小説「ノーベル賞を取りなさい」第18話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
翌日。亜理紗の報告を受けて留美が総長室に呼んたのは、二人の男たちだった。元・警視庁刑事部捜査一課勤務で、法学部准教授の宮木正知。同じく元・警視庁刑事部科学捜査研究所勤務で、理工学部専任講師の曽根融介。
留美、亜理紗と向かいあってソファーに座り、テーブルの上に置かれた木版画の額縁、矢尻の入ったウェットティッシュの袋に目をやりながら亜理紗の説明を聞き終えると、額縁を手にした元・捜査一課の宮木が
「はめこまれた盗聴器とは、これのことですよ。プラスチック製ですが、額縁とそっくりの焦げ茶色をしているでしょう。しかも電源を必要としない『トランスポンダ』という機器の一種です。オルソンさんが気づかなかったのも無理はありません」
と言いながら額縁の左隅を指で突っついた。
「私が木版画をもらっておけと言ったのがウカツだったわね。ごめんなさいね、亜理紗ちゃん。危ない目に遭わせて」
と、留美。
元・科捜研の曽根は化学防護手袋をしてウェットティッシュの袋を開き、矢尻の存在を確認したのち
「矢尻に塗布された毒素がなんなのか、これから持ち帰って調べますが、ダメですよ、オルソンさん。こんな危険なものをティッシュなんかで触っちゃあ。たまたま今回は無事で済んだから良かったものの」
と亜理紗を叱責するように言った。
「ごめんなさい。あのまま放置しておいたら、通行人が踏んだり、散歩中のワンちゃんやネコちゃんの足に刺さったりするかもしれないと思ったんです。それに、警察には通報しないほうがいいのかと思って……」
亜理紗がそう釈明をすると
「その通りよ。今回の件は絶対に警察沙汰にしたくないの。本学にとって大事なプロジェクトに関わる事件ですからね。だからこそ、警視庁で働いたキャリアを持つあなた方に内密で捜査をお願いしたいわけ」
と、留美が念を押すように話した。
「ところで、肝心の清井主任教授はどこにいるんです? 彼を呼んで事情聴取すれば、話が早いと思うんですけどね」
宮木の問いに
「それが、きょうはまだ出勤していないらしいのよ。連絡もないって、清井さんの秘書が言ってたわ」
と、留美。
「あのう……」
亜理紗が口を開いた。
「昨夜の事件と、萩原さんの事故死の件なんですけど、なにか関係があるんじゃないかって気がするんです」
「萩原さんというのは、確かあなたの前の総長秘書で、ひき逃げされた男性ですね。犯人も車両も見つかっていないという。その件とあなたが狙われた昨夜の件に、どういう関係があると?」
宮木が訊いた。
「私は論文のデータの提供を求められました。それができる立場にあったからです。そして萩原さんもまた、同じ立場にありました」
亜理紗がそう答えると、宮木と曽根は顔を見合わせた。それから小声で話しあったのち、二人揃って立ち上がり
「きょうのところは、これで失礼します。またなにか動きがあったらご連絡ください」
と、宮木。
「それと、オルソンさん。昨夜は相手の武器が吹き矢で近距離からの攻撃だったから撃退できたけど、銃で狙われでもしたら、いくら究心館空手五段のあなたでも勝ち目はありません。事件が解決するまで、住まいを変えてみてはいかがでしょう」
曽根の提案に、留美が口を開いた。
「そうよ、そうしなさい。私の住んでいる白金台のマンションにいらっしゃいよ。3DKで百㎡もあるから、二人で暮らしても広すぎるくらいよ。駅から歩いて三分だし、通勤にも便利。ねっ、そうしなさい」
それを聞き、亜理紗はしばらく思案していたが
「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
と、礼をしながら応じた。
「それでは、われわれはこの辺で」
宮木と曽根が総長室から退出したのち、留美はさらに言った。
「それと、あなたの借金の件だけど。そもそも、お父さまの会社を助けようと思って送金を始めたのがきっかけよね。その素晴らしい親孝行の心に感動しました。借入残高の三百万円は、私が一括返済します。それとお父さまには、本学より無利息で一億円を融資します。もう、なにも心配しなくていいのよ。論文の翻訳に全力を尽くしてちょうだい」
「え……。ほ、ほんとうですか……」
「ほんとうよ」
それを聞き、亜理紗は留美に駈けよると抱きつき、声をあげて泣きはじめた。
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