小説「サムエルソンと居酒屋で」第17話
土曜日の夕刻、二人は地下鉄東西線に乗り、東陽町駅を目指していた。実花子の父親である山内多木男氏の商用は木場駅を最寄りとする材木問屋で行なわれるのだが、そのひとつ先の東陽町駅に行きつけの寿司屋があるので、午後六時に駅の入口で待ち合わせようということになったのだ。
「けっこう有名な江戸前のお寿司屋さんらしいわよ」
実花子の言葉に
「寿司なら大分でいっぱい食べて育ったけど、そんなに格式の高い店へ行くなんて緊張するなあ。えーと、カウンターに座って……なにから注文したらいいんだろう?」
英也がそう反応したので
「だいじょうぶ。おまかせでって言えば、勝手に握ってくれるから」
と実花子がアドバイスした。
そうするうちにも五時五十五分、電車は東陽町駅に到着した。ホームのいちばん後方の階段を上り、改札を通ってさらに階段を上ると、地上に出た。 すると目の前の通りにタクシーが止まり、中からスーツ姿の男性が二人降りてきた。大柄なほうは多木男氏、小柄で眼鏡をかけたほうは、秋田で名所めぐりの運転をしてくれた藤吉秘書であることを英也は思いだした。
二人に近寄り、英也が礼をすると、向こうも礼を返し
「このたびはご愁傷様でした」
と多木男氏が言った。そして
「店はすぐそこです。さ、参りましょう」
と藤吉が先頭に立って歩き始めた。
あとについていくと、やがて左手に「ふかがわ寿司」と記された青いのれんが現れた。それをくぐって藤吉が中に入り、六時からの予約客である旨を伝えたのち、再びのれんから顔を出して
「さ、どうぞ」
と、三人を店内へ誘導した。そして
「いらっしゃいませ!」
と、店員の挨拶を聞きながら、右から多木男氏、英也、実花子、藤吉の順にカウンター席に腰を下ろした。
熱いおしぼりが出てくると、それで顔を拭ったのち
「まずはビールを二本もらおうかな。寿司は四人ともおまかせで」
と多木男氏が言ってくれたので、英也の不安は解消された。
ビールが運ばれてくると、英也が多木男氏のグラスに、藤吉が実花子のグラスに注ぎ、それから互いに注ぎ返して乾杯をした。
「ご両親を亡くしてお辛いでしょうが、これからは私と家内があなたの父母になります。気兼ねはご無用。甘えたいときは甘え、頼りたいときはいくらでも頼ってください」
そう言って、多木男氏は一品目の平目を頬張った。
「ご厚情、まことにありがとうございます。今後ともますます勉学に励み、卒業後は御社の即戦力として働けるよう精進してまいります」
そう応じて、英也も平目の握りを口に入れた。もぐもぐもぐ。旨い。
「英也さん、実は一昨日ね、中央線沿線の不動産屋さんを何軒か回ってみたの。そしたら荻窪駅から徒歩十分でお風呂付きの2Kがあったわ。四畳半と六畳で、家賃は五万円」
との実花子の言葉に
「ちょっと安すぎるな。なにか欠陥があるのかもしれない。もっと高い物件を探してみたらどうだ」
と、二品目の炙り金目鯛を食べ終えてから多木男氏が話した。
「私がいま住んでいる下宿は、家賃一万五千円の四畳半です。五万円でも三倍以上の家賃なのに、それよりも高いとなると、いったいどんな物件なのか想像もつきません」
そう感嘆の声を発して、英也も炙り金目鯛を頬張った。もぐもぐもぐ。旨い、旨い。
「じゃあ、寝室がもっと広い物件を探して、ダブルベッドを置こうかな。二人がいっぱい愛し合えるように」
と、恥じらいの色を見せながらの実花子の発言に
「愛し合うのは良いことだ。愛とは素晴らしいものだからな。だが、前にも言ったように祝言を挙げるまで子どもは作らないこと。それが済んだら好きなだけ作っていいから」
と、三品目の小肌を味わったのち、多木男氏が諭した。
「男の子と、女の子。少なくとも二人以上は欲しいです。私と実花子さんの子どもなら、とても可愛くて、頭の良い美男美女に育つこと間違いありません」
得意げな顔でそう言い、英也も小肌を口にした。もぐもぐもぐ。旨い、旨い、旨い。
「日本酒をお燗で」
「私は冷やで」
親娘がそう注文し、運ばれてくると、英也は多木男氏のお猪口に酒を注いだ。多木男氏が一気に飲みほしたので、続けて英也は注いでやった。実花子は少しずつグラスで飲んでいる。藤吉は英也と同じく下戸のようで、もっぱら寿司を食べている。
小肌の次は、玉子焼き、車海老、漬け鮪、白烏賊、雲丹、穴子、トロ漬け炙りと旨さのパレードが続き、最後は干瓢山葵巻きで幕を閉じた。さすがは高級店ならではの、完璧な味の構成だった。
そのとき、実花子が言った。
「私、そろそろ寮に帰らなくちゃ」
時計を見ると、七時四十分だ。東陽町駅から阿佐ヶ谷駅まで約四十分、そこから寮まで歩いて二十分。確かに帰途につくべき時刻である。
「藤吉。すまんが地下鉄とタクシーで送ってやってくれ」
多木男氏がそう命じ
「瀬川さんはまだ、お時間はだいじょうぶですかな。よろしければホテル内の店で、また経済学談義など、いかがでしょう」
と、英也に水を向けた。
「はい、私はあと二、三時間くらいならお供できます。ご馳走になってばかりで申し訳ありませんが」
その返事に
「では行きましょう」
と多木男氏が立ち上がり、残りの三人もそれに続いた。会計を済ませる藤吉を後にして店から路上に出ると、多木男氏がタクシーを拾い、先に乗りこんだ。続いて英也が
「じゃあ、またね」
と実花子に手を振ってタクシーに乗ると、彼女も手を振り返した。そしてドアが閉まり発車すると、店から出てきた藤吉が
「お嬢様、社長と瀬川さんはもうタクシーで?」
と訊いた。
「ええ、たったいま、ホテルへ」
その言葉に、藤吉の顔はだんだんと青ざめ、やがて口から呟きがもれた。
「危ない……このままでは瀬川さんが危ない……」
「危ない? なにが? 藤吉さん、ねえ藤吉さん!」
実花子が問い詰めると
「秘書として社長にお仕えして、二十年。私は忠実な下僕として生きてきました。たとえ黒いものでも、社長が白とおっしゃれば私も白と申し上げてきました。それは自分さえ我慢すれば会社と山内家は安泰だ、そういう思いが、いつも私の心の底にあったからです。ところが今回は違います。社長をこのままにしておくと、身内であるお嬢様にも、そして誰よりもお嬢様の大切な方にたいへんな被害が及ぶからです」
藤吉はそう答えたが、実花子は納得できぬまま問い続けた。
「あなたの言ってることの意味が、私にはまったく分からない。被害って、なに? 父のどんな行ないから、いったいなにを英也さんと私が被るというの? ねえ、藤吉さん!」
その詰問に、うなだれていた藤吉は、やがて意を決したように顔を上げ、実花子の目を見つめて言った。
「社長には、癖があります。女癖ではなく、男癖です」
「えっ?」
「この私も、入社したばかりのころから弄ばれてきました。社長が私を秘書にしたのも、好きなときにオモチャにできるからです」
「ほ、ほんとなの? その話」
「本当です。とくに酒が入ると、社長の男癖に火がつきます」
その言葉を聞くや否や、実花子は通りに向かって手を上げた。そしてタクシーが止まってドアが開くと、藤吉を車内に押しこみ、自分も乗りこんだ。
「藤吉さん、ホテルの名前!」
「ホテルユリガサキまで!」
その声を合図に、タクシーは発車した。
そのころ、ホテルユリガサキのエレベーターに多木男氏と英也は乗っていた。
「店へ行く前に、私の鞄を部屋に置いてきてもよろしいですかな。そのほうが、くつろぎながら話ができますから」
多木男氏の言葉に、英也は頷いて言った。
「分かりました。それにしても、豪華なホテルですね。名前は知っていましたが、実際に来ることができるとは思ってもみませんでした」
エレベーターを八階で降り、長い廊下を進んでいくと「八九四」と記されたドアがあり、多木男氏が鍵を開けた。そうして入室し、英也もあとに続いた。木多郎氏は鞄を机の上に置くと、再び部屋の入口へ行き、こんどは鍵を掛けた。そうして英也に近づくと、囁くように言った。
「ようやく二人きりになれたね」
「え……?」
「初めて会ったときから君のことが好きだった。だが秋田の家は大家族で、つねに誰かの目が気になって、とうとう夏休みの間、チャンスは巡ってこなかった」
「…………」
「ところが神様は私に微笑んだ。こんな東京出張の好機を創ってくださったんだ。実花子の寮の門限が早いということも私に幸いした。さあ英也くん、私の愛を受け入れてくれ。実花子を愛するように、この私も愛してくれたまえ!」
大きな声を発すると、多木男氏は英也に抱きつき、そのままベッドに押し倒した。
「な、なにをするんですか! ふざけるのはやめてください!」
叫びながら抵抗をする英也だが、多木男氏の体は巨石のように重かった。
「私は学生時代に柔道をやっていてね、三段の実力者なんだ。しかも得意は寝技だから、抗うのはもうやめたほうがいい。おとなしく私の愛を受け入れなさい」
そう言うと、多木男氏は英也の体に乗っかった自分の体をくるりと百八十度回転させ、上四方固めの押さえこみに入った。そうして英也がぐったりするのを確認すると、ベッドから下り、相手のズボンのベルトを外し、ファスナーを下げてズボンを脱がせた。さらにパンツに両手をやると、一気に足首まで引き下ろした。
下半身をむきだしにした英也の姿を見下ろしながら、多木男氏は続いて自分のベルトを外し、ファスナーを下ろしてズボンを脱ぎ、パンツも取った。最後にスーツの上着を脱いでネクタイを外すと、ベッドの英也の体に覆いかぶさり、唇を重ねた。
相手が抵抗を諦めたのを知ると、多木男氏は喜びを全身にみなぎらせて、口の中へ舌を差し入れた。
そのとき、英也が反撃に出た。唇から侵入してきた舌を、上下の歯で思いっきり噛んだのだ。
「あぎゃーっ!」
ものすごい悲鳴とともに、多木男氏はベッドから転がり落ちた。
その隙にベッドから飛び下り、パンツとズボンをはき、ベルトを締めた英也は
「ひぃーっ、ひぃーっ」
と叫びながら入口へ向かった。鍵を開けるとドアから廊下に出て、エレベーターを目指して駆けだした。
「ひぃーっ、ひぃーっ、多木男が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ」
するとそのとき、廊下の向こう側から実花子と藤吉が走ってくるのが見えた。
「英也さん! だいじょうぶっ?」
実花子のその声には耳を貸さず、英也は二人の合間を駆けぬけた。
「英也さああん!」
追いかけてくる実花子とエレベーター乗場の間に挟まれそうになった英也は
「ひぃーっ、ひぃーっ、多木男が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ、実花子が追ってくる。
ひぃーっ、ひぃーっ、悪魔の親娘が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ」
と喚きながら、階段を駆け下りていった。
その声にショックを受けたのか、実花子はもう追いかけることをせず、こんどは廊下を逆方向に走り始めた。そして八九四号室へ行くと、中へ入り、凄まじい光景を目撃した。
そこには下半身丸だしの父親が、ベッドのそばの床に仰向けに倒れていた。口からは、かなりの出血がある。舌をどうかしたのか
「あーあーあー」
と赤ん坊のような発声を繰り返している。藤吉が電話をかけているのは、医者を呼んでいるのだろうか。
「父っちゃ! 英也さんに、なにしだっ?」
「あーあーあー」
階段を一階まで下りた英也は、タクシーに乗り下宿へ向かった。そして帰り着くと真っ先に流しへ行き、何度もうがいをした。それから押し入れを開け、布団を敷き、明かりを消すと、掛け布団を頭から引っかぶった。
「ひぃーっ、ひぃーっ、多木男が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ、実花子が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ、悪魔の親娘が追ってくる。ひぃーっ、ひぃーっ」
恐怖の呟きを、いつまでも繰り返して。