小説「サムエルソンと居酒屋で」第5話
電車は東へ向かって走っていた。東京都から千葉県へ、さらに乗り換えをして、もっと先の駅へ。座席に腰を下ろし、重い本を両手に抱え、もう一時間以上も読書に没頭しているのは、英也だった。
金曜の夜、実花子に誓った経済学を勉強するという約束を、彼はすぐに実行に移した。まず翌日に、大学近くの古書店へ行き、「サムエルソン 経済学 原書第九版」の上下巻を購入した。二千円だった。それから土曜と日曜はどこへも出かけずに、上巻の第一章から三章までを読み終えた。
そして月曜日のいま、家庭教師のアルバイトに向かう車中で、第四章の途中までを読み進んでいるというわけだ。
家庭教師に通うのは週に二日、月曜と木曜に二時間ずつ。これを一か月やると二万円の給料が手に入る。学生のバイト料は、例えば大学周辺の飲食店の皿洗いが時給二百五十円というのが相場だから、長距離通勤を厭わなければ勉強を教えにいく仕事はかなり恵まれている。交通費は全額支給されるし、授業のあとは食事も出してもらえるし。
実家からの仕送りが毎月五万円。そこから四畳半の下宿代一万五千円、食費や銭湯代、洗濯代などの雑費も含めて三万円を差し引くと、残りはわずか五千円。ここに定期収入として毎月二万円が加わるのだから、これは心強い。
教える相手は、小学五年生の男の子。去年から始めて、今年が二年目だ。地元の国立大学の附属小学校に通っているほどだから、頭がいい。とくに教えなくてもすらすら問題を解いてしまうので、教師としてはとてもラクだ。来年も雇ってもらえたらと思う。
そうするうちにも電車が目的地の駅に着いたが、通勤はこれで終わりではない。バスへの乗り換えが待っている。停留所に並んでいる合間も、バスの座席に腰を下ろしている時間も、英也はサムエルソンを読み続ける。すると ようやく降車の停留所に着いた。
教え子の待つ家へ向かいながら、英也は計算をした。片道の所要時間の合計は、一時間三十五分。授業を終えた帰路、行きと同じペースで読めば、喜久井町の下宿に着く頃には第四章を読み終えていることだろう。
それから四日が経った六月二日、金曜日の午後五時過ぎ。高田馬場の栄通りをまっすぐ進んだりくねくね曲がったりして居酒屋ほそぼそへ英也はたどり着いた。入口の戸を引き開けると
「いらっしゃい! ミスター大隈大の瀬川ちゃん! 実花子ちゃんならもうお見えだよ!」
と、例によって店主の威勢のいい挨拶が出迎えた。
店内に目をやると、カウンターの中ほどの椅子に実花子が座って、こちらへ手を振っている。他の客は、いちばん奥に白髪の男性が一人だけ。留美の姿はまだない。
「こんばんは。早いね、実花子ちゃん。僕が一番乗りかと思ってた」
その言葉に
「こんばんは、瀬川さん。私も来たばかりなんです。分かりにくい道だったけど、歩いていたら着いちゃいました」
と実花子が返した明るい声を聞き、英也はホッとした。先週の夜に送っていった際に、彼女を傷つけるようなことを言ってしまったのではないかと気にしていたのだが、要らぬ心配だったようだ。
長いカウンターに沿って進み、実花子の右隣の椅子に腰かけた英也は
「先に飲んじゃおか」
と言い
「えっ、留美さんまだなのに」
戸惑う実花子に
「平気平気、ビール一本くらいなら」
そう応じて、店主に注文した。
「まいど! ビールの大にグラスが二つね!」
景気のいい声が響き、熱いおしぼりに続いて飲み物が運ばれてきた。
互いにビールをグラスに注ぎ合ったのち
「きょうは何に乾杯をしましょうか?」
実花子がそう訊いたので
「僕の向学心に」
と英也は答え、バッグの中からサムエルソンの上巻を取りだすと、しおりを挟んでいるページを開いて彼女に見せながら
「こないだ誓った通り、経済学の勉強を始めたんだ。もう第五章まで読み終わったよ」
と言った。
それに反応して
「買い直したんですね、原書第九版! しかも一週間足らずで第五章まで進むなんて!」と実花子は声を上げた。それから自身もバッグから本を取りだすと、しおりを挟んだページを開きながら
「実は私も第五章を読み終えたんです、昨夜。これで本格始動ですね、サムエルソン大学ほそぼそ分校!」
そう言って、喜色満面になった。
そこで英也が
「生徒たちの向学心に乾杯!」
と発声。二人はグラスを合わせビールを飲みほし、続いて互いの本の背表紙をこつんと合わせて、さらなる祝意を表した。
それから二十分くらいが経ったとき、入口の戸が引き開けられ
「いらっしゃい! ミニスカ雀姫の留美ちゃんのお越しですよ!」
という店主の声に伴われて、先生が入店してきた。
「いやあ、ごめんごめん! すぐそこのフリー雀荘で打ってたんだけどさ。最後の半荘が長引いちゃって。でも三万円くらい勝ったから、今夜は私が奢るね」
彼女は二人にそう詫びると、実花子の左隣の椅子に腰かけ、こんどは店主に向かって
「マスター、いつものやつ」
と告げた。
「まいど! ウイスキーのオンザロック、ダブルね!」
「それにピーナッツもね」
「あいよ! 留美ちゃん!」
「じゃあ僕はイカの丸焼きとだし巻き玉子」
「あいよ! 瀬川ちゃん!」
「じゃあ私は日本酒を冷やで。それと、あん肝」
「あいよ! 実花子ちゃん!」
「じゃあ俺は、ウォッカをもう一杯……」
「あいよ! ワダ・トシハルさん!」
最後の注文の声は、いちばん奥の席に座り、一人で飲んでいる白髪の男性客が発したものだった。その痩せた五十年配の人物を眺めながら
「初めて見る顔だなー。私、常連客なのにさ。ワダ・トシハル? 少なくとも麻雀界では聞いたことのない名前だね」
留美がそう言った。
やがて飲み物と食べ物が運ばれてきて
「いっただっきまーす! 凄腕の雀姫にカンパーイ!」
と、英也の発声とともに酒宴が始まった。
ちびちび啜る留美、ぐいぐい呷る実花子、むしゃむしゃ頬張る英也。いつしか三杯目のウイスキーグラスを手にした留美は、実花子だけでなく英也のカウンターの上にもサムエルソンの本が置かれているのに気づいた。
「おや? おやおや? やる気まんまんだねえ、瀬川くん」
「はい。入学して一年と二か月。ようやく学びの心が芽生えました」
「ほう、気に入った。それではさっそく教えて進ぜよう」
留美はそう言い
「きょうは何章から?」
こんどは実花子に声をかけた。
すると
「第五章の『討議のための例題』からです。瀬川さんもそこまで進んでいるので」
と彼女は答え
「私が教えていただきたいのは、『あなたの両親は、そのまた両親よりも裕福であったか。この問題に対する答は、資本主義対現代混合経済の長短に関して何を示唆しうるであろうか』という例題についてなんです」
そう話して、隣の英也の顔を見た。すると彼は
「僕もその例題が気になっていたんだ。一見面白そうなんだけど、考えていくとなんだか漠然として分かりにくくなって……」
と発言し、その言葉に実花子も頷いた。
「なーるほど」
煙草をくゆらしながら二人の話に耳を傾けていた留美は、そう言うと灰皿でもみ消し、おもむろに口を開いた。
「あなたの両親というのは、ここにいるわれわれ三人の両親と同世代、つまり第二次世界大戦後の資本主義の高度成長のもとで働いてきた人たちということだよね。この人たちがそのまた両親、つまりわれわれ三人の祖父母と同世代の人たちよりも裕福になっているかと問われれば、それはもう間違いない。この数十年間の経済成長が人々の生活水準を大きく向上させたことは確固たる事実だし、若干の例外はあっても全体として見ればそう言うことができるよね」
留美の解説を、頷きながら二人は聴いている。
「次に、かつての資本主義体制と現代の混合経済体制の長所と短所に関する示唆についてだね。では瀬川くん、まず混合経済体制について説明して」
いきなり話を振られてまごついたが、気を取り直して彼は答えた。
「資本主義と社会主義の特色を、ともに備えている経済体制のこと。この体制のもとでは公共機関も民間機関も、ある程度の経済統制が行なわれています。今日の自由世界では、アメリカ、西欧、日本を始め、たいていの経済において政府の産業と民間の産業が程度の差こそあれ混在しているのが事実です」
「はい、よろしい。では実花子ちゃん、どうして混合経済体制という考え方が必要になったのか述べてみて」
待ってましたとばかりに、はきはきと彼女は答えた。
「第二次世界大戦後、ほとんどの自由世界産業諸国において、政府やその他の公共団体が経済活動で演じる役割はどんどん増えていくばかりでした。この社会的事象の歴史的推移から、資本主義と社会主義という対決の問題提起は、今日ではもはや時代遅れと見なされるようになり、経済体制の問題は混合経済体制の問題として論じることが不可欠になったんです」
「はい、オーケー。実花子ちゃん、よく勉強してるね。それと瀬川くんもね」
二人のほころぶ顔を見て、留美はウイスキーをひとくち啜り、再び講義に戻った。
「すなわち、政府による統制が強くなった現代の混合経済体制のおかげで、かつての資本主義のように甚だしい貧富の格差を生むことなく、人々の生活水準が向上してきたこと、これが長所ね。そして短所は……」
彼女がそこまで話したとき、カウンターの奥から笑い声が響いてきた。
「けーっけっけっけーっ。けーっけっけっけーっ」
けたたましい怪鳥の叫びのような声を発しているのは、一人でウォッカを飲み続けていた白髪の男、ワダ・トシハルだった。
「けーっけっけっけーっ。けーっけっけっけーっ」
椅子から立ち上がり、いつの間にか満席になった店内を歩み寄ってきたワダは、留美に近づくと言葉を吐いた。
「短所は、すぐ元に戻るってことだ。やがて拝金主義者どもの手によって混合経済体制は骨抜きにされ、統制を失った資本主義は狂ったように暴走を始めることだろう。そして、行き着く先は史上最大の格差が支配する二十一世紀の世界ってわけだ」
次に実花子のそばへ来たワダは、彼女の耳元に
「金持ちはお屋敷でくらし
貧しいものは門番をつとめる
神様は金持ちを貴く
貧しいものを卑しくつくり
身分のちがいを定められた」
と、歌うように囁いた。
さらに英也を見下ろすように立つと、ワダは大きな声で言った。
「経済学を学ぶ目的は、経済学者にだまされないようにすることであーる!」
そして最後にズボンのポケットから、しわくちゃの一万円札を取りだすと、カウンター越しに店主に投げ渡し
「貧者からの施しだ! 釣りは要らん!」
と叫んだのち、戸を開け
「けーっけっけっけーっ。けーっけっけっけーっ」
と笑いながら店を出ていった。
「なあに、あいつ」
嵐が過ぎ去ったあとのような店内で、留美が怒気のこもった言葉を吐き捨てた。
「耳元で囁かれて、すごく気持ち悪かった……」
実花子が泣きそうな声を出した。
「経済学を侮辱しやがって。こいつで殴ってやろうかと思ったぜ」
サムエルソンの本を撫でさすりながら英也が言った。
「ごめんなさいね、皆さん」
そう詫びながら、店主が三人のそばへやってきて話し始めた。
「あのワダ・トシハルさんは、身寄りのない可哀相な人でね。ウチへは三か月に一回くらいしか顔を出さないんだけど、いつも一人で静かに飲んで、静かに帰っていく。そういう人なんだ。今日のような騒ぎを起こしたことは、今までに一度もなかった。もしかすると経済学の話に、過剰反応を示しちゃったのかなあ。あの人自身も、アメリカの大学で学び教えた経済学者だったらしいから」
「アメリカの経済学者?」
留美が意外そうな声を出すと
「あの人はね、国による英才教育を受けるほど優秀な少年だったそうなんだよ、聞いたところによると」
店主がそう言い、さらに続けた。
「太平洋戦争の末期、敗色の濃い日本は軍事科学を担うための科学者養成を目的として、ある制度を設けた。それが『特別科学組』というやつだ」
「特別科学組?」
三人が声をそろえると
「そう。『科学の尖兵』とも呼ばれたそうで、理数系に秀でた中学生が全国から選抜され、数学、物理学、化学、英語などを中心科目とした特別科学教育が施されたとのこと」
「ふうん」
「敗戦で軍事色は消えても、特別科学組の制度はしばらく続いた。そして卒業後は新制大学に進んだ者のほか海外へ留学する者も出た。その一人が、ワダ・トシハルさん。優秀な頭脳以外に、彼には普通の人間にはない特別な能力があった。それが、予知能力」
「予知能力……」
「その能力は、幼い頃から彼が身につけていたものらしくてね。アメリカのウォール街の株価大暴落が始まったのは、いつのことだっけ?」
「一九二九年十月二十四日。いわゆる『暗黒の木曜日』が最初の暴落」
との留美の返答に
「そうそう。その十月二十四日木曜日の暴落を、一年以上も前に遥か日本で予知していた二歳児がいた。彼が両親の目の前で積木の家を作っていると、突然『いち・きゅう・に・きゅう・じゅう・にじゅうよん・もくようび』と喋り始め、それから『がらがらがらー・がっしゃーん』と言いながら積木を崩したらしいんだ。それが、あのワダ・トシハルさん。生まれながらの予言者なんだよ、彼は」
「生まれながらの予言者……」
店主の言葉に、三人の身は凍りついた。