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小説「ころがる彼女」・第5話

 朝がきた。
 パジャマからウォーキングウェアに着替えた邦春は、いつものように六時二十分ちょうどに玄関を出た。
 昨日なまけたぶんを取り戻すぞと、気合をこめて歩き始めたそのとき、向かいの家の門扉に掛けられたプレートに、異変が生じているのを彼は見た。

 回文教室はしばらくお休みします

 金属板の上に、白い紙を貼り、黒いマーカーで記されたその一文は、弓子の筆跡に違いなかった。一昨日、昨日と、ホワイトボードに彼女が書きつけたのと同じ文字の形をしていたからだ。
 いったい、どうしたのだろう。あんなに元気で、明るくて、回文指導に熱心な弓子が。何か、あったのだろうか。足を止めたまま、邦春は思案した。  
 心当たりが少しだけあるのは、クモの件だ。授業中、テーブルを這っていた小さな虫を見て、弓子は悲鳴を上げ、殺されると震えていた。たかがクモ一匹に、いい大人が。そう思いもしたが、世のなかには極端に虫を怖がる人もいることだし、彼女もその一人なのだろうと邦春は受け止めた。
 ところが、事前の知らせもなく、この貼り紙だ。回文教室を休むとは、体調でも崩したのだろうか。病気にでも罹ったのだろうか。まさか、クモのせいではないだろうけど。
 門扉の前にしばらく佇んだのち、邦春はウォーキングのコースへ再び足を踏み出した。

 昼になった。
 食事を済ませた邦春は、ぼんやりとソファーに寝そべっていた。テーブルの上には、新品のノートが三冊と、ボールペンが三本置いてある。これから本腰を入れて回文に取り組もうと、昨日の夕方、近くの文房具店で買ってきたのだ。それなのに、肝心の回文教室が休みになってしまった。
 壁時計の針が、午後二時を指した。本来であれば、向かいの家へ行き、弓子の授業を受け始めている時刻。だがしかし、彼女に会うことは、できなくなった。彼女の無邪気な笑顔や、素晴らしい回文の出来を、間近に見ることが叶わなくなった。
 ソファーに寝ていた邦春は、やおら起き上がると、ノートのなかから一冊を手に取って開き、ボールペンで漢字を二文字、書いた。

 弓子

 さらに文字を追加して、一つの文にした。

 弓子(ゆみこ)、見(み)ゆ。

 回文になってはいるが、その内容は現実とは異なるものだった。姿が見えるどころか、門扉の奥の、玄関ドアのさらなる奥へ、彼女は隠れてしまったではないか。
 今から行って、あのチャイムを鳴らしてみようか。ふと、そんな考えが、邦春の脳裏をよぎった。
 しかし、彼は即座にそれを打ち消した。この馬鹿者め。いったいおまえは何を考えているんだ、いい歳をしたジイさんが。
 愛犬は、いつものようにベッドで寝たままだ。退屈で寂しい午後の時間が過ぎていく。

 そして、夜。
 食後のウイスキーをちびちび飲っていると、インターホンが鳴った。通話ボタンを押し、応じると
「夜分にたいへん恐れ入ります。向かいの西原です。ご返金にお伺いしたのですが……」
 という声。
「返金?」
 邦春が問うと、
「妻が開いていた回文教室のお月謝です」
 弓子の夫は、そう答えた。
 玄関へ行き、ドアを開けると、背の低い男が立っていた。先日、引っ越しの挨拶にきた際と違うのは、スーツにネクタイという格好をしていることだ。
「どうぞお入りください」
 邦春の声に促され、ドアの内側へ彼は移動した。そして
「このたびは何のご連絡もせず、妻が回文教室をお休みにしましたことを深くお詫び申し上げます」
 そう言って、頭を下げた。
「まあまあ、そう畏まらなくても。ここではナンですから、とにかくお上がりになってください」
 と邦春は応じ、ラックからスリッパを取って、置いた。
「どうも、恐れ入ります。それでは、お言葉に甘えまして」
 西原は革靴を脱いだ。
 階段を上がって二階へ、邦春は彼を導いた。そこには十畳ほどの洋室があり、昔は息子たちの勉強部屋を兼ねた寝室になっていた。彼らが巣立ったあとは、テーブルと椅子をセットして、来客時などに用いている。
 部屋へ入ると、西原は上着の内ポケットから名刺入れを取り出し
「改めまして。こういう者です。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます」
 そう言いながら、邦春に名刺を手渡した。
「保険会社にお勤めですか。埼玉支社の次長さん。所在地は大宮なんですね。お車で通勤されているのですか」
 受け取った邦春が訊くと、
「ええ。朝は道路が混みますから、四十分から五十分くらいかかりますけど。夜は二十分から三十分くらいで帰り着けます」
 彼は答えた。そして、もう一方の内ポケットから細長い茶封筒を取り出すと、それを両手で差し出しながら
「いただいたお月謝、お返しいたします」
 そう言い、頭を下げた。
 しかし、邦春はそれを受け取らず、
「まあ、座ってくださいよ」
 と促した。さらに
「何か飲み物を」
 と言い、部屋を出て、階下のキッチンへ。冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出すと、二つのグラスに注ぎ入れ、トレイに乗せた。
「ウイスキーの酔いを醒まさなくちゃ」
 そう呟きながら、再び二階の部屋へ、邦春はトレイを持って階段を上がっていった。
 入室すると、二つのグラスをテーブルに置き、邦春は西原に向き合って腰掛けた。
「どうも、すみません」
 恐縮する彼に、
「西原さん、その月謝は先々のものとしてお預かりください。奥さまが回文教室を再開される、そのときまで」
 邦春はそう言った。
 すると、西原は黙りこんだ。それから、ようやく、口を開いた。
「妻が、いつごろ回復するのか、私には分かりません」
「回復? 奥さま、ご病気なのですか?」
 邦春の問いに、西原はまたも沈黙した。その表情が、とても苦しそうに、邦春には見えた。
 しばらく沈思したのち、彼は傍らのグラスをつかみ、ウーロン茶を半分くらい飲んだ。それから意を決したような目をして、言葉を吐いた。
「清水さん。私がこれから申し上げることは、くれぐれもご内密に願えますか。ご近所の方がたにも、その他の人びとにも」
「もちろんです」
 邦春は即答した。
「私があえて妻の病気について明かすのも、清水さんが約束を守る人だと信じているからです。妻がこう申しておりました。あの人は信用できると。きちんと宿題をやってきたから、八時間半もかけて回文を作ってきたから、信用できる人だと。清水さん、誰にも口外しないと、約束していただけますね」
「約束します」
 邦春の確かな声を聞き、西原はまたグラスに手をやると、残りのウーロン茶を一気に飲みほした。そうして、話し始めた。
「私の妻は、心を病んでいます。とても重い、心の病気です。私たちが結婚したその翌年、妻が三十歳のときに、職場での過酷な長時間労働がもとで発病しました。三十二歳で会社を辞めざるを得なくなったのも、病気の症状が職場環境に大きな悪影響をもたらす性質のものと判断されたためです。退職をし、治療に専念しても、妻の病態は、落ちたり上がったり落ちたりを繰り返すばかり。通院先を変えてみても、病状は変わりません。とても治りにくい病気なのです。妻があんなに回文ばかり作っているのも、病気に冒された脳がそうさせるのだと、私には思えてなりません。回文もまた、症状のひとつなのではないかと。私たち夫婦には子供がおりません。それも、遺伝との関係性が高いとされるこの病気を、新しい命に受け継がせたくないという、妻の強い気持ちがあるからです。妻には入院歴もあります。病気が原因の大騒ぎを繰り返し、とうとう入院ということになったのですが、ご近所に多大なご迷惑をおかけした私たちは、もうそこに住み続けることが困難になってしまいました。それで、このたびの引っ越しを……」
 西原は一息ついたのち、邦春の目をじっと見つめた。それから、口を開いた。
「双極Ⅰ型障害。躁うつ病は、それほど深刻な病なのです」


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