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小説「升田のごとく」・第19話

 常務室のドアをノックし、耕造は入室した。
 正面のソファーには、左側に大浜強志、中央に安野教授、右側に渡辺彩子が座っている。部屋の左右の壁には、数十枚の作品ボードが大きな袋に入れて立てかけられている。今朝の10時から、次々とここへ呼ばれたプレゼンテーターたちが置いていったものだ。
 1か月前、この部屋で、耕造は仕事のミスを咎められ、恥辱にまみれたのだった。だが今日は、叱られにやって来たのではない。勝負をするために、ここへ来たのだ。
 3人と向かい合わせに、耕造はソファーに腰を下ろした。目の前の安野教授が、おや、という顔をした。将棋道場で会った耕造を、思い出したのだろう。
「ほう。お前も参加してたのか」
 大浜が、侮るような口調で言った。
「髭なんぞ生やしおって。今日は、何を見せてくれるんだ。まさか、お年玉でマイホームが買えます、なんてやつじゃあるまいな」
 雑言を吐く大浜を無視し、袋から作品ボードを取り出すと、耕造はそれをテーブルの上に静かに置いた。
「おお……」
 安野教授が、ため息のような声を漏らした。口を閉ざした大浜の目が、テーブルの上に釘付けになった。秘書の彩子もまた、作品の引力に捕われた。
 新聞見開き原寸大、そのサイズを遥かに上回るような、とてつもない迫力の表現世界が、そこには展開されていた。
 満天の星をちりばめた広大な夜空をバックに、白抜きの筆文字で、左右いっぱいにレイアウトされた「新居一生」のキャッチフレーズ。4つの文字は、今にも紙面から飛び出さんばかりの生命力を漲らせているではないか。
 キャッチフレーズの下には、このビッグプロジェクトを「新居一生」と喝破した所以が、勇ましい論調で述べられている。
「史上、初。60階建てタワーマンション、3棟から成る街。先取りした未来。これぞ、新居。史上、初。銀座より2㎞圏内に総戸数4342の巨大コミュニティ。実現した夢。これぞ、新居」
「人、出会う、都心と海を庭にし、星空に手を伸ばす日々に。これぞ、待ち望んでいた、一生。人、出会う。快適も利便も安心も健康も、憩いも、誇りも、すべて満たされた日々に。これぞ、生きる価値のある、一生」
 3人の審査員たちは、驚きのあまり、作品から顔を上げることができないまま凝固してしまった。その様子を見て、耕造は朗々とした声で言った。
 制作の意図に関しましては、あえてご説明の必要もないでしょう。何かご質問がありましたら、お答えいたしますが」

 午後7時。
 60名の制作スタッフは、再び大会議室に呼び集められた。
 各々が心血を注いだ、60点の作品。そのプレゼンテーションが2時間前 に終了し、選考会議を経て、間もなく運命の結果が発表されようとしているのだ。
 ドアが開き、3人の審査員が、大浜、安野、渡辺の順に部屋へ入ってきた。秘書の彩子は、袋を2つ、脇に抱えている。
 大浜が、重々しく口を開いた。
「諸君。今日は一日、ご苦労であった。昨年暮れからの諸君の努力により、本日の社内制作企画競争は、誠に意義深いものとなった。すなわち、3日後の帝国不動産30社コンペに、我が新冨エージェンシーが自信を持って提出できるクリエイティブ企画案が、見事、生み出されたのである。それでは、発表する。採用企画案を制作したのは……」
息を凝らす、60名。沈黙の中に、大浜の声が響いた。
「増田耕造君だ」
 室内が、どよめいた。
 まさか、あの、増田が。窓際コピーライターの、増田が。ミスを犯しては、叱られてばかりの、増田が。風采の上がらない、暗い顔をした、ボンクラの、増田が。得意先の部長に灰皿を投げつけられ、1か月も会社を休んでいた、増田が、女房に離婚され、その女房が復職してきて、今すぐにでも会社から放り出されそうな、増田が。あの増田が、あの増田が、あの増田が……。嘘だろ……。冗談だろ……。何かの間違いだろ……。
「増田君、前へ!」
 大浜の大声に、室内は再び静まり返った。
 耕造が進み出るのと同時に、渡辺彩子が2つの袋からそれぞれ作品ボードを取り出し、掲示板に並べて置いた。
「先生、講評をお願いいたします」
 大浜の言葉に促されて、安野教授が掲示板の左側へ進んだ。もう一方の側には、耕造が立っている。しいんとした聴衆に向かって、教授はおもむろに口を開いた。
「それでは、審査の経緯と結果につきまして、簡潔に述べさせていただきます。皆様よりご提出いただいた60作品の中から第1次選考として30作品を選出し、さらに第2次選考として10作品に絞りこんで、審査を進めてまいりました。それらの作品はいずれも力作揃いでございましたが、中でも2つの作品が傑出しておりました。1つは増田耕造さん、もう1つは西川由木子さんの作品です」
 掲示板の右には耕造の、左側には由木子の表現企画案ボードが置かれている。由木子の作品は、「東京夢区に住みましょう」というキャッチフレーズを立て、様々な生活シーンを撮った数多くの写真をコラージュするというデザインを施したものだった。
「最終選考では、この2作品のうち、どちらを採用するかという議論が交わされました。まさにドリームプロジェクトと呼ぶにふさわしい、このコミュニティで営まれる夢のような暮らしを鮮やかに活写した西川さんの作品は、実に素晴らしい出来栄えでした」
 教授の声が、大きくなった。
「しかし、増田さんの『新居一生』は、それ以上に素晴らしかった。この4文字が放つ、強烈無比のインパクトは、もはや奇跡と呼ぶほかはありません。このフレーズには、そう、偉大なる魂のようなものが、旺盛な生命力を持って宿っている。この生命力こそが、必ずや、次なる30社コンペを勝ち抜く力となるものと、私は信じて疑いません。長年、広告研究の世界に身を置いてきた私ですが、未だかつて、これほどの気高さを湛えたキャッチフレーズに出会ったことはございません。広告学徒として今なお道なかばの私の心を、この『新居一生』の4文字が大いに励ましてくれ、救ってくれた、そんな気がしてならないのです。言わば、この『新居一生』は、私の恩人でもあるのです!」
 熱弁を振るいながら、安野教授は耕造の顔に目をやった。耕造と視線が合ったそのとき、教授はウインクをした。

 午後8時半。
 耕造は、三沢がオフィスを構えるビルへやってきた。社内コンペ勝利の件は、まだ三沢には伝えていなかった。いきなり訪問し、吉報を告げて、パートナーを驚かせてやろうと考えたのだ。
 エレベーターで階上へ行き、フロアに降り立ったとき、耕造は一人の青年と出くわした。三沢の会社に勤める、あのオペレーターだった。パワーマックG4を駆使し、「新居一生」のキャッチフレーズを作字してくれた彼は、今回の社内コンペの勝利をもたらした功労者の一人だ。
 耕造の顔を見るなり、青年は目を輝かせて言った。
「増田さん、おめでとうございます! やりましたねえ!」
「え?」
 耕造は訝った。どうしてこの青年は、コンペに勝ったことを知っているのだろう。
「先ほど、御社の西川さんから電話をいただいたんですよ。採用されたのは、増田さんのコピー案で、西川さんの案は惜しくも次点だったって。でも、すごいですよね。1位と2位を独占するなんて、うちの社長、もう大はしゃぎですよ。やったやった、両方ともうちでやった甲斐があったって」

「どういうことだ!」
 オフィスに入るなり、耕造は三沢に詰め寄った。
「説明しろ! 俺と由木子を、天秤にかけていたのか!」
 怒りを顕わにした耕造の形相に、たじろぎながら、三沢は答えた。
「ま、増田さん、お、落ち着いて聞いてください。今だから言いますけど、私が増田さんにコンペ参加の話を持ちかけたのは、実は西川さんの指示を受けたからなんです……」
「由木子が指示を?」
「ええ、そうなんです。帝国不動産の企画競争に勝つための新戦力として、大浜常務にスカウトされた西川さんは、初出社したその日に私に電話をかけてきました。社内コンペの作品制作を手伝ってくれないかと。昔、西川さんが御社に在職されていたとき、私とはよくいっしょに仕事をした仲でしたからね。それで復職するなり、お声をかけてくださったんでしょう」
 耕造は、黙って聞いている。確かに、自分や由木子は、昔から三沢にデザインの仕事を発注していた。性格的に軽薄なところはあるが、ことデザインワークに関しては、三沢の腕は悪くないからだ。
 三沢は、釈明を続けた。
「初回の打ち合わせが終わった後、西川さんは私に訊きました。増田さんのことについてです。会社を休んでいるそうだけど、あの人もコンペに参加するのかと。それで私は答えました。増田さんは、離婚されて一人ぼっちになってからは、すっかり気力が衰え、往年の面影はまるっきりなくなってしまいました。今では、自他ともに認める窓際族で、職場でも相手にしてくれる人間は一人もいない状況らしいです。だから、コンペが行われることすら、増田さんは知らないでしょうと。すると、私の話を聞いていた西川さんは、こう言ったのです。あの人にも、コンペの情報を与えてあげてほしいと、自分の作品とは別に、あの人の書くコピーにもデザインをして作品の形にしてあげてほしいと。増田さん、西川さんは、そうおっしゃったのですよ。それで私は、ご自宅でお休み中の増田さんに電話を入れ……」
「嘘をつけ!」
 耕造は、気色ばんだ。
「由木子がそんな殊勝なことを言うはずがない! あれは身勝手な女だ! 自分さえ良ければそれでいい、いつもそう思っている女なんだ!」
「嘘じゃありません」
 三沢は、反論した。
「本当なんです、増田さん。西川さんは、本当にそうおっしゃったんです」
「嘘だ! この野郎! 俺と由木子のどちらかがコンペに勝てば金になる、そう考えて、二人を利用sじたんだろ! 見損なったぞ、この大噓つきめ!」
 激昂した耕造が声を荒らげたそのとき、オフィスのドアの方から声がした。
「嘘じゃないわよ」
 その声に、耕造が顔を向けると、視線の先に女が立っていた。
 女は、5年前と、さほど変わっていなかった。理知的な風貌も、毅然とした態度も。
「嘘じゃないわよ、三沢さんの言っていることは」
 由木子は、繰り返して言った。
「フェアじゃないと思ったのよ、制作本部の中で、あなただけがコンペのカヤの外に置かれていることが。ただそう思っただけ」
 それから彼女は、三沢の方へ歩いてきた。グレーのスーツに茶色のコートを着て。
「三沢さん、今回はどうもお疲れ様でした。結果は残念だったけど、私としてはベストのものが作れたと満足しています。お預けしていた私の資料、いただいて行きますね」
 そう言うと由木子はファイルを受け取り、きびすを返してドアへ向かった。ドアが開き、閉じて、別れた妻が姿を消した。

 由木子の後を追って、耕造はオフィスを飛び出した。
 エレベーターから路上へ降りて、夜の銀座通りへ。人込みを掻きわけて走っていくと、前方に茶色の背中が見えた。由木子だ。
 走り寄った耕造は、地下鉄駅へ階段を降りようとしている彼女に声を投げかけた。
「待ってくれ」
 由木子が振り向いた。
「話がしたいんだ。時間をくれないか」

 銀座2丁目。メインストリートから少し外れた通りに面した、一軒のバー。
 そこは、もう20年近い昔、まだ結婚する前の二人がよく酒を飲んだ店だった。
 古いカウンターに並んで座り、耕造はウイスキーの水割りを、由木子はジンライムを注文した。懐かしい時代にタイムスリップしたかのような思いに包まれながら、耕造は口を開いた。
「お礼が言いたいんだ」
「お礼?」
 由木子が問い返す。
「僕に、コンペの件を知らせてくれた、お礼さ。君のおかげで、僕は採用案を作ることができた。そうでなかったら、コンペに勝っていたのは君だったのに」
「…………」
「どうして、この僕に、情けをかけてくれたんだ?」
「勘違いしないで」
 由木子が言った。
「別に、情けをかけたわけじゃないわ。さっきも話したように、私はフェアな勝負をしたかっただけ。ただそれだけよ。まさか、あなたなんかに負けるとは思わなかったけどね」
 漂う、沈黙。それを払いのけるように、耕造は再び話し始めた。
「明日花は元気?」
「…………」
「もう16歳か。高校生活を楽しんでいるといいんだけど」
 耕造のその言葉に、由木子は意外な返答をした。
「まだ中学生よ」
「え?」
「中学に入って、まだ2年目なの、明日花は」
「ど、どういうこと?」
 またしても、沈黙。長く、重く、時間が止まった。
 ようやくして口を開いたのは、由木子の方だった。
「不登校と、ひきこもり。あの子の進級が遅れたのは、そういうわけよ」
「不登校? ひきこもり?」
 耕造は驚きの声を発した。
「どうして、そんなことに?」
 由木子は表情を変えない。だが心の奥では、彼女が大きな苦しみに苛まれていることは明らかだった。
「あなたと別れて、調布の実家へ帰った。明日花も、地元の小学校に入った。でも、あの子、なじめなかった、新しい環境に。いつも、怖がっていた。怯えていた」
「怖がるって? 怯えるって? いったい、何を?」
「男の人よ。学校の先生も、クラスの男の子たちも。街を歩く大人の男たちも……」
 その返答に、耕造は大きなショックを受けた。あの日の出来事を、思い出したからだった。5年前の夜、裸で抱き合う父親と少女の写真に、顔を激しく歪ませた、明日花。
「僕のせいなんだろう?」
 耕造は、苦渋の言葉を吐いた。
「僕のせいに決まってる。僕が浮気なんかしなければ、あんな写真なんか存在しなかったのに。明日花の純真な心を傷つけることなんかなかったのに……」
 だが、由木子は、穏やかな口調で言った。
「それは、分からない。医者や心理カウンセラーに相談してみたけど、人間がなぜひきこもるのか、それは究極的には分からないようよ。回避性人格障害というらしいんだけど、心の内側のこと、外側の社会的なこと、いろいろなレベルの問題が複合的に絡みあって、ひきこもりに至る、そういう説明を受けたわ。でも、幸いなことに……」
「幸いなこと?」
「不登校児を受け入れてくれる、中学校を見つけたの。私立の学校なんだけど、単位制と無学年制を採用していて、専任のカウンセラーもいてね。そこへ明日花を通わせているの、去年から。何とか、ひきこもりも治って、勉強の遅れを取り戻しているわ」
「…………」
「そこを卒業したら、留学させるつもりよ。アメリカの高校へ」
「え……」
「ウェストバージニアの私立高校。日本にはないおおらかな環境の中で、あの子にいろんなことを学ばせたいの。強い自立心を持った人間に育ってほしいのよ」
「…………」
「あの子も、それを望んでいるわ」
「お金がかかるんだろ……」
「もちろん、何万ドルもね。その先、あちらの大学へ進学するとなると、さらに数万ドルのお金が必要になるわ。あなたから送られてくる毎月の養育費だけじゃ、とても足りない金額がね」
 微かに笑って、由木子はジンライムを啜った。耕造は、黙りこんだ。
「私が、大浜常務の誘いを受けて、あの会社に復職したのも、そういう事情があるから。それまで勤めていたプロダクションの給料なんて、たかが知れてるもの」
「…………」
「私はお金が要るのよ。明日花のために。だから、今日のコンペも頑張ったわ。採用されて、30社コンペにも勝って、ご褒美に制作部長にしてもらおうと。もっともっと給料を上げてもらおうと。だけど、駄目だった……」
「…………」
「あなたの作品、見事だったわよ。おめでとう」
「…………」
「あら、もうこんな時間。私、そろそろ帰るわね。明日花とハナが待っているから」
 そう言うと、椅子から立ち上がり、由木子は店を出ていった。
 残された耕造は、水割りをぐいっと呷り、長い息を吐いた。 
 


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