小説「けむりの対局」・第14話
勝つのは、どっちだ。升田幸三 vs 人工知能
午前三時の総合病院。
脳外科病棟のナースステーションで面会の許可を受けた早見が、升田をともなって長い廊下を歩いていく。その突き当りに至ると、右手に「早見善介」の名札が付いた、個室のドアがあった。
それを開け、照明を点けて、室内に入る。そこにはベッドがあり、布団の端から、人の顔がうかがい見えた。
升田は近よった。
かつての若者の顔には、いくつもの皺が深く刻まれ、大きな両目はじっと閉ざされていた。だが、チューブやコードで機械と器具に体をつながれてはいるものの、掛けられた布団のなかほどは微かに上下に動いており、この老人が自分の力で呼吸していることを示していた。
「七十九歳のときです、祖父が脳出血で倒れたのは」
ベッドに近づきながら、早見が言った。
「それから十五年もの間、祖父の眠りは続いています。息をしてはいても、眠りは続いたままなのです」
老人の顔から目をはなし、升田は病室の壁に視線を向けた。
そこには、茶色い額縁が掛けられており、そのなかの白地には、太い筆文字が書かれていた。
「飛角千里 升田幸三」
それは、なつかしい筆跡だった。
七十年もの歳月を経た、墨痕だった。
ポナペ島から日本へと向かう輸送艦のなかで、真新しい手拭いに墨をたっぷりと含ませた筆で、親友メメクロのために揮毫し、プレゼントしたものだった。
升田の隣に、早見が立ち、語った。
「戦争が終わり、これからは自由の身。大空を千里の果てまで翔けまわる飛車と角行のように、新しい世のなかを思うぞんぶん生きていこうよ、お互いに。その意味をこめた、この銘を、祖父はつねに座右に置いて、焼野原と化したこの国で、一所懸命に働いてきたと聞きました。そして、あなたが棋界の頂点に立ったように、祖父もまた実業家として成功をおさめることができたのだと……」
その話を聞くと、升田は、ベッドのほうへ向きなおった。
そうして、声を発した。
野太いけれども、澄みとおった、声を発した。
「飛車は、千里ゆく。角行は、千里ゆく」
眠っている老人に向かい、声を発した。
「夢は、千里ゆく。希望は、千里ゆく」
かけがえのない人に向かい、声を発した。
「我は、千里ゆく。友は、千里ゆく」
動いている命に向かい、声を発した。
「身は、千里ゆく。心は、千里ゆく」
繰りかえし、繰りかえし、声を発した。
「心は、千里ゆく。心は、千里ゆく。心は、千里ゆく……」
声は、耳に届いた。
耳は、心に伝えた。
声は、心に届いた。
心は、眠りから覚めた。
十五年の眠りから、覚めた。
ベッドに寝ていた善介が、両目をひらいた。
その目で、友を見た。
その口がひらいて、友の名をよんだ。
「ますだ……」
もういちど、友の名をよんだ。
「ますだ……ひさしぶりだなあ……」
早見はベッドへ駆けより、腰をかがめ、両手を伸ばして、祖父の顔をさすった。
それから、背後を振りかえった。
そこには、誰もいなかった。
病室のドアは閉じたままなのに、そこに升田の姿はなかった。
早見は、窓辺へ行き、カーテンを開いた。
そして、外を見た。
未明の空を、まばゆいばかりの輝きと煌めきが駆け上がり、やがて光の筋となってどこまでも伸びていった。