小説「ころがる彼女」・第30話
十一月一日、金曜日の夜。
新居のリビングに据えたソファーにくつろぎ、邦春はウイスキーを楽しんでいた。
引っ越しの荷解きは、昨日と今日ですっかり終わり、段ボールの類はすべて紐で縛って、玄関の傍に積み上げてある。あとは資源ごみの回収日に、マンション敷地内のごみ置き場に出せば完了という手筈だ。
ソファーの脇には、ベスのベッド。郊外のマンションならではの静けさのなかで、愛犬は気持ちよさそうに眠っている。
これで弓子さえ傍にいてくれたらと、邦春は思った。彼女が越してくるのは、今月の二十九日。その日が待ち遠しくてならない。
空いたグラスに、グレンファークラスをもうひと注ぎしようとしたそのとき、スマホが鳴った。弓子からかなと思い、手に取ると、電話をかけてきたのは宙丸だった。
「あ、どうも。清水です。昨日はどうもありがとうございました。
おかげさまで部屋の片づけも順調に進みまして……」
邦春が応対すると、
「清水さん。これから私がお話しすることを、どうか心を落ち着けて聞いていただけますか」
と、重苦しい口調で宙丸が言った。
「はあ……?」
「弓子さんがお亡くなりになりました」
「…………」
「昨夜のことです。ご主人が出張から帰宅すると、机にうつ伏したまま動かなくなっている弓子さんを見つけました。すぐに救急車を呼びましたが、搬送先の病院で死亡が確認されました。急性心不全です」
「…………」
「私ども便利屋のパートナーには、納棺師もいます。この情報は、弓子さんの納棺を担当することになった人物から得たものです。それによると、故人のお通夜は明日の午後六時から、告別式は明後日の午後一時から、K区NSメモリアルホールにて行われるとのことです」
「…………」
「このようなお知らせをしなくてはならないのは、私としても大変残念なことです。二十九日の引っ越しは、自動的にキャンセルとなります。それでは失礼いたします」
その言葉を最後に、電話は切れた。
何が起こったのか、邦春には、よく分からなかった。弓子が亡くなったと言われても、それが、どういう意味のことなのか、なかなか理解できなかった。これから出航だというのに、乗る船が先ほど沈没してしまいましたと告げられたような、そういう不思議な感覚に邦春はとらわれた。
それとも今の電話の内容はすべて冗談で、弓子はすでにこのマンションに到着しており、どこかの部屋に隠れているのではないだろうか。邦春はそう思い、三つの洋室を探してみた。クローゼットのなかや、バスルームやトイレ、ベスのベッドも覗いてみたが、そこには老犬が寝ているだけだった。
住戸のなかをうろうろ歩きまわる邦春は、弓子がいないのであれば、彼女と縁のあるものがどこかに無いだろうかと、視線をあちこちに向けた。すると、テーブルの上に、先ほどまで通話に使っていたスマホが置いてあるのに、今さらながら気づいた。
ソファーに座り、スマホを手に取り、邦春は弓子のブログにアクセスした。およそ五か月ぶりに「ゆみコミ」を開いてみると、「回文エブリデイ」が更新されていた。六月九日の「ロックの日」を最後に休止されたものと彼は思っていたのに、なんとそこから新たに、二百六十二本もの回文が作り続けられていた。その最後の回文と解説は、こういうものだった。
きょう二月二十六日は「脱出の日」です。一八一五(文化一二)年のこの日、地中海のエルバ島に流されていた、元フランスの皇帝ナポレオンが、権力の座への返り咲きを狙って島を脱出しました。では回文を。
立つとも、今!
手で春へと、ナポレオン。
「俺、ほな」と
エルバ出て、舞い戻った。
[たつとも いま てではるへ(え)と なぽれおん おれ ほなと えるばでて まいもどった]
ルイ一八世が即位し王政復古となったフランスでは、国民の不満が噴出し、混乱が続いていました。そこへ、ナポレオンの再登場です。帰ってきた英雄は、たちまち熱狂的な支持を得て、皇帝に復位しました。しかし、彼の二度目の春は長続きしませんでした。ワーテルローにおけるイギリス・プロイセン軍との戦いに敗れたナポレオンは、こんどは脱出の不可能な大西洋の孤島セントヘレナに流され、そこで一生を終えたのでした。
それを読んだ邦春は、大声で叫んだ。
「おーい、弓子ーっ! これじゃあ約束が、違うだろーっ! 脱出してくると決めていたのは、このエジンバラ城だろーっ! エジンバラ城のある、この街だろーっ! あの世なんかに脱出するなんて話、これっぽっちもなかっただろーっ! お願いだあ、弓子ーっ! もういちど、生き返ってくれーっ! 私とベスの待つ、このエジンバラ城へ、脱出し直してくれーっ! もしも脱出に失敗して、セントヘレナ島に流されたとしても、必ずこの私が行って、連れ戻してやるからさーっ! セントヘレナ島から救い出して、私の船に乗せて、このエジンバラ城に連れ戻してやるからさーっ! お願いだあ弓子ーっ! もういちど、生き返ってくれよーっ! もういちど、脱出し直してくれよーっ!」
叫び疲れた邦春は、両手で顔を覆い、泣き始めた。
八十四歳が、子供のように、泣き続けた。
老犬が、いつの間にか起き出してきて、彼の足元に、じっと寄り添っていた。