小説「サムエルソンと居酒屋で」第3話
翌日の午後。
「話があるの」
と言って、毛利、石原、そして英也の三人を学生ラウンジへ誘った留美は、隅のボックス席にみんなを座らせると、頭を深々と下げたのち、小さな声を絞りだした。
「ごめんなさい。こないだの麻雀、実は私、イカサマをしたの……」
「イカサマあー?」
思わぬ告白に、三人そろって驚きの声を発すると
「ほんとうにごめんなさい。最初は一回だけのつもりだったの。そしたら自分でもびっくりするほど上手くいったので、ついつい二回、三回と……」
ひざの上に両手を組み、下を向いたまま留美は話した。
「いくらクラスメートの仲とはいえ、麻雀でイカサマはないだろう。もしも俺らがヤクザだったら、即刻、指詰めもんだぜ」
毛利が怒りをこめた口調で言うと
「ほんまにそうや。僕も毛利も五千円ずつ負けた。瀬川にいたっては一万五千円の大負けや。実力で負けたんなら仕方ない。せやけどイカサマとは何ちゅうことしてくれるねん、貧乏学生を相手に」
石原も憤りをあらわにした。すると留美は
「ほんとうにほんとうにごめんなさい」
と言いながら、小ぶりなヴィトンのバッグから封筒を三封取りだすと、それらを素早い動作でテーブルの上に置いていった。封筒には、それぞれ「毛利様」「石原様」「瀬川様」と書いてある。
各自が封筒を手に取り、中身を確認すると、毛利と石原の封筒には一万円札が、英也の封筒にはそれが三枚も入っていた。
「お金で解決できるとは思っていません。私のしたことは、友情と麻雀に対する冒涜だもの。でも私、ほんとうに心の底から反省しているの。一昨日は、得意の絶頂だった。それが、昨日になってようやく自分の犯した罪とその大きさに気づき、痛いほど胸が締めつけられるようになったの。そしてもう心が耐えきれなくなって……。ほんとうにほんとうにほんとうにごめんなさい」
留美の反省の弁と、負け分の倍額が入った封筒に、三人の顔から怒りが薄らいでいく。
そして
「どうしてイカサマなんかしたの?」
という英也の問いに、しばしの沈黙ののち、留美は答えた。
「春休みに新宿のフリー雀荘で、席が空くのを待っていたの。他の客たちのゲームを観戦していたら、すごい勢いで勝ち続けてる人がいた。これはプロに違いないって、私はその人の一挙手一投足から目を離さないで、じっと観察を続けた。そうしたら、だんだん気づいてきたの。その人の牌の混ぜ方、積み方、掴み方に、ほんのかすかだけど違和感があることに。卓上でプレーしている他の三人は気づきにくいのだろうけど、私の視点からは、その人が行なっているのが何であるのか、ついに分かった。イ、カ、サ、マ……」
「それで自分もやってみたくなったんだな」
毛利がそう言うと、留美は頷いて応じた。
「その日の帰りに書店で麻雀のイカサマ解説本を買い、それから一か月くらいの間、寝る暇も惜しんで練習を続けたわ、自宅の麻雀卓で。すり替え、ブッコ抜き、ゲンロク積み、ツバメ返し……」
「自宅に卓があるの? かなわんな、もう」
石原が呆れた口調でそう言い
「で、実戦に試したのは、いつ?」
英也が訊くと
「それが一昨日だったの。フリー雀荘でやってバレたら、半殺しにされたうえ、どこかの風俗店に売り飛ばされるかもしれない。でも大隈大の仲間だったら格好の実験台になると思って……。あっ、ごめんなさいごめんなさい、反省してます猛省してます、お許しください、どうぞご寛恕を……」
もはや呆れ顔の三人に、留美は言葉を継いだ。
「お詫びのしるしに、いいこと教えてあげる。あのね、いま全自動麻雀卓というのが出回り始めてるんだって」
「全自動麻雀卓?」
三人が声をそろえると
「そう。牌を混ぜるのも積むのも、自動で行なう機械式の卓なのよ。あるメーカーが去年販売を開始したって、フリー雀荘で聞いたわ」
「へえー。じゃあ、今みたいにぜんぶ自分たちの手でやってることを、機械が代行してくれるってわけか」
と、毛利。
「すごい技術革新やな。時代は昭和五十三年。世の中、どんどん便利になっていくなあ」
と、石原。
「そいつが普及したら、もうイカサマはできなくなるね」
と、英也。
「てへっ」
と、留美。
学生ラウンジを出た三人は、大学の正門のほうへ、構内をぶらぶら歩いていった。すると、三号館の向かい側のベンチに、一人で座っている人物が目についた。その独特な姿に英也は「おや?」と思った。デニム地のオーバーオールに、赤くて大きなショルダーバッグ、いかつい黒縁の眼鏡に、刈り上げとも呼ぶべきショートヘア。そう昨日、神田神保町で出会った晶立女子大の一年生ではないか。名前は、そうそう、山内実花子だ。
ベンチに近づくと、英也は話しかけた。
「こんにちは、猫語のお嬢さん。こんなところで何をしてるんだにゃ?」
その声に
「あっ!」
と反応し、実花子はベンチから立ち上がった。そして
「瀬川さんを探してたの。向かいの建物に『政治経済学部』と書いてあったから、ここで待ってれば会えるんじゃないかと思って。そしたらほんとうに会えちゃった。ラッキーだにゃ」
と、うれしそうに言った。そこで英也が
「実にラッキーだよ。こんな人混みの中で、しかもめったに授業に来ない怠け者に遭遇するんだから。で、本日の御用向きは?」
と問うと、実花子はこう答えた。
「あのサムエルソンの本、さっそく読み始めたんです。だけど難しくてよく分からないところが多くって。とくに章の終わりに出てくる『討議のための例題』というのが、私にはチンプンカンプンで……」
奇妙な風体の女子学生と英也のやりとりを、クラスメートの三人は小声で会話しながら聞いている。
「恋人どうしかなあ?」
「瀬川も趣味よくないなあ」
「こらこら」
そんな周囲の雑音には構わず、実花子は喋り続ける。
「……そこでね、あることを思いついたの。あのサムエルソンを教科書として瀬川さんが去年受けていた講義、そこに潜りこんで聴講をしたら理解が進むんじゃないかと思って。大隈大には他校の学生や働いている人たちが時間を見つけて勉強をしに来てるって聞いたこともあるし、それなら私もと…」
「なるほど」
実花子の話に感銘を受けた英也は、周りの三人に向かって訊いた。
「一般教育科目の経済学、教授の名前、なんてったっけ?」
すると毛利が
「俺は経済学、取ってねーよ。そもそも瀬川、おまえ自分で取っといて、教授の名前忘れちゃったの?」
と答えたので
「授業、いちども出なかった。それでも単位くれたけどね」
と、英也。
「たしか、織笠……そんな名前やなかったかな。僕もほとんど授業出てへんけど」
石原がそう言うと
「織笠宗広先生は、この三月で定年退職。父がそう言ってたわ」
厳然たる事実をもって、留美が結論づけた。
その言葉にしばらく思案したのち、英也は留美に向かって言った。
「さすがは政経学部長のご令嬢だ。父君より受け継いだ経済学の学識も半端なものではないと聞く。そこでお願い。この娘にサムエルソンの経済学を教えてあげてくれないかな。イカサマ麻雀の件は、これで完全にチャラにするから」
不意を突かれて驚き顔の留美に向かい
「山内実花子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
刈り上げ頭が、ぺこりとお辞儀した。