小説「ころがる彼女」・第18話
「うわ。汗だくだ」
ウォーキングから帰ってきた邦春は、玄関にシューズを脱ぐと、まっすぐバスルームへ向かった。
今朝六時過ぎに家を出たときには、すでに気温は三十度を超え、いきなり熱気に全身が包まれた。まるで赤道直下を航海しているみたいだったな、地球の温暖化どころか炎熱化だな、これは。などと考えながらシャワーで汗を流した彼は、着替えを済ませると朝食の支度をしにキッチンへ。
茹でたカボチャをすり潰し、鶏のレバーを小さく切ってバターで炒め、それらを食器に入れたのち、オリーブオイルを少し垂らしてベスのぶんができた。
それから、茶碗にご飯をよそり、かつお節と塩昆布をかけ、しょうゆを数滴垂らしたのち、冷たい麦茶を注いで、自分のお茶漬けを作った。
食器を床の上に置き、
「ベスや、ごはんだよ」
そう声をかけると、ベッドからのろのろ起き出してきた老犬は、食器へ歩み寄り、クンクン匂いを嗅ぎ、それから邦春のほうへ振り向いた。
「どうした? 大好きなレバーだよ。おいしいよ」
そう言われたので、ベスは再び食器に向かうと、食べ始めた。しかし、まもなく食べるのをやめ、またベッドに戻っていった。
邦春が食器を覗くと、半分以上残していた。エアコンを効かせているとはいえ、連日の猛暑だ。ベスの食欲の減退を、邦春は気にしていた。昨夜も、好物の砂肝を食べなかったし。
ベッドへ行くと、彼は愛犬に言った。
「先生に診てもらおうか」
ベスが家にやってきたのと、ほぼ時を同じくして開業した動物病院は、車で十分くらいのところにある。生まれて初めてのワクチン接種をしてくれた獣医師も、当時は三十代の半ばだったのが、今では五十を越えて貫禄もついてきた。安心して任せられる、生まれながらのかかりつけ医なのだ。
受付を済ませると、待合室の空いた椅子に、ベスを抱いて邦春は座った。しばらくすると、コーギーを抱いた男性が処置室から出てきて、邦春の隣の椅子に腰を下ろした。
その子犬に、邦春は声をかけた。
「どうしたの? 可愛いコーギーちゃん」
すると飼い主が
「熱中症にやられたので、点滴を打ってもらいました。毎日こんなに暑いと、真夏の散歩はもう無理ですね」
と、子犬を優しく撫でながら答えた。四十代の半ばくらいだろうか、黒縁の眼鏡をかけ、がっしりとした体格の飼い主が
「ウエスティーちゃんは、どうしたの? やっぱり夏バテかな?」
そう訊いてきたので、
「もう、いい歳ですからね。ベスっていいます。十六歳のお婆ちゃんです」
邦春が答えると、
「それは長寿ですね。大事にしてもらって幸せだね、ベスちゃん」
と彼は言い、
「うちの子は、六か月の女の子。ちくわっていいます」
そう言葉を継いだ。
「え? ちくわ? ちくわちゃん?」
「そうです。体型といい、毛色といい、何となく竹輪に似ているでしょう」
「そう言われると、何となく……」
二人で会話を続けていると、
「清水ベスちゃん、第一診察室へお入りください」
若い看護師が現れて、そう言った。コーギーの飼い主に会釈をすると、ベスを抱いて邦春は椅子から立ち上がった。
血液検査のための採血をされ、胃腸薬と栄養剤の点滴を受けた老犬は、帰りの車の助手席にうずくまっていた。リードは、シートベルトに結わえつけてある。
「お疲れだったね、ベス。一時間もチューブにつながれていたんだから」
邦春の言葉に
「フゥ……」
と、愛犬は弱々しい声をもらした。
ハンドルを握る邦春の脳裏を、いろいろなベスたちがよぎっていく。よちよち歩きで家のなかを探検してまわり、疲れると陽だまりで仰向けになって寝ていた、幼年期のベス。ボールを追って野原を活発に駆けまわり、プールを泳ぐのも得意だった、成年期のベス。そして今は、一日中ベッドのなかにいる、老年期のベス。十六歳なんて、人間なら高校生になったばかりの年ごろだ。それに比べて、犬の一生の何と短いことだろう。だからこそ、犬という生き物の、なんと愛おしいことだろう。