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小説「ノーベル賞を取りなさい」第20話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 学生たちの夏休みは長いが、教授たちのそれは短い。講義はなくても、研究という本来の仕事があるからだ。たまには論文のひとつでも書いてみるか。そう思い、中川は大学の正門をくぐった。
 がらんとしたキャンパスを三号館へ向かって歩き進んでいくと、ビルの向かいのベンチに水色の服を着た人物がぽつねんと座っているのが見えた。近づくにつれ、それがワンピースを着た女性であり自分のかつてのゼミ生の花崎由香であることを中川は知った。
「こんにちは、由香ちゃん。こんなところでなにをしてるの?」
 ベンチの前に立った中川が訊くと、彼女は意外な返事をした。
「なにもかも嫌になったんです。秘書の仕事も、ノーベル経済学賞の件も」
「ええーっ、どうしちゃったの? 由香ちゃん、すっごく頑張っているって噂だし、もうすぐ論文も完成するんでしょ。いまがいちばん大事なときなんじゃないの」
 そう言って由香の左隣に腰を下ろすと
「ぜーんぶ柏田先生が悪いんです」
 と、由香はさらに意外な返答をした。
 それを聞いて、中川は興味津々となった。この自分を差しおいて教授と秘書の仲になり、恋愛関係を続けてきた二人。それが突然、破局のときを迎えたのか。事情を訊いてみた。
「柏田さんが悪いって、なにが? 僕で良かったら相談に乗るよ」
 すると由香は中川の顔を見つめ、両目に涙を浮かべて言った。
「あの人、新しいカノジョをつくったんです。歌舞伎町のキャバ嬢で、『アヤ』って名前の。私というものがありながら……わーっ」
 由香は両手で顔を覆って泣きだした。いきなりの号泣におろおろしながらも、中川は質問を続けた。
「それは確かな情報なの? もしも本当だとしたら、ひどい話だ」
 すると由香は、肩を震わせ、しゃくりあげながら答えた。
「探偵社に調べてもらったんです。二人がホテルに入っていく写真も、ホテルから出てきた写真もあります。それに……」
「それに……?」
「昨日、あの人に研究室で告げられました。いつまでも男と女の関係を続けていくのは良くない。お互いのためにならないし。これからは教授と学生の健全な仲に戻ろうって」
「な、なんという身勝手な男だ! ゆ、許せん!」
 激怒する中川に
「そう。許せないんです。だから私、あの人に復讐してやろうって思っているの」
 と、由香。
「復讐って、どうやって?」
「あの人が書き上げて、アメリカン・エコノミック・レビューに投稿することになっている論文のデータ。それを盗みだして、福沢大学の経済学部に売り渡してやるの」
「福沢大の経済学部? ちょ、ちょっと待って、由香ちゃん。売るのなら、もっといい相手がいるから」
 そう言うと中川はベンチから立ちあがり、十メートルほど歩いたのち、携帯電話を手にすると、鳥飼に掛けた。すぐに相手が出た。
「もしもし。朗報かい?」
「ああ、これ以上ない朗報だぜ」
「では頼む。期待してるよ」
 通話を終えた中川はベンチに戻ると、再び話しはじめた。
「実は僕の高校の同級生で、ある大学の事務長を務めているやつがいるんだ。そいつが柏田の論文にすごく興味をもっていてね。内容が良ければぜひ出版したいと言うんだよ。そこで由香ちゃんにお願い。盗みだすつもりの論文のデータ、ぜひそっちに売ってくれないかな。三千万円で買うそうだよ」
「三千万円? お金持ちなのね、その人」
 そう応じると、こんどは由香がベンチから立ち上がり、携帯電話を手にして一言だけしゃべった。
「任務完了です」
 その声を合図に、向かいの三号館の入り口から二人の男が飛びだし、ベンチに近づいてきた。元・捜査一課の宮木と、元・科捜研の曽根だ。左手の小指にはめた指輪型の超小型ICボイスレコーダーを抜きとると、それを宮木に手渡しながら由香が言った。
「この人、三千万円と引き換えに、柏田先生の論文のデータを盗みだし、高校の同窓生に手渡すよう、私に教唆しました」
「はい。傍聴していた我々にもよく聞こえました。実に見事な演技でしたよ、花崎さん」
 宮木の返事に
「な、なんなんだ、これは? 教唆? 演技? 傍聴? い、いったいなんなんだ、これは?」
 うろたえる中川に二人は警察手帳のレプリカを見せ
「不正競争防止法違反行為の教唆に加え、亡くなった萩原さん、行方不明の清井さん、それに毒矢で襲われたオルソンさんの件についても、中川さん、あなたから話を伺いたいと思いましてね」
「オルソンさんを襲った矢毒の成分はクラーレという植物エキスであることも分かりましたよ。さ、署までご同行願えますか」
 と言いつつ中川を立ちあがらせ、両脇から抱えて去っていった。
 
    

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