小説「ノーベル賞を取りなさい」第12話
あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。
「現代資本主義の欠陥をニュートン力学で解き明かす、まさに無重力経済学と呼ぶべき理論の登場ね。実に素晴らしい論文要旨ですこと。あなたをスカウトした私の目に狂いはなかったわ」
ソファーに座り、原稿を再三再四読みかえした留美が、感に堪えないという面持ちで言った。
「この要旨を読めば、序論から結論まで論文の全体が真に読む価値のあるものと、査読者のみならず世界中の研究者たちが判断することでしょう。『補足説明なしで研究内容を理解させるもの』という論文要旨の定義のお手本とも言うべき出来栄えです」
感嘆のため息をもらしながら、学部長の牛坂が所感を述べた。
連休明けの月曜日、午後。柏田の研究室に集まった、総長、総長秘書、学部長、それに柏田らノーベル経済学賞獲得チームの面々はテーブルの上に亜理紗が並べていくソーサーからカップを手にとり、コーヒーを飲んでいた。 秀逸な学術論文の要旨を読んだばかりのせいか、その味わいは格別なものに思えた。
「総長。この『zero gravity effect』理論を私が発案できたのも、実はここにいる花崎由香さんのおかげなのです。
柏田が留美にそう言うと
「あらまあ、お利口ねえ。うちの学生さん?」
と、柏田の隣に座っている由香に訊いた。
「はい。政経学部の四年生です。来年は大学院に進もうと思っています」
由香がはきはき答えると
「じゃあ、いまからでもこの研究室に入って、柏田さんをアシストしてちょうだい。あなたが学べることも大きいと思うわ」
留美がそう言ったので
「総長。残念ながら彼女はすでに中川さんのゼミに入っているのです。なので……」
柏田が口ごもると
「まあ、こんな逸材が、あんな能なしのゼミ生ですって。もったいない。彼には私から話しておくから、あなたには柏田研究室の一員として今日から励んでもらうわね。専用のデスクも設けましょう」
「やったーっ」
と由香。
「ところで、こんな理論を、どうやって思いついたの?」
留美の問いに、柏田が言葉を選んでいると
「先生と二人でお風呂に入っていたら閃いたんです。私のヒントにすばやく反応した先生はまるでアルキメデスのように『エウレカ』と叫びながら、浴室から書斎へ裸のまま走っていきました」
と由香が答え
「ば、ばかっ。そんな赤裸々なことを口にするやつがいるかっ」
と狼狽する柏田に
「女癖の悪さは健在のようね。まあ、今回だけは『無重力効果』の出来栄えに免じて許すけど、次は容赦しませんよ、クビっ」
と叱責すると
「ははーっ」
柏田が深々と頭を下げた。由香もそれに倣ったが、胸中は柏田を独占できるお墨付きを総長から得たことの喜びでいっぱいだった。
しばらくして留美が口を開いた。
「今回の論文の投稿先は?」
その問いに柏田が即答した。
「もちろん、アメリカン・エコノミック・レビューです。押しも押されもせぬ経済学のトップジャーナル。ノーベル経済学賞に向けた実績を積むには、それ以外考えられません」
「そうね、私も同感。で、論文の完成はいつ頃になりそう?」
「全体の構想は、すでに頭の中にあります。なので、気合を入れて二か月後には仕上げてみせます。すらすらと英語で書いてオンラインで投稿しますので、七月の完成時点で、総長、学部長にお読みいただき、最終チェックをお願いできれば幸いです」
「頼もしいわ。それと最終原稿はアメリカのスピルギッツ博士にもお送りしましょう。柏田さんをノーベル経済学賞の候補者にご推薦いただくお願い状を添えて、航空便で。こちらの手配はすべて私に任せてちょうだい」
留美はそう言って秘書の萩原の顔に目をやり、萩原は頷いた。
「政経学部の紀要への発表はどういたしましょうか? それと国内の学術誌への掲載は?」
牛坂の質問に
「不要でしょう。だって目標はノーベル経済学賞だもの、世界へ向かって発信しなくちゃね。ただし話題作りのために、出版するという手は考えてもいいわよね。なにかセンセーショナルなタイトルをつけて」
留美はそう答え、こんどは亜理紗に向かって言った。
「それと王立科学アカデミーのお歴々に向け、スウェーデンのトップジャーナルにも投稿しましょうか。スカンジナビア・ジャーナル・オブ・エコノミクスとかに、気を利かせてスウェーデン語で。原稿の翻訳は、あなたに任せたわよ」
「はいっ」
と亜理紗が元気よく返事をした。
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