるを得なくなった。そこで4一玉と渋々、玉の囲いに移ったが、金銀三枚を攻めの位置に配しているために、守りの駒は左の金の一枚のみと、甚だ心もとない。せめて玉の懐を広げようと、2五歩および3五歩と位を張ったが、改めて自陣を見渡すと、形が左右に伸びきってしまっている。
 それに対し幸三は、玉を2八まで移動させ、片美濃囲いに納めたのち、右辺にいた飛車を攻めの要所の6六へ転回し、さらに左の金を5八、4七と玉の守りに付けて、金銀三枚の高美濃囲いに発展させた。木村陣とは対照的に、攻めの駒たち、守りの駒たちの配分が実に良い。
 ケンカ将棋の急戦調から、じっくりとした持久戦調へ、今や局勢は様変わりした。そうするうちにも記録係の本間四段が、昼食休憩時刻の正午が訪れたことを告げた。

 両対局者は食堂へ移動し、離れ屋の大盤中継室では弁当とお茶が全員に配られた。
 食事をしながら、谷ヶ崎が言った。
「それにしても升田君の飛車の動きは、自由自在。まるで牛若丸のような身のこなしでんな」
 お茶をひと啜りして、阪田が応じた。
「それに引き替え、弁慶の大薙刀には、金銀が三つもくっついて、重うて重うて振れやせん。石田に出て挑発したら、まんまと木村が乗りよった。マスやん、見事な作戦勝ちだっせ」
「急戦にも持久戦にも対応できるのが升田式石田流やと、升田君、こないだ言うてましたけど、その言葉の通りの展開になってきましたなあ。先生、この将棋、これからどないに進んでいくと思いはりまっか?」
 谷ヶ崎の問いに、
「木村は、伸びきってしもた陣形をまとめるのに、えらい苦労するやろな。その途中、思わぬ隙を作るかもしれへん。もしもそうなって、そこへ付けこむことがでけたら、マスやん、一気に優勢になりまっせ」
 阪田はそう答えた。

 午後一時。両者が対局室に戻り、戦いが再開された。
 木村、3四に金を上げ、3三に桂馬を跳ね、2三玉と上がった。そしてこの中段玉の構えから、7四歩突きと、飛車先で停滞していた金の活用を図った。
 幸三、6六にいた飛車を6八へ引き、代わりに6六の桝目へ角を跳ねた。続いて6八の飛車を7八に転回し、相手の7筋での動きに備えた。
 木村、玉の守りを固めようと、5三にいた攻めの銀を4二の桝目へ引いた。
 この手が問題だった。なぜならば、大盤中継室の阪田も指摘したように、自陣に思わぬ隙を作ってしまったからである。
 幸三、好機を見逃さず、3六歩と突いた。
 木村、その手を見て長考に沈んだ。突かれた歩を取ろうものなら相手に7四歩と、一歩を入手され、それで3五歩と、金の頭を叩かれる。その歩を金で取ると、4四の歩を取りながら角を跳ね出されて、金取りと角成りが受からないから、いっぺんに負けになる。
 苦慮ののち、木村の指した手は、4三銀。先ほど4二へ引いた銀を、一桝前進させ、4四の歩を守ったのだ。辛い辛抱。
 幸三、すかさず3五歩と取りこむ。相手が同じく金と、その歩を取ると、間髪を容れず3六歩と金の頭に打った。仕方なく3四の桝目へ相手の金が後退するのを見て、3七の桝目へ桂馬を跳ねた。
 この数手のやり取りで、幸三は、はっきりと優勢になった。相手が手間をかけて築いた玉頭の厚みを、たやすく崩し、攻めの大きな拠点を作ったうえに、桂馬まで攻守に活用できるようになったからである。
 劣勢に陥った木村は、このままではジリ貧と見て、6筋から打って出た。6三にいた銀を5二へ引き、8二の桝目で眠っていた飛車を6二へ転回。3一にいる角の筋を活かして7五歩と取りこむと、相手が同じく銀と応じるのを見て、6五の桝目へ飛車をさばいた。
 この瞬間、互いの飛車、角、金、銀が、至近距離で交錯したが、幸三の次の手が、強気の一着だった。相手の飛車に当てて、7七の桝目へ桂馬を跳ね、飛角金銀の総交換、やれるものならやってみろと迫ったのである。勝負に出たとはいえ、ここで相手に飛車を渡しては、守りの薄い自分の玉は、あっという間に寄せられてしまう。やむを得ず、木村は飛車を自陣深く、6一の桝目へ引いた。
 いつの間にか陽は落ちて、対局室の障子は閉められ、電燈の明かりが盤面を照らしている。
 ここで幸三、しっかりと読んだのち、6四の桝目へ歩を打った。相手の飛車と角の利きを遮断する、値千金の歩。己の勝勢を相手に宣告する歩だ。

 大盤中継室の阪田が、おもむろに口を開いた。
「これでマスやんの必勝や」
「えっ、優勢なのは分かるけど、もう必勝だすか。これからどないに進んでいくんでっか?」
 谷ヶ崎が問うと、阪田はゆっくりと答えた。
「木村の次の手は、銀を取る7五金。マスやんが同じく角と、金を取ったら、木村は1五歩と、端にちょっかい出してくるやろな。ほかにええ手もないさかいに。で、マスやん、同じく歩。木村、攻め駒の桂馬を手に入れたいので、7六歩と打つ。マスやん、そうはさせじと、8五桂と逃げる。木村、端の香車を吊り上げる、1六歩。マスやん、同じく香車と、強く応じる。木村、なおも桂馬をくれろと、8四歩。マスやん、同じく角と応じる。木村、こんどは飛車にちょっかい出して、6七銀。マスやん、7九飛と逃げる。木村、端とからめて挟み撃ちやと、4五歩。マスやん、それには構わず、いよいよ決めに出る、飛車取りの6二金。木村、もう逃げてられへんと、角取りの8三歩。マスやん、6一金。木村、8四歩。それぞれ飛車と角を取り合ったところで、マスやん、自陣で遊んでる飛車を使おうと、6九飛、銀取りや。木村、銀はやらんと7七歩成」
 大盤中継室の観客たちが、いつの間にか阪田の周りに集まって、棋神の解説に耳を傾けている。
 一息ついて、阪田はまた喋り始めた。
「さてさて、マスやん、最後の仕上げや。まず6三歩成と、銀取りに、と金を作る。木村、仕方なく、同じく銀。そこで、必殺の4一飛。角と銀の両取りやから、木村、3二玉と引いて受けるほかあれへん。ここで3一飛成と、ぶった切って、角を取る。木村、同じく玉の一手。トドメは、はい、皆はんもうお分かりでっしゃろ。そうや、5三歩成や。銀取りに、と金がでけて、持ち駒に、角。質駒に、6七の銀もある。早い話が、木村名人、もう受け無しで、マスやんの勝ちだっせ」
 解説を終えた阪田に、観客たちから大きな拍手が送られた。

 対局室では、阪田の予想した通りに、局面が動いていた。
勝利に向かって6三歩成を指そうとしたそのとき、幸三の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
 これで自分も八段だ。若子も、きっと喜んでくれるだろう。その思いが、ふと、口をついて出た。
「この将棋、できれば東京で指したかった。若子さんに見てもらうために……」
 それを聞いた木村が、幸三の顔を見上げて、こう言った。
「若子なら嫁に行ったよ。一昨年だ。残念だったねー」
 突然、頭の中が真っ白になった。空白の脳裏に、ヨメニイッタヨメニイッタヨメニイッタの黒い文字列が急激に溢れ返り、幸三は何が何だか分からなくなった。
 訳の分からなくなった頭で指した一手は、予定の6三歩成ではなく、2一飛。すかさず木村に2二角と打たれ、飛車が捕獲の危機に陥った。それを救い出すために、攻めの拠点の歩を成り捨てるほかはなく、幸三の寄せは頓挫してしまった。
 まさかの大失着だった。
よもやの大逆転を食らった。
 もはや勝ち目のなくなった将棋を指し続け、百五十四手までにて幸三は投了した。
 八段の夢が消えた。


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